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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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足跡と足元を見て進むのじゃ。
  長く修行している者の中には、もはや飽きてしまったとか、成果も見えないのに続けるのは苦しいとか想う者もいるじゃろう。
 それは悪いことではないのじゃ。

 昔からそのように感じる者は多いのじゃ。
 それを苦にしたり、否定したりすると本心もわからなくなるのじゃ。

 そのような修行への熱意を取り戻すにはいろいろ工夫が必要なのじゃ。
 先ずは今まで辿ってきた修行の過程を振り返ってみるのじゃ。
 日記をつけている者ならば、最初の頃から読み返してみると善いのじゃ。

 修行を始める前のことを読めば、以前は苦しんでいたことも、今では夢のように感じるかもしれん。
 そのように成果が見られれば、やる気もまた湧いてくるものじゃ。

 人間は何の成果も見えない仕事をさせるとだんだんと飽きて、能率も下がるというのじゃ。
 時には以前の状態を振り返って、今までの修行を積んできた足跡を振り返ってみるとよいのじゃ。

 次には最初の話と矛盾しているが、過去も未来も思わずに今、ここでだけ修行しようと思うことなのじゃ。
 今日のこの日、今この時だけ実践すると思えば気も楽になって、修行に励めるのじゃ。

 そもそも修行に飽きたり、苦に感じるのは、今までやってきたのに成果があがらなかったと、過去のことを思い出しているか、その修行がこれからもつづくと未来を思うから憂えるのじゃ。
 過去や未来を見て、今を見ていないのじゃ。
 そのようにして修行に飽きたり、苦に感じたりするのじゃ。

 それを防ぐために、今日の今、この時だけ修行しようと決心するのじゃ。
 そうすれば過去も未来もなく、今ここにあることもできるのじゃ。
 それが足元を見ることなのじゃ。
 
 更には環境を少し変えてみるのもよいのじゃ。
 服を変えるとか、座布団を変えるとか、いろいろ変えてみるのじゃ。
 それだけでも新鮮な気持ちになってやる気が出るものじゃ。

 瞑想の助けにするために、今までやったことのないこともやってみるとよいのじゃ。
 お香を焚いてみるとか、自然の音や瞑想に向いた音楽をかけるのもよいのじゃ。
 集中のための曼荼羅やヤントラ等の図形を壁にかけるのもよいのじゃ。
 信じる神仏の図像も使うとよいのじゃ。

 それに囚われてはいかんのじゃ。
 囚われない程度に何でも助けになるものを使ってよいのじゃ。
 瞑想は形にも囚われないで善いのじゃ。
 
 自分がやり易いようにいろいろ工夫してとにかく続けるようにするのじゃ。
 特に病とか多忙で続けるのが難しいと思う時こそ実践すべきなのじゃ。
 毎日五分でも欠かさず実践することで、大きな力になるのじゃ。
 日々の実践で整えられた心が、苦から逃れる避難所になるのじゃ。
 修行者は工夫して日々実践するとよいのじゃ。



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元気が出る説法 | 23:53:39 | Trackback(0) | Comments(2)
不死の境地
 悟りを得られれば不死の境地に入れるとお釈迦様は説いたのじゃ。
 不死の境地とは死を超越した境地なのじゃ。
 苦の最たるものである死を超越することがお釈迦様の教えの真髄なのじゃ。
 仏教の全てはそのためにあるのじゃ。

 死を超越したならばもはや他の苦も一切なくなるのじゃ。
 死以上の苦はないからのう。

 それでは人はどのようにして死を超越することが出来るのじゃろうか。
 死とは肉体の働きが停止することなのじゃ。
 それに伴って肉体に拠っていた全ての能力もなくなるのじゃ。
 感覚とか思考とか感情とか認識などもなくなるのじゃ。
 それらが自分であると思っていたならば死は自分の消滅であり、絶望しかない現象なのじゃ。

 しかし、肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。
 そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

 実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
 人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
 それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

 例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということもないじゃろう。
 自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
 自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

 瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
 自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
 自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
 境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

 そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
 自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

 更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
 天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
 膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

 全てであるならば二重の意味で死は無いのじゃ。
 死という観念はなく、死という実際も無いのじゃ。
 全てである意識が存在するだけであれば、肉体の消滅はその一部が変質するだけとわかるからなのじゃ。
 それが不死の境地なのじゃ。
 もはや永遠に意識があるだけなのじゃ。
 人は誰でも死の瞬間まで自らを知る努力を続けることで、その境地に到達することもできるのじゃ。
 


悟りの真実 | 13:59:58 | Trackback(0) | Comments(4)
心を観て苦を滅するのじゃ。 

 お釈迦様がこの世は一切皆苦と説かれたように、今も多くの者が苦しんでいるじゃろう。
 その苦にもまた多くの種類があるものじゃ。

 金が無いのに苦しむ貧窮困苦
 愛する者と会えなくなる愛別離苦
 怨み憎む者といがみあう怨憎会苦
 欲するものが得られない欲求不得苦  
 そして万人が避けられない老病死苦等と人はさまざまな苦に悩まされるものじゃ。

 それらの苦を滅するには苦を生み出す自らの心の働きを、完全に観察しなければならないのじゃ。
 心を観ることから逃避していれば苦はいつまでも起こり続けるのじゃ。

 苦とは心から起こるものであるからなのじゃ。
 貧窮困苦などは環境の要因であるから、心から起こるのではなく、心を観てもどうにもならないと想う者もあるかもしれん。
 しかし、貧窮も実際はそれを苦にする者の心からあるものなのじゃ。
 金が無いことへの不満とか、将来への不安とか、金に執着する心が苦になるのじゃ。
 それらがなければ貧窮も苦ではないのじゃ。

 そのような苦を心の中にはっきりと観て、原因からも観察する事で苦はなくなるのじゃ。
 誰かが苦を持っていてそれが完全に解消するということがあったならば、それは心の中の苦を見る事ができたからなのじゃ。
 それ以外に苦がなくなることはありえないのじゃ。

 環境が変ることで苦は一時的に感じなくなることも在るのじゃろう。
 しかし、その場合は苦をもたらした環境に戻ればまた苦が感じられるようになってしまうのじゃ。
 苦を完全に解消するには、自らの心の中にある苦をはっきりと観る必要が在るのじゃ。

 とはいえ心をどのように観察すればよいのかと、疑問に想う者もいるじゃろう。
 そのためにお釈迦様は縁起の法を説いたのじゃ。
 人の心は刺激に対して同じ反応をするように出来ているのじゃ。
 そのために同じ原因からは同じ苦が何度も起こるのじゃ。
 それを自己同一化している故に、苦は自分のものとして人を悩ませるのじゃ。

 観察して自己同一化がなくなれば、苦は自分のものではなく、悩むこともなくなるのじゃ。
 それが観察によって苦が無くなる理由なのじゃ。

 要は観察すればよいのであるから縁起の法だけでなく、さまざまな方法で苦を滅することも出来るのじゃ。
 最近の心理学でもいろいろな方法で心を観ることができるようになっているのじゃ。
 どのような方法でも人が真に苦から逃れることが出来るのは、苦を生み出す心の中をありのままに観たことによるものであると知るがよいのじゃ。
 今苦を抱えている者は自らの心をありのままに受け入れ、観察して苦を取り除くと善いのじゃ。


苦滅の道理論 | 22:13:22 | Trackback(0) | Comments(4)
自己イメージを新しくするのじゃ。
 人が自己イメージを持ち、それによって自己を認識してることは既に書いたのじゃ。
 その自己イメージの働きを観察できれば無我にも至る事ができるのじゃ。
 十二因縁とはそのためのものなのじゃ。
 自分があるという観念から好悪が生まれ、執着から苦も起こるというのじゃ。

 その自分があるという観念が無明であり、自己イメージによるものなのじゃ。
 自己イメージによって次々に起こる働きを観察することで、自己イメージそのものも厭離できるというのじゃ。

 そのように自己イメージがあれば諸々の苦が起こるのであるが、自己イメージが健全でなければ修行もままならないこともあるのじゃ。
 自己イメージとはその者の能力を限定する役割も果たしているからなのじゃ。
 自分は何をやっても駄目だという強い否定的な自己イメージをもっていると、その通りに行動し、修行も達成できずにやめてしまうこともあるじゃろう。
 否定的な自己イメージによって自分の能力も否定してしまうからそうなってしまうのじゃ。
 そして更にそれを改善しようとしても、思考すらも否定的になってしまうから行いも常に失敗してしまうのじゃ。
 
 逆に自分には何でも出来るという強い肯定的なイメージがあれば、修行も完成できる可能性が高くなるのじゃ。
 それもまた自己イメージによって能力が開放されたからなのじゃ。
 自己イメージが善ければ考え方も善いものなるから迷うことなく進むことが出来るのじゃ。
 このように自己イメージによって能力や結果が左右されてしまう故に、健全な自己イメージを持つ事が大事なのじゃ。

 しかし、自己イメージも観念であるから改善することは出来るのじゃ。
 その法が以前にも書いた献身の道である神仏のイメージと一体化する法なのじゃ。
 自分のイメージを神仏のイメージと一致させることで、自分のイメージに縛られずに智恵や能力を開放することができるのじゃ。
 それはインドのヨーガに古くから伝わり、密教にもある法なのじゃ。
 古くから生身の者が神仏の智恵と力を授かる法とされてきたが、現代の心理学も漸く追いついてきたのじゃ。

 この法を自己イメージの改善に使うには、出来るだけ大きな神仏のイメージを使うとよいのじゃ。
 自己イメージが卑小である者は、物理的にも自分を小さなものとして感じているのじゃ。
 それを打破するために出来るだけ大きなイメージを用いるのじゃ。
 浄土三部経にあるような身長何キロもある阿弥陀如来になるというような大きさがよいのじゃ。
 少なくとも十メートルぐらいの神仏を思い描くのじゃ。

 強いイメージが出来たら自分の体と合体したとイメージするのじゃ。
 献身の名の通り、神仏に心身を献納し尽くして自分のイメージを抹消するのじゃ。
 神仏に自己を捧げ尽くし、神仏に成り切るのじゃ。
 無限の智恵と能力を持ち、出来ないことなど一つも無いという万能感が起こるまで一体化するのじゃ。
 何日も続けて熱心に行っていればそのような感覚もわいてくるのじゃ。

 そのような感覚が強く起こるようになったら、その視点から今の自分や環境を観察するのじゃ。
 神仏の視点からは今の自分に足りないことや、すべきことなどがありのままに見ることができるじゃろう。
 開放された智恵によって今までの自分では知りえなかったことも知ることが出来るのじゃ。
 それが神仏と一体化することの効果なのじゃ。
 献身の道の記事も参考に実践するとよいのじゃ。

 神仏に借りた智恵によって自らの道を見出すことが出来るのじゃ。
 強い否定的な自己イメージがある者は思考さえも否定的になる故に、このような方法で正しい智恵を養い、正しい道を見出す力を身につける必要があるのじゃ。
 数回やって駄目だったと諦めてしまえば何も効果は無いのじゃ。
 ただ一念を通す心構えで日々続ければ、点滴石を穿つように大きな効果も得られるのじゃ。
 今の自分を変えたいと思う者は実践あるのみなのじゃ。

  


元気が出る説法 | 19:14:53 | Trackback(0) | Comments(4)
自分を知るのじゃ。
  洋の東西を問わず、昔から今に至るまで全ての賢者達は一つの教えを繰り返し説いているのじゃ。
 それは自分を知ることなのじゃ。
 観察や経験によって自分を知ることが、賢者によって説かれた真の利益ある教えなのじゃ。

 自分を知ることで人は世間で大きな利益を得て、最後には世間を出る悟りにも到達できるのじゃ。
 自分を知らなければこの世で苦しみ、迷いのうちに死んで後にも苦しむのじゃ。
 自分を知ることがこの世に生まれてきた理由とも言えるのじゃ。

 例えば幅が三メートルのトラックに乗る者が自分のトラックの幅を知らなければ、幅が二メートルしかない山道に無理に乗り入れたりしたら転落して事故になるじゃろう。
 逆に四メートルの道幅のところに走るのは無理だと諦めてしまうこともあるかもしれん。
 そのように自分を知らなければ能力を過信して事故にあったり、逆に能力を低く見積もってチャンスを諦めてしまうこともあるじゃろう。

 能力についてだけでもこのように自分を知ることで事故を防ぎ、チャンスを生かすこともできるようになるのじゃ。
 その他、自分の好悪や肉体の習癖や心の働きについて知ることが多ければ、不調を減らし利益を多く出来ることは言うまでも無いのじゃ。

 自らの好む所を知ることで、それを生かして楽しめる職業に就いて成功することも出来るのじゃ。
 自らの好まないことを知って、利益が多いからと嫌いな職業に就いてストレスで心身を壊すということもなくなるのじゃ。
 
 肉体についても寒さに弱いとか暑いと倒れるとか、よく知っていれば病を防ぎ、長生きも出来るのじゃ。
 他人に効く薬も体質によって自分には効かないこともあるものじゃ。
 自分の肉体について日頃から知れば薬も合うものを選ぶことが出来るのじゃ。

 更には心の働きを知ることで苦を滅することも出来るのじゃ。
 苦しみも自分の心を観察することで滅することが出来ると知れば、安楽の境地に至れるのじゃ。

 自分の心を観察するといっても初めはわからないことばかりじゃろう。
 そのようなことが出来るということさえ知らない者も多いじゃろう。
 何事も初めはわからないことばかりであるが、実践し続けることで知識も増え、慣れてくるものじゃ。
 何があろうと自分の心を知る努力を続けることが大事なのじゃ。 
 
 人が苦を嘆き、迷いの内に生きていくしかないのも自分を知らないからなのじゃ。
 自分のしたいことも、すべきこともわからないのは自分に対して無知であるからに他ならないのじゃ。
 それは地図を持たない者が目的地も無く道なき道を旅するようなものじゃ。
 そのような状態ではただ苦しみ迷い続けたというだけの人生になってしまうのじゃ。

 自分を深く知っていれば、理想とすることも目的も自ずから明白になってくるものじや。
 それは慣れた道を行くものが行く先も、道筋も完全にわかって晴天の下で歩くようなものじゃ。
 確実に目的地に着くであろう事は明白なのじゃ。

 自分を知れば世間において大きな利益を得て、出世間の道においても永遠の安楽に辿り着けるのじゃ。
 自分を知れという賢者達の言葉は、真に虚しくないと言えるのじゃ。
 修行者は日々自分を知る努力を続けるとよいのじゃ。


元気が出る説法 | 20:29:17 | Trackback(0) | Comments(2)
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