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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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集中法
  最近はマインドフルネスとか、気付きの瞑想について書かれた本などを善く見るようになったのじゃ。
 自分に気付くのはよいことであるが、それを実行しようとしても大抵の者が失敗するじゃろう。
 本に書かれている通りに自分を見ようとしても、五分後には別のことを考えていたりするものじゃ。

 それも集中力が無いからなのじゃ。
 集中力が無ければ観察も上手くいかず、心は雑念に巻き込まれてしまうのじゃ。
 集中力を養う修行も必要なのじゃ。

 数息観などはこのブログの記事にも書いてあるが、それが苦手という者も居るじゃろう。
 そのような者は心臓や眉間などに集中するとよいのじや。
 今回はそれを詳しく書くのじゃ。

 先ずは眉間に集中する方法なのじゃ。
 両目の間、少し上のほうに眉間はあるのじゃ。
 文字通り、眉と眉の間なのじゃ。

 そこに意識を集中するのじゃ。
 しかし、集中する時に注意しなければならないのは、視線を眉間に強く向けないことなのじゃ。
 眉間に視線を向けるとより目になり、普段使っていない筋肉や神経が疲れて頭痛がしたりするのじや。
 それを避けるために視線は一メートル位先を見るようにして、意識だけ眉間に集中するのじゃ。
 
 なかなか難しいが慣れれば出来るようになるのじゃ。
 五分ぐらいするとよいのじゃ。

 次は胸に集中する方法なのじゃ。
 胸の真ん中のみぞおちより少し上に心臓はあるのじゃ。
 そこに意識を集中するのじゃ。
 
 この集中にもあまり視線を向けてはいかんのじゃ。
 人間は自分が意識を向けたところに視線を向ける習慣があるからなかなか難しいが、日々続けていれば出来るようになるのじゃ。

 胸に集中していると安心感が出てくるじゃろう。
 人によっては体が熱くなったり、手が熱くなったりする者も居るじゃろう。
 それらの反応に囚われずに、ただひたすら集中するのじゃ。

 集中が強くなれば自分がそこにいるような感覚にもなるのじゃ。
 今まで体全体が自分であり、眉間や胸に集中していたが、自分が小さくなって集中している所に居て、体全体をみているような感覚なのじゃ。
 それは集中によって対象と一体になった感覚なのじゃ。
 それにも囚われずに続けるのじゃ。

 更に集中すれば集中と集中するものを見ている意識に気付くじゃろう。
 自分が自分の体から離れて見ているような感覚なのじゃ。
 それは感情や思考が無い無念夢想の意識なのじゃ。

 そのような意識に到達して初めて何の動揺も無く、自分の心が完全に観察できるのじゃ。
 そこまで集中が高くなってから自分の心を見るようにするのじゃ。
 そうすれば心の葛藤や逃避などもありのままに受け入れ、観察することが出来るのじゃ。
 そして自分を変えることも容易に出来るようになるのじゃ。

 ただ単に自分を観察するより、余計に手間がかかるように思えるかも知れんが、実はこのように集中力を身につけてから行うほうがより近道なのじゃ。
 マインドフルネスとか気付きの瞑想で何の効果も無かったという者も、ちゃんと集中力を見につけてから行えば、効果もでるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。


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悟りを得るための修行法 | 15:39:52 | Trackback(0) | Comments(1)
自分の本心を認め受け入れるのじゃ。
 心の観察は先ず本心を受け入れ、認める事から始めなければならんのじゃ。
 本心とは自らの偽らない心なのじゃ。
 自分の心を偽っていては、観察にはならないのじゃ。
 
 例えば本当は心に恐れがあるのに、恐れていないと偽れば、恐れはいつまでもあり続け、滅することも無いのじゃ。
 その恐れによって行いも制限され、修行も止まってしまうこともあるものじゃ。
 
 日常生活に於いても、本当は疲れているのに疲れていないと自分を誤魔化せば、疲れをとることもできず、いずれは倒れてしまうのじゃ。
 疲れている時には疲れていると認め、受け入れることで疲れを癒すことも出来て、倒れることもないのじゃ。
 
 今の自分の本心を認め、受け入れることで現実に対応できるようになるのじゃ。
 本心を認め、受け入れないならば現実に目を背けて、観念遊戯に浸っていることになるのじゃ。
 それではいつか破綻することは目に見えているのじゃ。

 本心を認めようとしない理由には、幾つかの理由があるものじゃ。
 恐れから認めないものも居るじゃろう。
 恐れがあれば逃避があり、本心から逃げ続けるのじゃ。

 今まで弱音を吐かず頑張ってきたからという習慣によるものもあるじゃろう。
 ただの習慣により、本心を認めない故に苦しみ続けるのは愚かなことじゃ。

 或いは本心がわかってもどうしようもないからと諦めからの理由もあるじゃろう。
 自分が疲れたり、恐れているのを認めても現状が変るわけではないからと無理に本心を認めないようにしているのじゃ。

 他にも意地になっていたり、自分に怒りを感じているからとかの理由もあるじゃろう。

 それらの理由により、本心を認めなければ苦は続き、いずれ破綻することもあるものじゃ。
 時に人は本心を認めない故に一生、苦を抱えて生きることもあるのじゃ。
 ただ本心を認め受け入れるだけで消えていく苦を、死ぬまで抱えていくのは愚かなことじゃ。

 どのようなものであろうと本心を受け入れ、認める覚悟をすれば、それらの理由をも超えて本心が観られるものじゃ。
 そして観察によってどのような苦も滅していくことができるのじゃ。
 無意味な理由で長く苦しむことが無いように、全ての者は自らの本心を認め、受け入れて進むがよいのじゃ。
 


苦滅の道実修 | 20:26:44 | Trackback(0) | Comments(4)
一法専念
 悟りへの道はただ一つではなく、かなり多くあるものじゃ。
 お釈迦様が直接説いた止観でさえ、集中と観察にそれぞれ幾つもの方法があるのじゃ。

 観察の方法には、四諦があり、それに関連して因縁を観る方法があり、他にも五蘊を観る方法や、感覚とその世界を観る方法などもあるのじゃ。
 集中にも数息観の他に、色彩を周囲に観想する方法や、胸や眉間に集中する方法などがあるのじゃ。

 お釈迦様が説かなかった方法にも空を観想する方法や、真言を用いる方法や、神仏との一体化を観想する方法もあるのじゃ。
 マハリシが説いたような自分とは何か、直接に追求する方法も悟りへの道と言えるのじゃ。

 しかし、多くの方法があっても全て行う必要は無いのじゃ。
 それらの方法は修行者が自らに合ったものを選び、その一つを続けていくことが大事なのじゃ。
 自分に合った方法がわかり、一つの方法に決めたならばそれに専念し、他の方法には心を移さないようにするのじゃ。
 ただ一つの自分に合った方法を続けた方が、進歩は早く、高い境地にいけるのじゃ。

 例えば山に登るのにいろいろな道があるが、一つの道をひたすら辿って行けばやがて頂上に着けるようなものじゃ。
 途中でその道を外れて他の道に行けば、一番下から上り直すことにもなるのじゃ。
 今まで上ってきた事は帳消しになり、また最初から上らなくてはならないのじゃ。
 
 修行者が今まで行ってきた法を止めて、別の方法を行ったりするのも同じ事なのじゃ。
 今までやってきたことは帳消しになり、最初からやり直すことになるのじゃ。

 一つの方法に専念すれば、次第にそれに習熟し、技も上達して、自らの心も知り尽くすことが出来るのじゃ。
 いつまでもあれこれと別の方法ばかり探していれば、技も上達せず、心も観えないのじゃ。

 例え才能は無くとも一つの方法を根気よく日々続けることで、悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 昔、シュリハンドクというあまり頭のよくない僧がおったのじゃ。
 あまりに物覚えが悪く、兄にも見捨てられるような者であったが、お釈迦様が教えたただ一つの方法を続けることで、悟りを得て十六羅漢の一人にも数えられる目覚めた者となったのじゃ。
 そのように物覚えが悪く、才能も無くとも日々一つの方法を続けることで、悟りも得られるのじゃ。

 そして一つの方法に通暁すれば、他の全ての方法にも通じるようになるものじゃ。
 一法は万法に通じ、万法は一法に帰すというのじゃ。
 一つの道から登って山の頂上に立てば、全ての道が見渡せるようなものじゃ。
 一つの道によって悟りを得れば、全ての法を説く事もできるのじゃ。

 修行者は自分に合う方法を決めたならば、その道を一筋に精進することで最も速やかに悟りを得られるのじゃ。
 そのように一つの道を辿って日々精進あるのみなのじゃ。
  


悟りを得るための修行法 | 12:09:06 | Trackback(0) | Comments(4)
大乗六誤三利
 大乗とはお釈迦様の死後に創られたものであり、お釈迦様の真の教えとは異なり、過誤が多いものじゃ。
 真の悟りを得たお釈迦様の英知に及ばない者達が作り上げた故に、お釈迦様の教えを広めるつもりで逆に間違いを広める羽目に陥っているのじや。
 その間違いの中でも次の六つのものが最も愚かであり、人々が広めたり、従ったりしてはならないものなのじゃ。

 ① 生まれつきの身分による差別。

 これは所謂インドのカースト制度と呼ばれるものじゃ。
 お釈迦様は明確にこれを否定しておる。
 しかし、大乗ではこれを承認しておる。
 このことは明らかな誤りであり、お釈迦様の教えからも、今日の人道上の常識からも外れておる。
 大乗を作った者達が実際にはお釈迦様の教えをよく学ばず、理解せず、間違った教えを信奉していたせいじゃろう。

 元々、お釈迦様の時代の古い教えであるヴェーダでは、倒れた巨人が人の元となり僧侶の階級であるバラモンが頭から生じ、武士であるクシャトリアが手から生じ、商人のバイシャが腹から生じ、労働者階級のスードラが足から生じたとあるのじゃ。

 この暗喩はそれぞれの身分の者が社会で果たす役割を示しておるのじゃ。
 バラモンが精神的な指導をして、武士が敵を防ぎ、商人が社会を豊かにして、労働者が社会を進ませるというような意味なのじゃ。
 社会役割説なのじゃ。
 各々が役割を分担するだけで、それぞれの階級に上下の差は無いのじゃ。
 
 お釈迦様はこれを正確に理解し、役割を果たさなければバラモンもバラモンではなく、それぞれの役割に上下もないと正しく教えたのじゃ。
 しかし、後の愚かなバラモン達が新しいヴェーダを捏造し、身分は生まれつきのものであり、バラモンが一番偉いと我田引水の教えを広めたのじや。
 そのように間違った教えを広め、定着してしまった故にインド人達は今も苦しみ、嘲笑を受け、非難を浴びているのじゃ。

 その過ちを大乗は受け入れ、正しいものとしておる。
 これは明白な誤りとして退け、捨てなければならないものじゃ。
 これこそ大乗の最大の誤りと言えるのじゃ。

 ② 女子が悟れないという誤り。

 大乗では女子は悟れないというのじゃ。
 法華経では竜女が一度男になり、それから悟ったなどという無理な話を捏造しておる。
 女子でも修行すれば悟りを得られることは、尼僧の告白であるテーリーガーターにおいて証言されておる。
 女子も男子と同じく、正しく修行すれば悟りを得られるのじゃ。

 ③ 悟りを得るのに何劫もかかる。

 華厳経などでは人が悟りを目指しても、何度も何度も生まれ変わって修行しなければならんというのじゃ。
 今生きている時間では悟りを得るには足りないと書いておる。
 そのような思想も明白な誤りなのじゃ。
 
 お釈迦様が座って七日で悟ったように、本当にやる気があれば今この世で修行するだけで、十分に悟りは得られるのじゃ。

 ④ 阿羅漢の悟りの後に如来の悟りがある誤り。

 法華経では阿羅漢となり、心の悟りを得ていた聖者も後に生まれ変わって如来になるという、無理な話も展開しておる。
 これも従来の仏説より、自らの教えを高める為の嘘なのじゃ。
 一度、阿羅漢となれば真の悟りを得て、もはや生まれ変わらないのじゃ。

 ⑤ 一切空と教える誤り。

 大乗の般若経典では一切が空であると説いておる。
 これはお釈迦様の否定した外道の教えに近いものじゃ。
 外道はこの世には善悪も無く、善悪の報いも無く、修行もその成果もないと説いたのじゃ。

 お釈迦様はこれを否定して、この世には善悪があり、善悪の報いがあり、修行とその成果もあると説いたのじゃ。
 今、これを知らず善悪も修行も成果も無く一切を空と教えたのでは、外道の主張と変わりなくなってしまうのじゃ。
 一切が空ではなく自らの心身と自らの観念を空と観るべきであると、教えるのが正しいのじゃ。

 ⑥ 真のお釈迦様の教えを非難する誤り。

 大乗ではお釈迦様の真の教えを小乗として非難しておる。
 これも大きな誤りなのじゃ。
 教えを非難することは僧がしてはならない戒の一つの筈であるが、それを自ら破り、真の悟りへの道を閉ざす大罪なのじゃ。
 
 大乗にはこのような誤りがあるのじゃ。
 しかし、全てがいかんのではないのじゃ。

 悟りを得る前に行う菩薩の請願は悟った者にこの世に止まらせ、教えを説くのに役に立つものじゃ。
 空の法も適切に用いれば、執着を去り、自我を滅し、認識をも滅することができるじやろう。
 真言や陀羅尼を唱え、神仏と一体化する法も集中の方法としては優れたものじゃ。

 それらの誤りと優点を知り、果実を摘む者が善き果実と悪い果実を見わけて摘むように、修行者は大乗の法をもよく選択して実践するとよいのじゃ。


わしの考え | 21:19:28 | Trackback(0) | Comments(2)
善悪は心によって成されるのじゃ。
  お釈迦様は福楽を求めるならば、悪いことをせずに善い事をするのじゃ、と教えておる。
 そのような善悪も、心によって成されることをも教えているのじゃ。
 行為とその結果がどうであろうと、心に悪意があれば悪であり、善意があれば善いことなのじゃ。

 例えば道の真ん中にでかい石が転がっていたとしよう。
 このでかい石を悪意のある者が、
 「道の真ん中に転がっていてもみんな気付いて避けてしまうから、道の端に転がして誰かを転ばそう」などと考えて道の端に転がせば、悪となるのじゃ。

 善意を持つ者が、
 「このような石が道の真ん中にあれば、道行く人が躓くかも知れんから道の端に転がしておこう」と、考えて道の端に石を転がせば、善となるのじゃ。

 このように道の真ん中にあった石を道の端に転がすという、行為はまったく同じでも、心に悪意があれば悪となり、善意があれば善となるのじゃ。
 そしてそれぞれに相応しい報いを、心がもたらすのじゃ。

 このような基準を知らなければ、善い事をしているつもりで善くない事をしている事もあるものじゃ。
 そのような例は多くあるじゃろう。

 本来は善い事として始めた事が、次第にただの習慣となり、やがては欲や見栄のために行うようになれば、もはや善ではなくなるものじゃ。
 或いは常日頃から人のためにと掃除などをしていたが、ある日心に怒りがあるまま習慣として掃除をしていれば、善いことではなくなるのじゃ。

 そのように善事とは心で成される故に、自らの心の持ちようで善も悪になってしまう事があるのじゃ。
 他の人のためにと慈悲の心から行うのが、本当の善事なのじゃ。

 例え莫大な金銭を施そうとも、見栄や何かの得をするために行うならば善ではないのじゃ。
 僅かな施しでも哀れみの心で行えば善事となるのじゃ。

 善を成そうとする行いが、善ではなくなってしまわないように、常日頃から自らの本心をかえりみて、何事かを成すときにこれは慈悲からの行いなのか、悪意や怒りや欲から行おうとしているのか吟味すべきなのじゃ。
 そうすれば心も整えられ、善事を間違わずに行う善人となり、福楽も付き従うようになるのじゃ。
 自らの本心を観察しながら、実践あるのみなのじゃ。


運気向上法 | 12:37:30 | Trackback(0) | Comments(10)
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