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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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般若心経の実践法③
  般若心経の実践法の三番目には想念の空を観想するのじゃ。
 想念とは観念と言ってもよいのじゃ。
 名前と形のイメージによって認識される心象なのじゃ。

 悟って居ない者にとって全ての物事は、この観念によって認識されているのじゃ。
 あるものが在ると認識するには、名前と心の中のイメージに拠るしかないのじゃ。
 名前とイメージによって分別できないものは無いとされるのじゃ。
 
 観念を空と見なすことで、あらゆる認識の対象から解放され、囚われなくなるのじゃ。
 それは自分という観念にとっても同じなのじゃ。
 観念が自分として自己同一化している者は、この想念の空を怠り無く実践することで無我にもなれるのじゃ。

 想念の空には二つの効果のある実践があるのじゃ。

 
 一つは執着する全てのものごとの観念を空と観ることなのじゃ。
 心の中で何かに執着していれば、修行の道も進まないのじゃ。
 金とか名声とか権力とか異性に執着したままでは、心は悟りを求めて自我を滅しようとはしないじゃろう。
 そのような執着を捨てるために、執着の対象を空と観る方法が必要なのじゃ。

 もう一つは自己の観念の空なのじゃ。
 これが本来の修行の道といえるものじゃ。
 自分という観念を空と観ることで、自我の厭離が起こり、自己同一化がなくなるのじゃ。

 修行の順序としては先ずさまざまな執着を空として取り除くことから始めなければならないじゃろう。
 執着があれば修行は進まないからのう。
 あらゆる執着を取り除いてこそ、修行も速やかに進むのじゃ。

 何かに執着していれば、苦も起こるものじゃ。
 執着の対象を空と見なすことが出来れば、苦もなくなるのじゃ。
 これこそ心経の実践する最も大きな利点と言えるのじゃ。

 観念を全く生じないようにするのは、悟っていない者には困難なことじゃ。
 観念を消そうとすると、観念は消えず、観念が消えないというその観念によって又苦しめられるのじゃ。
 そのような苦は誰もが経験したことがあるじゃろう。
 例えば異性に強く執着して何度も考えて、苦しいからもはや考えないようにしようとしても又考えてしまう。
 更に考えないようにしようとしても出来ないことが苦になる。
 異性だけでなく、いろいろな執着によって何度も体験したことじゃろう。
 そのような繰り返しで貴重な人生の時間を消耗してしまうのじゃ。

 そのように観念に取り付かれて消せない時に、心経の空は効果を発揮するのじゃ。
 観念は悟りを得ていない者には容易に消すことは出来ないが、何度も繰り返し観想することで変えることは出来るのじゃ。
 観念を空に変えれば、消したことと同じ効果があるのじゃ。

 金に執着しているならば金とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
 名声に執着しているならば金とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
 そのようにして執着の対象となるあらゆるものを空と何度も観想し、念じるのじゃ。

 執着の対象を空とすることで厭離も起きて、修行も進むのじゃ。
 更には修行のための法もあまりに執着すれば、苦になり、修行の妨げにもなるのじゃ。
 それもまた空と見なして捨てるべきなのじゃ。
 心経には苦集滅道も空と記されているのは、そのためなのじゃ。
 四諦十二因縁全てが空と見なせば、法に対する執着をも消せるのじゃ。

 それが出来れば自己の観念をも空と観ることに進むのじゃ。
 悟りを得ていない人間は自己をも観念として認識しているのじゃ。
 心の中の観念を自分と認識しているのじゃ。
 観念の自分は自分の名前と、自分の姿形、形象、イメージによって出来ているのじゃ。

 それを自分と認識しているから、自分の名前を広めたいと思い、他人に与えるイメージを良くしたいという執着も生まれるのじゃ。
 そのために時には自分や他人の命さえも顧みないことさえあるのじゃ。
 それが多くの苦と混乱を引き起こしているのじゃ。

 自己の観念を滅するために、名前とイメージの空を実践するのじゃ。
 自分の名前が空であり、自分の姿形、形象、イメージも空であると何度も観るのじゃ。

 自分の名前が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、あるものではなく、無いものでもないと観る時、名称による自己同一化がなくなるのじゃ。
 そして自分の名前による執着、名前を広めたいという欲が無くなるのじゃ。

 同じように自分のイメージ、姿形、形象が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、清浄となることはなく垢つくこともなく、あるものではなく、無いものでもないと観れば形象による自己同一化がなくなるじゃろう。
 それが出来れば安らぎがあるじゃろう。
 他人に与えるイメージを良くしようと思う欲がなくなるからなのじゃ。

 名前と形象による自己を守ろうとする緊張も無くなるから神経も解放されるのじゃ。
 同時に自己の観念のための欲と動機も無くなるから、あらゆる心の働きも沈静化するのじゃ。

 そのようにして一時的な忘我であるサマーディも容易に達成できるじゃろう。
 更に自己の観念が空であると、完全に気付いたならば、無我にもなるじゃろう。
 無我になっても観ているものがあると気付き、それもまた空であると観るならば、大悟徹底も完遂されるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。


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悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 13:33:14 | Trackback(0) | Comments(8)
般若心経の実践法②
  身体の次は感覚を空と観想する方法を実践するのじゃ。
 眼耳鼻舌身意の感覚器官と、見聞臭味触意の対象を空と念じるのじゃ。
 眼によって見る、耳によって聞く、華によって嗅ぐ、舌によって味わう、皮膚によって触れる、心によって思いを感じるという感覚もまた空と念じるのじゃ。
 それらの感覚が空と感じられれば感覚による自己同一化がなくなり、自我や苦もなくなるのじゃ。

 実践としては暫く瞑想をして心を鎮めた後、眼を見開いて見るのじゃ。
 眼を見開いてそこにあるのは壁とかでもよいのじゃ。
 今見ているものが空であると強く何度も何度も念じるのじゃ。
 それはあるものではなく、かげろうのような幻であり、どこまでも無であり、在るものでも無いものですらもないと念じるのじゃ。

 更に今見ている眼も、見ることのできる力である視覚も空と念じるのじゃ。
 そのように何度も何度も空と念じていると、本当にその空が感じられるのじゃ。

 見ているのが壁ならば、それが壁として感じられない、見えているのに壁と認識できないというような状態になるのじゃ。
 確かに眼の感覚として捉えているのに、見ることがない空の状態になるのじゃ。
 そうすれば視覚の空は完成した言えるのじゃ。

 同じように耳で聞くことも空と念じるのじゃ。
 虫の声でも騒音でも何でも聞こえている音を空と念じるのじゃ。
 聞いている耳も、聞くという感覚も空と念じるのじゃ。
 何度も実践していると、耳に聞こえている音も認識せず、聞こえているのに聞くことが無い状態になるのじゃ。
 感覚としては聞こえることがあるのに、認識は出来ない空の状態になるのじゃ。
 そのようになれば聴覚の空は完成なのじゃ。

 鼻で嗅ぐ匂いも又空と念じるのじゃ。
 臭覚も鼻も空であり、在るものでも無いものですらないと観想するのじゃ。
 何度も何度も念じていれば、臭覚も空となるのじゃ。
 嗅いでも匂いがわからず、何の分別も無くなって臭覚の空は完成するのじゃ。

 舌で味わうものも空と念じるのじゃ。
 味は空であり、何等存在するものではなく、無でさえ無である絶対的な無であり、空と念じるのじゃ。
 味わう舌も味覚も空と念じるのじゃ。
 そのように何度も実践していれば味覚も空となるのじゃ。

 更に身体で触るものも空と念じるのじゃ。
 触っている手や足も空であり、触覚も空と念じるのじゃ。
 触れたことによる分別が無くなり、何を触れているのかわからず、触れるということすら失念した時に触覚の空は完成するのじゃ。
 
 最後に心に感じることも空と念じるのじゃ。
 怒りや悲しみ喜びや楽しささえも空と念じるのじゃ。
 いかなる思想や主張や主義も全て空と観るのじゃ。
 それら全てが空であり、幻であり、存在せず、あるものでも無いものでも無いと念じるのじゃ。
 それらを感じる心も、感じられる心の感覚すら空と念じるのじゃ。
 そうすれば心で感じることも空となるのじゃ。

 心に何が浮かんでもそれを認識せず、心が働くことも自分とは無関係に感じられるのじゃ。
 心は何もしなくても勝手に働き、何もしないで静まっていくじゃ。
 それにも囚われないならば、心の空が完成したと言えるのじゃ。

 このようにして感覚の空を完成すれば、感覚に主体を投影していた者は自我を厭離して無我にもなるのじゃ。
 感覚に主体を投影していなかった者も感覚に依存していたことに気付き、感覚から起こる苦や囚われを無くすことができるのじゃ。
 
 感覚そのものは存在し、在るものであるが、人はそれを観念として認識している故に自己同一化や囚われが起こるのじゃ。
 空と観想することでそれらの謬見が無くなり、厭離も出来るようになるのじゃ。
 修行者はこのような効果のある空の法をひたすら実践するとよいのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 20:49:38 | Trackback(0) | Comments(2)
般若心経の実践法①
 以前に般若心経の実践法を書いたが、かなり難しいようであったようじゃ。
 これから詳しい実践法を書いていくのじゃ。
 
 基本的に般若心経の法は色受想行識の心身の観念を空と念じて、自己同一化を滅するものじゃ。
 観察とは違う法であるが、心身の自己同一化を無くすという結果は同じなのじゃ。
 観察が観念を観念と気付かせる法であるのに対し、空と観る法は観念を滅する観念によって自己同一化を無くすものといえるのじゃ。

 どちらの法が優れているということはないのじゃ。
 修行者の性質によって、法も違うのじゃ。
 自らの性質に合う法を選ぶとよいのじゃ。
 観察がどうしても難しいという者は般若心経の空の法を実践すると善いのじゃ。



 般若心経では最初は色身の空を観想するのじゃ。
 肉体を空と観るのじゃ。
 色即是空、空即是色と記されている通りに、肉体が空であると念じるのじゃ。

 それには先ずは空の感得をしなければならんのじゃ。
 前にも書いたが空を感得しなければ、全ての空の法は無意味な観念遊戯となるのじゃ。
 肉体の空を念じる法は、空の感得に最も便利な法なのじや。

 空を感得し、肉体を厭離するための最初の一歩として指一本の空を念じるのじゃ。
 任意の指一本を選び、その指が空であると強く何度も念じるのじゃ。
 人差し指ならばその人差し指が空であり、無であり、夢幻であり、陽炎のようなものであると念じるのじゃ。
 口に出して念じるのもよいのじゃ。

 指が空であり、無常であり、あるものでもなくないものですらもないと、一切の観念を否定して観想するのじゃ。
 空であるから生じることも滅することも無く、垢つかず清浄となることもなく、増すことも無く減ることも無いと観るのじゃ。
 日々繰り返し何度も念じていると、実際に指が空と感じられるようになるのじゃ。

 指が自分のものではないと感じるのじゃ。
 麻酔をかけられたようにあるのにないような感じなのじゃ。
 どこか遠くにあるような感じなのじゃ。
 そのように感じられたならば、空の感得は出来ているのじゃ。

 肉体は実在の物体であるが、人はそれを観念として自分のものであると認識しているから、空と感得すれば自分のものではないように感じるのじゃ。
 それができたならば、空の感得を全身に広げていくのじゃ。
 一本の指から他の指も空と念じ、手や腕も空と念じて行くのじゃ。
 
 腕から胸や胴体や足や頭も空と感得していくのじゃ。
 人によっては脳が全てと唯脳論を信じている者もいるじゃろう。
 そのような者は脳も空と念じるのが効果的なのじゃ。

 そのようにして全身の空が感得されたならば、肉体に強く自己同一化していた者は直ぐにでも忘我や無我の状態に入るじゃろう。
 それほどではなくとも、肉体の不安や苦は消えるじゃろう。
 恐れずにその結果を見るのじゃ。

 途中で迷ったり、空の感得が消えてしまったりしたら、指一本の空の法に戻るのじゃ。
 それから全身の空を念じるとよいのじゃ。
 後に説く心の働きを空と観る法に就いて迷った時も、指一本の空に戻るとよいのじゃ。

 これで色身の空の法は正しく説かれたのじゃ。
 その他の法は後日に書くのじゃ。

 このようにして日々実践すれば、大きな効果があるじゃろう。
 むしろ効果が大きすぎて恐れる者もいるかもしれん。
 肉体が消えてなくなるというような恐れや不安も起こるかも知れん。
 そのような不安や恐れを乗り越えて、日々実践すれば悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 日々精進あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 11:29:46 | Trackback(0) | Comments(13)
苦が増加する仕組み
 お釈迦様はこの世の一切は皆苦として、人が苦から離れられない事を説いたのじゃ。
 悟りを得ていない者は正にその通り、苦から苦へと苛まれて生きるしかないものじゃ。
 生きて苦しみ、死んでも又苦しむのじゃ。
 
 そのように苦しむのも悟りを得ていない者には、無明である自分が存在するという観念の原因があるからなのじゃ。
 他のものから完全に独立した主体的な自分があるという観念から苦は起こり、離れられないのじゃ。
 間違った観念を正さなければ苦しみは続くのじゃ。

 例えば頭のおかしい者が自分は飛べるという間違った観念を持って高い所から飛び降りれば、死んだり怪我をしたりするのじゃ。
 そのように現実とは離れた間違った観念を持っていては苦しみは尽きないのじゃ。
 
 悟っていない者が自分は主体がある、自分は思考や感情の主体であると思うことが苦を増す間違った観念なのじゃ。
 自我が思考や感情の主体であるならば、それらをコントロール出来る筈であるが、実際は出来ないのじゃ。
 自我は思考や感情の主体ではなく、それらに隷属しているものなのじゃ。

 自我は思考や感情が勝手に反応することを止められず、それらの奴隷となっているだけなのじゃ。
 思考や感情を満足させるために、無駄な行いに時間と心身を費やしているだけなのじゃ。
 自我が思考や感情の主体ではなく、思考や感情をコントロールできないことが苦を生み増加させる原因の一つなのじゃ。

 例えば異性に強く執着しながら離れてしまう愛別離苦があれば、何度もそれを考えてしまうじゃろう。
 思考をコントロールできないのであるから、苦しくても何度も考えてしまうのじゃ。
 そして考える度に悲しみの感情を起こしてしまい、苦しむのじゃ。
 それも感情をコントロールできない故に、考える度に悲しみの反応が自動的に起きて苦しむのじゃ。

 このように一つの苦があれば、それを何度も何度も繰り返して苦しむことになるのじゃ。
 それも自我が思考や感情の主体ではなく、それらをコントロールできないからなのじゃ。
 更にそれが新たな苦を引き起こすのじゃ。

 一度、苦を味わった心はそれを未来に起こるかもしれない事と認識するのじゃ。
 そして、それを避けようとするのじゃ。
 それが不安と呼ばれる心の働きなのじゃ。

 それは本来は苦を避けるための心の働きであるが、却って苦を増加させることになるのじゃ。
 不安は心を苛み、更に行動を制限するようにするのじゃ。
 この先そのような苦しみを味わう事がないようにと、消極的に行動してしまうのじゃ。
 それも思考や感情を制御出来ないことから来る苦の増加なのじゃ。
 
 そのように激しく増加する苦も、原因から観察されれば滅するのじゃ。
 未だ悟りを得なくとも、苦を完全に観察できれば消すことが出来るのじゃ。
 何度も苦が起こっても、その度に観察できれば消えていくのじゃ。

 やがて苦が完全に滅して心が鎮まる安心の境地に入れるのじゃ。
 苦から逃れたいと思う者は、実践によって確かめるのじゃ。
 


悟りの真実 | 22:32:17 | Trackback(0) | Comments(6)
怒った時こそ許すのじゃ。
 自我のある者は自分を守るために、命が危ういと思った時や正当な権利を侵害されたと思った時、怒りが起こるものじゃ。
 それは自分を守るための心の働きであるから、意志によって起こさないようにしようとすることはできないのじゃ。
 実践を重ねて心が不動になった時から、怒らないことも出来るようになるじゃろう。
 
 それまでには怒りも起こり、それが正当であるとさえ感じられるものじゃ。
 正当な怒りであるから他人を責めたり、二度としないようにと痛めつけようとするじゃろう。
 正当であるからそれも正しいと感じるのじゃ。

 しかし、それは自らを獣以下の存在に陥らせることなのじゃ。
 獣は自分の命が危険になるような事態には怒り狂って戦うのじゃ。
 餌をとられたり、縄張りに入ってこられるという身の危険が感じられれば激しく戦うのじゃ。
 
 それは獣の習俗であるから怒りに任せた行動をしていると、獣と同じ所に生まれるようになるのじゃ。
 怒った時にこそ用心して、注意深く自らの心を観て、寛容を心がけるのじゃ。
 そうすれば自らも許されるのじゃ。

 自分も他人も心の奥深い所では同一と認識される故に、他人にしたことは全て自分に返るのじゃ。
 他人が許せなければ自分も許せないのじゃ。
 他人に辛く当たれば自分にも辛いことをするようになるのじゃ。

 他人を許せば自分も許せるようになるのじゃ。
 そうであるから先ず他人を許すようにするのじゃ。
 他人に優しくすれば、自分にも優しく出来るようになるのじゃ。
 他人を愛すれば、自分を愛して、他人にも愛されるのじゃ。

 そのように他人を許し、常に慈悲をかける者は常に福楽に見舞われ、人の世界以上にも行くことになるのじゃ。
 福楽を求める者は怒った時にこそ、寛容を心がけるのじゃ。
 ただ一時の感情によって獣に落ちるようなことがないようにするのじゃ。
 
 正当な権利を侵害されたと思った時に、自らに怒ってよい、これは怒ってよいてことであると、思う者も居るじゃろう。
 それは攻撃欲を誤魔化す為の隠蔽に過ぎないのじゃ。
 自分は攻撃的な者ではなく、正当な権利のために怒っていると欲を隠蔽しているのじゃ。
 それに気付かず他人を攻撃すれば自らの心に嘘をつき、攻撃欲をも満たす二重の悪を為すことにもなるじゃろう。

 そうであるから怒った時にこそ自らの心を観て、寛容を心がけるべきなのじゃ。
 未だ心を制御できない者が怒りを生じてもそれは仕方のない事じゃ。
 それでも心の中の怒りを観て、寛容を心がければ悪事を避ける事も出来るじゃろう。

 心に怒りを覚えない境地には至らなくとも、怒りを寛容に換えることは意志によって出来ることじゃ。
 正当に思える怒りが起こっても、怒りに正当なものなどないことを思い出すのじゃ。
 怒りは自我から起こるただの心の反応であるだけなのじゃ。
 福楽を求め、苦を避ける者は怒った時にこそ、他人を許すことを心がけるのじゃ。 



運気向上法 | 12:45:54 | Trackback(0) | Comments(8)
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