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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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気付くこと
 気付く事は厭離を起こす手段であり、観察の目的でもあるのじゃ。
 観察し気付くことで人は真に変ることができるのじゃ。
 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。

 気付く事はサティと呼ばれ、念と訳されるものじゃ。
 八正道も正しい観察から始まり、正しい念を以って終わるのじゃ。
 正しく観察し、正しく気付く事で苦は滅し、悟りにも至るのじゃ。

 気付く事を表すためには、よく朽ち縄の比喩が使われるのじゃ。
 道に蛇が居て、そのために道を通れなかったが、よく観察してみれば朽ちた縄であったというものじゃ。
 このような話がなぜ度々使われるのかといえば、この話こそが気付く事の重要性を物語っているからなのじゃ。

 苦を滅することも、悟りを得ることも気付くことによって達成されるのじゃ。
 気付くことがなければ苦は滅せず、悟りも得られないのじゃ。

 苦は今心の中に在る原因から起こることに気付けば、その苦は滅するのじゃ。
 例えば他人が怖い者が、その恐れが親からの虐待が原因であったと完全に気付く時、他人への恐れは無くなるじゃろう。
 環境は全く変らないが、心の中の原因に気付く事で苦は消えるのじゃ。
 
 或いは人が酒や薬やギャンブルに溺れていても、それが不安や恐れからの逃避でしかないと原因に気付けばやめられるのじゃ。
 それは道に落ちている蛇が縄と気付く過程と全く同じなのじゃ。
 気付く事で蛇が縄になるのではないように、苦の原因に気付いても環境は全く変らないが心は変容して安楽になるのじゃ。

 苦の根本原因である自分という観念に気付くのも全く同じなのじゃ。
 人は自らの名前とイメージに執着して、自ら苦を作り出しているのじゃ。
 兵士は勇敢な自分という名前とイメージを作るために自他の命も捨てるのじゃ。
 商人は金持ちの自分という名前とイメージのために金という道具を貯め続けるのじゃ。
 政治家や慈善家も立派な自分という名前とイメージのために時間や金を費やすのじゃ。

 それがかなってもかなわなくとも苦を増すばかりなのじゃ。
 観念である自分の名前とイメージは架空のものであるから幾ら求めてもきりがないからなのじゃ。
 
 そのような自分という観念も気付く事で滅するのじゃ。
 名前とイメージが自分と想っていたと気付く事で、その認識から解放されるのじゃ。
 そして無我にもなるのじゃ。
 
 更に認識をも分別している心の働きに気付けば厭離されるのじゃ。
 全てを分別する働きが消えた時、全ては一つである見識が実感されるのじゃ。

 そのように気付く事が苦を滅する法の要であり、悟りへの道なのじゃ。
 そうであるから心を極力鎮め、注意深く本心を観察し続けるのが仏法の実践なのじゃ。
 苦を滅し、悟りを求める者はただひたすらに心を鎮め、観察を重ねて気付く事を多くするのじゃ。


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悟りの真実 | 20:45:18 | Trackback(0) | Comments(3)
正しい信念
 修業の妨げになる煩悩は三毒と呼ばれるものじゃ。
 貪欲、瞋恚、愚痴の三つなのじゃ。

 貪欲は必要以上に執着し、求める欲なのじゃ。
 執着は苦を次々に生み出し、修業の妨げになるじゃろう。

 瞋恚は怒りなのじゃ。
 一度怒れば長く興奮が続き、心を統一して観察する事もできないのじゃ。

 最後の愚痴は今のように不満を言う事ではなく、愚かさなのじゃ。
 自分があるという観念である無明こそが最も妨げになる愚かさであるのじゃ。
 それは大きく見れば自分というものを知らない愚かさでもあるのじゃ。
 
 自我が観念であることを気付かないのは最大の過ちであるが、それ以前に自己イメージが卑小であれば、悟りを得る可能性も少なくなってしまうのじゃ。
 多くの者は自分のイメージが本当の実力より過小であると信じておる。
 それによって自ら力を制御してしまうのじゃ。

 昔みんなから頭が悪いと思われていた者が居ったのじゃ。
 自分でも頭が悪いと思って低賃金の仕事ばかりしていたのじゃ。
 ある時、IQを計ってみたら150という天才並にあったのじゃ。
 自分が天才だとわかってからその者は会社を作って金持ち社長になったのじゃ。
 
 そのように真実ではない誰かに与えられた自己イメージを信じてしまうと、実力も行いも制限されてしまうのじゃ。
 それは修業の道にも影響してしまうのじゃ。
 自分には到底悟りなど得られないと信じていると、その通りになってしまうじゃろう。
 自分には出来る、自分にも悟りは得られると信じるとその通りになるのじゃ。

 そのように大抵の者が自己イメージの低い原因は、子供の頃に親とかに叱られてばかりいたからとかなのじゃ。
 親も子が憎くて叱るのではないのじゃ。
 例えば交通安全を教えないと命に関わるからと、厳しく叱ったりして教えたりするのじゃ。
 しかし、そのようなしつけによって子供は自分が駄目な者であるとか、信じてしまうのじゃ。

 そのような心の働きは観察によって滅することが出来るじゃろう。
 そして新たな信念を何度も繰り返し、心に植えつける事で変えることが出来るじゃろう。

 今ここに生まれここで正しい悟りへの道を知り、信じて実行できる者は大いなる幸運に恵まれているのじゃ。
 偉大な才能があり、修業を全うする事もできるのじゃ。
 慈悲と勇気を持ち、智慧があり悟りへの高い志がある者じゃ。
 やがて悟りを得て多くの者を助け、全人類の光となるじゃろう。
 かつてお釈迦様の元で悟りを得た阿羅漢の聖者達のように多くの者に渇仰され、教えを授ける者となる。
 人の世が続く限り人々が賞賛し、次の二千年以上もその名によって救いを求める者達の慈雨となるのじゃ。
 それこそが今ここで修業する者達が正しい信念とするべきなのじゃ。


元気が出る説法 | 21:59:11 | Trackback(0) | Comments(8)
集中法
  最近はマインドフルネスとか、気付きの瞑想について書かれた本などを善く見るようになったのじゃ。
 自分に気付くのはよいことであるが、それを実行しようとしても大抵の者が失敗するじゃろう。
 本に書かれている通りに自分を見ようとしても、五分後には別のことを考えていたりするものじゃ。

 それも集中力が無いからなのじゃ。
 集中力が無ければ観察も上手くいかず、心は雑念に巻き込まれてしまうのじゃ。
 集中力を養う修行も必要なのじゃ。

 数息観などはこのブログの記事にも書いてあるが、それが苦手という者も居るじゃろう。
 そのような者は心臓や眉間などに集中するとよいのじや。
 今回はそれを詳しく書くのじゃ。

 先ずは眉間に集中する方法なのじゃ。
 両目の間、少し上のほうに眉間はあるのじゃ。
 文字通り、眉と眉の間なのじゃ。

 そこに意識を集中するのじゃ。
 しかし、集中する時に注意しなければならないのは、視線を眉間に強く向けないことなのじゃ。
 眉間に視線を向けるとより目になり、普段使っていない筋肉や神経が疲れて頭痛がしたりするのじや。
 それを避けるために視線は一メートル位先を見るようにして、意識だけ眉間に集中するのじゃ。
 
 なかなか難しいが慣れれば出来るようになるのじゃ。
 五分ぐらいするとよいのじゃ。

 次は胸に集中する方法なのじゃ。
 胸の真ん中のみぞおちより少し上に心臓はあるのじゃ。
 そこに意識を集中するのじゃ。
 
 この集中にもあまり視線を向けてはいかんのじゃ。
 人間は自分が意識を向けたところに視線を向ける習慣があるからなかなか難しいが、日々続けていれば出来るようになるのじゃ。

 胸に集中していると安心感が出てくるじゃろう。
 人によっては体が熱くなったり、手が熱くなったりする者も居るじゃろう。
 それらの反応に囚われずに、ただひたすら集中するのじゃ。

 集中が強くなれば自分がそこにいるような感覚にもなるのじゃ。
 今まで体全体が自分であり、眉間や胸に集中していたが、自分が小さくなって集中している所に居て、体全体をみているような感覚なのじゃ。
 それは集中によって対象と一体になった感覚なのじゃ。
 それにも囚われずに続けるのじゃ。

 更に集中すれば集中と集中するものを見ている意識に気付くじゃろう。
 自分が自分の体から離れて見ているような感覚なのじゃ。
 それは感情や思考が無い無念夢想の意識なのじゃ。

 そのような意識に到達して初めて何の動揺も無く、自分の心が完全に観察できるのじゃ。
 そこまで集中が高くなってから自分の心を見るようにするのじゃ。
 そうすれば心の葛藤や逃避などもありのままに受け入れ、観察することが出来るのじゃ。
 そして自分を変えることも容易に出来るようになるのじゃ。

 ただ単に自分を観察するより、余計に手間がかかるように思えるかも知れんが、実はこのように集中力を身につけてから行うほうがより近道なのじゃ。
 マインドフルネスとか気付きの瞑想で何の効果も無かったという者も、ちゃんと集中力を見につけてから行えば、効果もでるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 15:39:52 | Trackback(0) | Comments(4)
自分の本心を認め受け入れるのじゃ。
 心の観察は先ず本心を受け入れ、認める事から始めなければならんのじゃ。
 本心とは自らの偽らない心なのじゃ。
 自分の心を偽っていては、観察にはならないのじゃ。
 
 例えば本当は心に恐れがあるのに、恐れていないと偽れば、恐れはいつまでもあり続け、滅することも無いのじゃ。
 その恐れによって行いも制限され、修行も止まってしまうこともあるものじゃ。
 
 日常生活に於いても、本当は疲れているのに疲れていないと自分を誤魔化せば、疲れをとることもできず、いずれは倒れてしまうのじゃ。
 疲れている時には疲れていると認め、受け入れることで疲れを癒すことも出来て、倒れることもないのじゃ。
 
 今の自分の本心を認め、受け入れることで現実に対応できるようになるのじゃ。
 本心を認め、受け入れないならば現実に目を背けて、観念遊戯に浸っていることになるのじゃ。
 それではいつか破綻することは目に見えているのじゃ。

 本心を認めようとしない理由には、幾つかの理由があるものじゃ。
 恐れから認めないものも居るじゃろう。
 恐れがあれば逃避があり、本心から逃げ続けるのじゃ。

 今まで弱音を吐かず頑張ってきたからという習慣によるものもあるじゃろう。
 ただの習慣により、本心を認めない故に苦しみ続けるのは愚かなことじゃ。

 或いは本心がわかってもどうしようもないからと諦めからの理由もあるじゃろう。
 自分が疲れたり、恐れているのを認めても現状が変るわけではないからと無理に本心を認めないようにしているのじゃ。

 他にも意地になっていたり、自分に怒りを感じているからとかの理由もあるじゃろう。

 それらの理由により、本心を認めなければ苦は続き、いずれ破綻することもあるものじゃ。
 時に人は本心を認めない故に一生、苦を抱えて生きることもあるのじゃ。
 ただ本心を認め受け入れるだけで消えていく苦を、死ぬまで抱えていくのは愚かなことじゃ。

 どのようなものであろうと本心を受け入れ、認める覚悟をすれば、それらの理由をも超えて本心が観られるものじゃ。
 そして観察によってどのような苦も滅していくことができるのじゃ。
 無意味な理由で長く苦しむことが無いように、全ての者は自らの本心を認め、受け入れて進むがよいのじゃ。
 


苦滅の道実修 | 20:26:44 | Trackback(0) | Comments(4)
一法専念
 悟りへの道はただ一つではなく、かなり多くあるものじゃ。
 お釈迦様が直接説いた止観でさえ、集中と観察にそれぞれ幾つもの方法があるのじゃ。

 観察の方法には、四諦があり、それに関連して因縁を観る方法があり、他にも五蘊を観る方法や、感覚とその世界を観る方法などもあるのじゃ。
 集中にも数息観の他に、色彩を周囲に観想する方法や、胸や眉間に集中する方法などがあるのじゃ。

 お釈迦様が説かなかった方法にも空を観想する方法や、真言を用いる方法や、神仏との一体化を観想する方法もあるのじゃ。
 マハリシが説いたような自分とは何か、直接に追求する方法も悟りへの道と言えるのじゃ。

 しかし、多くの方法があっても全て行う必要は無いのじゃ。
 それらの方法は修行者が自らに合ったものを選び、その一つを続けていくことが大事なのじゃ。
 自分に合った方法がわかり、一つの方法に決めたならばそれに専念し、他の方法には心を移さないようにするのじゃ。
 ただ一つの自分に合った方法を続けた方が、進歩は早く、高い境地にいけるのじゃ。

 例えば山に登るのにいろいろな道があるが、一つの道をひたすら辿って行けばやがて頂上に着けるようなものじゃ。
 途中でその道を外れて他の道に行けば、一番下から上り直すことにもなるのじゃ。
 今まで上ってきた事は帳消しになり、また最初から上らなくてはならないのじゃ。
 
 修行者が今まで行ってきた法を止めて、別の方法を行ったりするのも同じ事なのじゃ。
 今までやってきたことは帳消しになり、最初からやり直すことになるのじゃ。

 一つの方法に専念すれば、次第にそれに習熟し、技も上達して、自らの心も知り尽くすことが出来るのじゃ。
 いつまでもあれこれと別の方法ばかり探していれば、技も上達せず、心も観えないのじゃ。

 例え才能は無くとも一つの方法を根気よく日々続けることで、悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 昔、シュリハンドクというあまり頭のよくない僧がおったのじゃ。
 あまりに物覚えが悪く、兄にも見捨てられるような者であったが、お釈迦様が教えたただ一つの方法を続けることで、悟りを得て十六羅漢の一人にも数えられる目覚めた者となったのじゃ。
 そのように物覚えが悪く、才能も無くとも日々一つの方法を続けることで、悟りも得られるのじゃ。

 そして一つの方法に通暁すれば、他の全ての方法にも通じるようになるものじゃ。
 一法は万法に通じ、万法は一法に帰すというのじゃ。
 一つの道から登って山の頂上に立てば、全ての道が見渡せるようなものじゃ。
 一つの道によって悟りを得れば、全ての法を説く事もできるのじゃ。

 修行者は自分に合う方法を決めたならば、その道を一筋に精進することで最も速やかに悟りを得られるのじゃ。
 そのように一つの道を辿って日々精進あるのみなのじゃ。
  


悟りを得るための修行法 | 12:09:06 | Trackback(0) | Comments(4)
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