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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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大乗六誤三利
 大乗とはお釈迦様の死後に創られたものであり、お釈迦様の真の教えとは異なり、過誤が多いものじゃ。
 真の悟りを得たお釈迦様の英知に及ばない者達が作り上げた故に、お釈迦様の教えを広めるつもりで逆に間違いを広める羽目に陥っているのじや。
 その間違いの中でも次の六つのものが最も愚かであり、人々が広めたり、従ったりしてはならないものなのじゃ。

 ① 生まれつきの身分による差別。

 これは所謂インドのカースト制度と呼ばれるものじゃ。
 お釈迦様は明確にこれを否定しておる。
 しかし、大乗ではこれを承認しておる。
 このことは明らかな誤りであり、お釈迦様の教えからも、今日の人道上の常識からも外れておる。
 大乗を作った者達が実際にはお釈迦様の教えをよく学ばず、理解せず、間違った教えを信奉していたせいじゃろう。

 元々、お釈迦様の時代の古い教えであるヴェーダでは、倒れた巨人が人の元となり僧侶の階級であるバラモンが頭から生じ、武士であるクシャトリアが手から生じ、商人のバイシャが腹から生じ、労働者階級のスードラが足から生じたとあるのじゃ。

 この暗喩はそれぞれの身分の者が社会で果たす役割を示しておるのじゃ。
 バラモンが精神的な指導をして、武士が敵を防ぎ、商人が社会を豊かにして、労働者が社会を進ませるというような意味なのじゃ。
 社会役割説なのじゃ。
 各々が役割を分担するだけで、それぞれの階級に上下の差は無いのじゃ。
 
 お釈迦様はこれを正確に理解し、役割を果たさなければバラモンもバラモンではなく、それぞれの役割に上下もないと正しく教えたのじゃ。
 しかし、後の愚かなバラモン達が新しいヴェーダを捏造し、身分は生まれつきのものであり、バラモンが一番偉いと我田引水の教えを広めたのじや。
 そのように間違った教えを広め、定着してしまった故にインド人達は今も苦しみ、嘲笑を受け、非難を浴びているのじゃ。

 その過ちを大乗は受け入れ、正しいものとしておる。
 これは明白な誤りとして退け、捨てなければならないものじゃ。
 これこそ大乗の最大の誤りと言えるのじゃ。

 ② 女子が悟れないという誤り。

 大乗では女子は悟れないというのじゃ。
 法華経では竜女が一度男になり、それから悟ったなどという無理な話を捏造しておる。
 女子でも修行すれば悟りを得られることは、尼僧の告白であるテーリーガーターにおいて証言されておる。
 女子も男子と同じく、正しく修行すれば悟りを得られるのじゃ。

 ③ 悟りを得るのに何劫もかかる。

 華厳経などでは人が悟りを目指しても、何度も何度も生まれ変わって修行しなければならんというのじゃ。
 今生きている時間では悟りを得るには足りないと書いておる。
 そのような思想も明白な誤りなのじゃ。
 
 お釈迦様が座って七日で悟ったように、本当にやる気があれば今この世で修行するだけで、十分に悟りは得られるのじゃ。

 ④ 阿羅漢の悟りの後に如来の悟りがある誤り。

 法華経では阿羅漢となり、心の悟りを得ていた聖者も後に生まれ変わって如来になるという、無理な話も展開しておる。
 これも従来の仏説より、自らの教えを高める為の嘘なのじゃ。
 一度、阿羅漢となれば真の悟りを得て、もはや生まれ変わらないのじゃ。

 ⑤ 一切空と教える誤り。

 大乗の般若経典では一切が空であると説いておる。
 これはお釈迦様の否定した外道の教えに近いものじゃ。
 外道はこの世には善悪も無く、善悪の報いも無く、修行もその成果もないと説いたのじゃ。

 お釈迦様はこれを否定して、この世には善悪があり、善悪の報いがあり、修行とその成果もあると説いたのじゃ。
 今、これを知らず善悪も修行も成果も無く一切を空と教えたのでは、外道の主張と変わりなくなってしまうのじゃ。
 一切が空ではなく自らの心身と自らの観念を空と観るべきであると、教えるのが正しいのじゃ。

 ⑥ 真のお釈迦様の教えを非難する誤り。

 大乗ではお釈迦様の真の教えを小乗として非難しておる。
 これも大きな誤りなのじゃ。
 教えを非難することは僧がしてはならない戒の一つの筈であるが、それを自ら破り、真の悟りへの道を閉ざす大罪なのじゃ。
 
 大乗にはこのような誤りがあるのじゃ。
 しかし、全てがいかんのではないのじゃ。

 悟りを得る前に行う菩薩の請願は悟った者にこの世に止まらせ、教えを説くのに役に立つものじゃ。
 空の法も適切に用いれば、執着を去り、自我を滅し、認識をも滅することができるじやろう。
 真言や陀羅尼を唱え、神仏と一体化する法も集中の方法としては優れたものじゃ。

 それらの誤りと優点を知り、果実を摘む者が善き果実と悪い果実を見わけて摘むように、修行者は大乗の法をもよく選択して実践するとよいのじゃ。


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わしの考え | 21:19:28 | Trackback(0) | Comments(0)
善悪は心によって成されるのじゃ。
  お釈迦様は福楽を求めるならば、悪いことをせずに善い事をするのじゃ、と教えておる。
 そのような善悪も、心によって成されることをも教えているのじゃ。
 行為とその結果がどうであろうと、心に悪意があれば悪であり、善意があれば善いことなのじゃ。

 例えば道の真ん中にでかい石が転がっていたとしよう。
 このでかい石を悪意のある者が、
 「道の真ん中に転がっていてもみんな気付いて避けてしまうから、道の端に転がして誰かを転ばそう」などと考えて道の端に転がせば、悪となるのじゃ。

 善意を持つ者が、
 「このような石が道の真ん中にあれば、道行く人が躓くかも知れんから道の端に転がしておこう」と、考えて道の端に石を転がせば、善となるのじゃ。

 このように道の真ん中にあった石を道の端に転がすという、行為はまったく同じでも、心に悪意があれば悪となり、善意があれば善となるのじゃ。
 そしてそれぞれに相応しい報いを、心がもたらすのじゃ。

 このような基準を知らなければ、善い事をしているつもりで善くない事をしている事もあるものじゃ。
 そのような例は多くあるじゃろう。

 本来は善い事として始めた事が、次第にただの習慣となり、やがては欲や見栄のために行うようになれば、もはや善ではなくなるものじゃ。
 或いは常日頃から人のためにと掃除などをしていたが、ある日心に怒りがあるまま習慣として掃除をしていれば、善いことではなくなるのじゃ。

 そのように善事とは心で成される故に、自らの心の持ちようで善も悪になってしまう事があるのじゃ。
 他の人のためにと慈悲の心から行うのが、本当の善事なのじゃ。

 例え莫大な金銭を施そうとも、見栄や何かの得をするために行うならば善ではないのじゃ。
 僅かな施しでも哀れみの心で行えば善事となるのじゃ。

 善を成そうとする行いが、善ではなくなってしまわないように、常日頃から自らの本心をかえりみて、何事かを成すときにこれは慈悲からの行いなのか、悪意や怒りや欲から行おうとしているのか吟味すべきなのじゃ。
 そうすれば心も整えられ、善事を間違わずに行う善人となり、福楽も付き従うようになるのじゃ。
 自らの本心を観察しながら、実践あるのみなのじゃ。


運気向上法 | 12:37:30 | Trackback(0) | Comments(8)
更に徹底した観察をするのじゃ。
 お釈迦様の説いた法は集中の他には多くが観察の法なのじゃ。
 あらゆる方法で徹底した観察をすることこそ悟りに向かう方法なのじゃ。

 縁によって起こる心の働きを観る縁起の法だけではなく、さまざまな方法をお釈迦様は教えているのじゃ。
 五蘊によって心身を観察するのもその方法の一つなのじゃ。
 別に身受心法の四つに区別して観察する方法もあるのじゃ。
 特に明確にこれらの法に名を付けているのではないが、それぞれ別の方式によるのは確かなのじゃ。

 或いは又目などの感覚器官と視覚などの感覚を十二の処にわけて観察するものもあるのじゃ。
 更に感覚の世界を足して十八処の観察をするのもあるのじゃ。

 それら全てに共通するのはとにかく徹底した観察をするという事なのじゃ。
 心身を徹底して観察することで自我も完全に観察され、厭離が起こるのじゃ。

 その観察も難しいものではないのじゃ。
 人が生きて行く上で、度々観察は行っているものじゃ。

 医者が患者の顔色などを観て診断している時、観察を行っているのじゃ。
 或いはパン屋がパン生地を捏ねて混ざり物がないか観ている時も観察を行っているのじゃ。
 
 母親が子供の服を選ぶ時、観察をしているのじゃ。
 道を渡る時に車が来ないか見渡しているのも観察なのじゃ。

 それらの観察を自らの心の中に向ける時、変容は起こるのじゃ。
 ただ集中力が無ければ、観察は続かないのじゃ。

 そのように観察は誰にでも出来る方法であり、自分に向いた方法を探すのが続ける原動力となるのじゃ。
 悟りを目指す修行者は自らに合った観察を日々実践し、進んでいくがよいのじゃ。

 


悟りを得るための修行法 | 20:29:58 | Trackback(0) | Comments(0)
観察は習慣によってはいかんのじゃ。
 苦を滅するためには先ず最初に、それがどのような苦であるかを見わけなければならんのじゃ。
 苦が見わけられなければ、原因も分からず、滅することはできないのじゃ。

 例えば周りに人が居ない孤独と、愛する者と別れた苦は違うものじゃ。
 周りに人が居ないと不安や心細という感情があり、それが苦になるものじゃ。
 孤独の苦なのじゃ。
 それは自分という者があるという観念に対する執着が原因となっているのじゃ。

 愛する者と別れた苦は愛別離苦といい、愛する者への執着が原因なのじゃ。
 共に周りに人が居らず、孤独を感じる故に、同じものと間違いやすいが感じる苦は違い、原因も違うのじゃ。

 そのように同じような状況で同じ苦に見えても、それぞれ違う苦があるのじゃ。
 苦が違えば原因も違い、それぞれに自らの本心を観察して見わけなければならんのじゃ。

 観察というものに慣れてしまうと、時に似たような苦には同じものであろうと見当を付けてしまい、同じ原因として観たりするものじゃ。
 しかし、実は違う苦であれば原因も異なり、観察も効果が無かったりするのじゃ。

 観察は常に自分の心の中に新しい何かを発見する心構えで行わなければならんのじゃ。
 習慣化してしまうと観察ではなくなるのじゃ。
 観念を観ているだけになってしまうのじゃ。

 記憶に依存している人間は、同じことを繰り返していると、つい習慣化してしまい、観念遊戯に陥ってしまうものじゃ。
 観念をもてあそぶのは観察ではないのじゃ。

 常に心の中に新しい何を見つけようと、全ての注意力を注ぐのが観察なのじゃ。
 それによって困難な苦の見わけもつくものじゃ。

 更に人は生き物の本能によって苦しいことからは逃げようとするから、苦からも目を逸らす作用が働くのじゃ。
 苦が人の心にあり続けるのも、そのような逃避があるからなのじゃ。
 時には何年も、或いは何十年も苦から逃避し続けて一生苦しんだりもするのじゃ。

 そのような逃避からも脱却するために、観察は全ての注意力と集中力をもって行わなければならんのじゃ。
 全ての注意力と集中力をもって観察を行えば、苦も見分けがつき、確実に滅することもできるのじゃ。
 このように観察は習慣によってはならず、逃避も乗り越えていかなければならぬ故に真に困難であるが、実践できれば確実に苦を滅し、悟りに導くことができるのじゃ。
 修行者は力を尽くして実践するがよいのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 23:47:45 | Trackback(0) | Comments(8)
一切世間は無常なのじゃ。
 人間は同じような環境が続くと、いつまでもこのままでいられると思ってしまうものじゃ。
 それにはこのままでいたいという願望もあり、真実を見ないようにしているのじゃ。

 実際にはこの世では全ては変化してとまらないものじゃ。
 世間では常にあるものは何も無いのじゃ。
 それを無常とお釈迦様は教えたのじゃ。

 全ての世間のものはやがて滅していく性質のものなのじゃ。
 不安や恐れからそれを見ようとしていなければ、労病死の定めが訪れた時に嘆くことになるのじゃ。

 それは目覚めた者の肉体も同じなのじゃ。
 心は既に不死の境地にあっても、肉体は滅びていくものじや。

 お釈迦様も涅槃に入り、その後の多くの目覚めた者達ももはやいなくなったのじゃ。
 わしもいずれはいなくなるものじゃ。
 それは予め定められたことなのじゃ。

 仏陀も肉体がある間だけ存在し、道標になることが出来るのじゃ。
 人として生まれ、正しい道を示す者が居る間に、修行できる環境にあることは実に稀なことなのじゃ。
 稀な機会を逃せば後に悔やむことにもなるじゃろう。
 
 この稀な機会にただひたすらに修行に励めば不死の境地にも至れるのじゃ。
 お釈迦様が無情を説いたのも、世間を超えた所に無限の境地があるからなのじゃ。
 修行者はこの有限の時間で無限の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。


元気が出る説法 | 13:45:53 | Trackback(0) | Comments(3)
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