FC2ブログ
 
■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
愛とは
  お釈迦様はこのように言っておる。

210、 愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 ここで愛と言われているのは愛着であり、執着なのじゃ。
 慈悲とは違うものなのじゃ。

 慈悲は自他の同一観から起こるものであり、他人の喜びを自らの喜びとして感じ、他人の悲しみを自らの悲しみとして観るものじゃ。
 愛着や執着は自分の孤独や不安から起こるものであり、逃避に過ぎないものじゃ。
 苦である孤独や不安から逃れようとして愛着し、更に苦を増やすことになるのじゃ。

 愛する者と離れる苦が愛別離苦であり、憎む者と会わなければならないのが怨憎会苦なのじゃ。
 愛するものがあれば、反対に憎む者も出来るのじゃ。
 愛する者を傷つける者や愛する者と反対の特徴がある者を憎むのじゃ。
 そして憎む者と共に居ることで苦しむのじゃ。
 そのように愛憎共に人を苦しめるものなのじゃ。

 愛する者によって苦しむ人の姿は日常でも多く観られるものじゃ。
 愛する者と離れる苦だけでなく、会っていても互いに傷つけあう苦もあるのじゃ。
 愛し合っていても自我があれば傷つけあわずにはいられないのじゃ。
 更には情痴のもつれからの犯罪や、ストーカーなどの犯罪までも引き起こすものじゃ。

 愛とは麻薬のようなものとも言えるのじゃ。
 人に一時的な快楽はもたらすが、やがては苦になり、破滅にさえも陥らせるものなのじゃ。
 しかし、麻薬も使いようによっては薬になるように、愛も慈悲になれば人に利益をもたらすものとなるのじゃ。

 愛着は自らのために他人を求めるものじゃ。
 慈悲は自他双方の利益を求めるものなのじゃ。
 
 愛着は人をありのままに慈しむことはなく、離れていれば会いたがり、会えば自らの思うとおりに操ろうとするものじゃ。
 それによって傷つけあうことにも繋がるのじゃ。
 慈悲は人をありのままに慈しみ、苦楽を共にして、自他の利益を図ろうとするのじゃ。
 そうであるから傷つけあうことも無く、進歩していくことも出来るのじゃ。
 そのような慈悲はそのまま善事であると言えるのじゃ。

 愛とはこのように両面の働きがあり、慎重に見極めなければならないものなのじゃ。
 自分が愛着し、執着しているならば、自らを観察して気付くのじゃ。
 そうすれば執着から離れ、破滅することも無いのじゃ。
 更に意志によって愛着を慈悲にまで昇華し、自他共に利益を図るのじゃ。


スポンサーサイト
ダンマパダ(法句経)解説 | 20:32:12 | Trackback(0) | Comments(2)
見られただけならば自我は無いのじゃ。


続きを読む >>
悟りの真実 | 17:52:43 | Trackback(0) | Comments(10)
自我の苦
 お釈迦様は自ら衆生の病を治す医者であると言ったのじゃ。
 衆生は病にかかっているから、それを治すというのじゃ。

 それがどのような病かといえば 衆生は自我という観念による病にかかっておるのじゃ。
 自我があれば、そのイメージによって苦も受けるのじゃ。

 自分が他人より劣っているというイメージを持った者はそれによって劣等感に苦しむのじゃ。
 自分が他人より優れていると思う者は、それを証明するために必死に働かなくてはいかんようになるのじゃ。
 逆に優秀な自分を守るためにと、引きこもりになったりもするのじゃ。

 自分があれば自分の好きなものが認識され、それに執着して苦になるのじゃ。
 自分があれば自分の嫌いなものも認識され、それを避けるために行動も制限されるのじゃ。

 このように自我はあらゆる人間に苦をもたらし、行いも制限しているのじゃ。
 自我によって認識する全ては苦になり、一時の快楽さえもやがては苦に変わるのじゃ。
 
 それも観念によって起こる病なのじゃ。
 観念による主体を自己と呼び、観念による客体を他己と呼ぶのじゃ。
 自己以外の全てが他のものであるならば、小さな自己と自己以外の全ての世界が対立するという観念を生むのじゃ。

 その観念が強い孤独感や孤立感、寂しさを起こすことになるのじゃ。
 それらからまた逃避、執着、攻撃欲等の苦に繋がる観念が起こるのじゃ。
 
 自我の観念は多くの苦の源であり、苦の上に苦を積み重ねるものなのじゃ。
 お釈迦様はそれを無明と呼び、観察することによって滅することが出来ると説いたのじゃ。
 苦を生じ、迷いを起こす無明も一度完全に観察されれば、煙の如く消え去るのじゃ。
 賢明な修行者は無明のもたらす大きな苦を知り尽くし、恐れを超えて進むのじゃ。


悟りの真実 | 14:47:35 | Trackback(0) | Comments(0)
ブラフマンの法
  ブラフマンの法とは元はヴェーダに記載されていた法なのじゃ。
 肉体をどこまでも広がっていくイメージをすることで、意識を拡大していくのじゃ。
 そのようにイメージすると実際に拡大された空間に自らの意識を感じることができるのじゃ。

 集中の行を実践していると意識が際限なく広がる識無辺処定に入るが、その境地を直接に目指すのがこの法なのじゃ。
 密教に伝えられている法と同じなのじゃ。
 ヴェーダによって伝えられているのは、体が広がるイメージなのじゃ。

 集中して座っている自分の体がどんどん大きくなっていくとイメージするのじゃ。
 体が部屋一杯に広がり、更に広がっていくのじゃ。
 部屋からもはみ出していって、どんどん大きくなっていくのじゃ。
 山川海空の全てに体が広がり、全ての空間を満たすようにイメージするのじゃ。

このようにイメージして行くと、ただのイメージではなく、空間に意識が感じられるようになるのじゃ。

 
 お釈迦様は三明経等で感情を使うブラフマンの法を説いているのじゃ。
 ブラフマンと同じ境地になる法としているのじゃ。

 心の中で慈悲を感じる対象を想い起こし、慈悲の感情を起こすのじゃ。
 その感情が体中に広がっていくとイメージするのじゃ。
 更に体から外にまで慈悲が広がっていくとイメージするのじゃ。
 今座っている部屋一杯にまで広がっていくのじゃ。
 そして部屋からも広がって、慈悲がどこまでも大きくなるようにするのじゃ。
 慈悲がどこまでも広がり、大地も空も埋め尽くすほどに大きくなっていくとイメージするのじゃ。
 地球とか宇宙とかの知識として知っている全ての空間を埋め尽くすのじゃ。

 集中が途切れてきたら、その感情が少しずつ小さくなり、自分の体に収まるとイメージして行を終えるのじゃ。

 そのようにイメージしていくのがお釈迦様の教えられたブラフマンの法なのじゃ。
 これも同じように日々続けているとただのイメージではなく、空間に実感が在ることが感じられるのじゃ。

 元々意識は全てに繋がり、空間にも在るものであるが個我の観念があればそれは感じられないのじゃ。
 肉体の感覚だけが自分の感覚と認識するからなのじゃ。
 そして自分の肉体と感覚以外に自分は無いと認識するのじゃ。

 このブラフマンの法を行えば、観念を超越した空間の意識が感じられるのじゃ。
 それを感得することで、肉体や感覚だけが自分であるという観念が薄れ、無辺の境地に至ることが出きるのじゃ。
 未だ悟りに至らなくとも、無辺の意識に到達しただけでも死という肉体の消滅によって全てが消滅するという観念は無くなるじゃろう。
 そして死の恐れも超えることが出来るのじゃ。

 死を恐れる者、更なる集中の境地を求める者、真実の意識を確かめたい者はこの法を日々修業するとよいのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 22:41:39 | Trackback(0) | Comments(2)
驕りに気をつけるのじゃ。

 驕りとは自らの知識や能力を過信して現実が見えなくなることなのじゃ。
 長年学んだり修行したりしていると、それによって驕りが出てきたりするものじゃ。
 驕りにかかると進歩も止まってしまうのじゃ。

 驕りは自己イメージを肥大させて修行すらもやめてしまう原因になるのじゃ。
 自分はもう十分に知っているとか、悟ったとか思ってしまうのじゃ。
 それで修行をやめてしまえばもはや進歩することもなくなるのじゃ。

 そのような驕りも原因があるから起こるものじゃ。
 驕りの原因は大抵、劣等感なのじゃ。
 自らを劣っているという観念があるから、逆に肥大した自己イメージを設けるのじゃ。

 そのような者が謙虚に自分の本心を見て驕りに気付くのは困難なことじゃ。
 自らが劣っているという観念から逃避している故に、原因を見出せないのじゃ。
 劣等感を認めることが非常に辛いからのう。
 
 実際にはその劣等感さえも植え付けられたものであったり、ただ虚偽の観念に過ぎないのじゃ。
 虚偽の観念からの逃避から、驕りが起こり、修行も止めてしまうのは愚かなことじゃ。
 修行者は気をつけなければいかんのじゃ。

 自分はもう十分に知っているとか、修行などはもう必要ないとか思うならば、それは驕りでしかないのじゃ。
 お釈迦様でさえ、日々自ら乞食をして家々を回り、時には断られたりしていたのじゃ。
 毎日瞑想をして弟子達に模範を示していたのじゃ。

 悟っても悟らなくても日々学び修行を実践するのが真の道なのじゃ。
 未だ死を超えていないのに、実践を止めてしまうのはもはや苦から苦へと迷う虫や獣と変わりないのじゃ。
 真の道を行く修行者は驕りに気をつけて進むのじゃ。




悟りを得るための修行法 | 21:18:59 | Trackback(0) | Comments(2)
次のページ

FC2Ad