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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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更に徹底した観察をするのじゃ。
 お釈迦様の説いた法は集中の他には多くが観察の法なのじゃ。
 あらゆる方法で徹底した観察をすることこそ悟りに向かう方法なのじゃ。

 縁によって起こる心の働きを観る縁起の法だけではなく、さまざまな方法をお釈迦様は教えているのじゃ。
 五蘊によって心身を観察するのもその方法の一つなのじゃ。
 別に身受心法の四つに区別して観察する方法もあるのじゃ。
 特に明確にこれらの法に名を付けているのではないが、それぞれ別の方式によるのは確かなのじゃ。

 或いは又目などの感覚器官と視覚などの感覚を十二の処にわけて観察するものもあるのじゃ。
 更に感覚の世界を足して十八処の観察をするのもあるのじゃ。

 それら全てに共通するのはとにかく徹底した観察をするという事なのじゃ。
 心身を徹底して観察することで自我も完全に観察され、厭離が起こるのじゃ。

 その観察も難しいものではないのじゃ。
 人が生きて行く上で、度々観察は行っているものじゃ。

 医者が患者の顔色などを観て診断している時、観察を行っているのじゃ。
 或いはパン屋がパン生地を捏ねて混ざり物がないか観ている時も観察を行っているのじゃ。
 
 母親が子供の服を選ぶ時、観察をしているのじゃ。
 道を渡る時に車が来ないか見渡しているのも観察なのじゃ。

 それらの観察を自らの心の中に向ける時、変容は起こるのじゃ。
 ただ集中力が無ければ、観察は続かないのじゃ。

 そのように観察は誰にでも出来る方法であり、自分に向いた方法を探すのが続ける原動力となるのじゃ。
 悟りを目指す修行者は自らに合った観察を日々実践し、進んでいくがよいのじゃ。

 


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悟りを得るための修行法 | 20:29:58 | Trackback(0) | Comments(0)
観察は習慣によってはいかんのじゃ。
 苦を滅するためには先ず最初に、それがどのような苦であるかを見わけなければならんのじゃ。
 苦が見わけられなければ、原因も分からず、滅することはできないのじゃ。

 例えば周りに人が居ない孤独と、愛する者と別れた苦は違うものじゃ。
 周りに人が居ないと不安や心細という感情があり、それが苦になるものじゃ。
 孤独の苦なのじゃ。
 それは自分という者があるという観念に対する執着が原因となっているのじゃ。

 愛する者と別れた苦は愛別離苦といい、愛する者への執着が原因なのじゃ。
 共に周りに人が居らず、孤独を感じる故に、同じものと間違いやすいが感じる苦は違い、原因も違うのじゃ。

 そのように同じような状況で同じ苦に見えても、それぞれ違う苦があるのじゃ。
 苦が違えば原因も違い、それぞれに自らの本心を観察して見わけなければならんのじゃ。

 観察というものに慣れてしまうと、時に似たような苦には同じものであろうと見当を付けてしまい、同じ原因として観たりするものじゃ。
 しかし、実は違う苦であれば原因も異なり、観察も効果が無かったりするのじゃ。

 観察は常に自分の心の中に新しい何かを発見する心構えで行わなければならんのじゃ。
 習慣化してしまうと観察ではなくなるのじゃ。
 観念を観ているだけになってしまうのじゃ。

 記憶に依存している人間は、同じことを繰り返していると、つい習慣化してしまい、観念遊戯に陥ってしまうものじゃ。
 観念をもてあそぶのは観察ではないのじゃ。

 常に心の中に新しい何を見つけようと、全ての注意力を注ぐのが観察なのじゃ。
 それによって困難な苦の見わけもつくものじゃ。

 更に人は生き物の本能によって苦しいことからは逃げようとするから、苦からも目を逸らす作用が働くのじゃ。
 苦が人の心にあり続けるのも、そのような逃避があるからなのじゃ。
 時には何年も、或いは何十年も苦から逃避し続けて一生苦しんだりもするのじゃ。

 そのような逃避からも脱却するために、観察は全ての注意力と集中力をもって行わなければならんのじゃ。
 全ての注意力と集中力をもって観察を行えば、苦も見分けがつき、確実に滅することもできるのじゃ。
 このように観察は習慣によってはならず、逃避も乗り越えていかなければならぬ故に真に困難であるが、実践できれば確実に苦を滅し、悟りに導くことができるのじゃ。
 修行者は力を尽くして実践するがよいのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 23:47:45 | Trackback(0) | Comments(8)
一切世間は無常なのじゃ。
 人間は同じような環境が続くと、いつまでもこのままでいられると思ってしまうものじゃ。
 それにはこのままでいたいという願望もあり、真実を見ないようにしているのじゃ。

 実際にはこの世では全ては変化してとまらないものじゃ。
 世間では常にあるものは何も無いのじゃ。
 それを無常とお釈迦様は教えたのじゃ。

 全ての世間のものはやがて滅していく性質のものなのじゃ。
 不安や恐れからそれを見ようとしていなければ、労病死の定めが訪れた時に嘆くことになるのじゃ。

 それは目覚めた者の肉体も同じなのじゃ。
 心は既に不死の境地にあっても、肉体は滅びていくものじや。

 お釈迦様も涅槃に入り、その後の多くの目覚めた者達ももはやいなくなったのじゃ。
 わしもいずれはいなくなるものじゃ。
 それは予め定められたことなのじゃ。

 仏陀も肉体がある間だけ存在し、道標になることが出来るのじゃ。
 人として生まれ、正しい道を示す者が居る間に、修行できる環境にあることは実に稀なことなのじゃ。
 稀な機会を逃せば後に悔やむことにもなるじゃろう。
 
 この稀な機会にただひたすらに修行に励めば不死の境地にも至れるのじゃ。
 お釈迦様が無情を説いたのも、世間を超えた所に無限の境地があるからなのじゃ。
 修行者はこの有限の時間で無限の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。


元気が出る説法 | 13:45:53 | Trackback(0) | Comments(3)
絶望を超えるのじゃ。
  絶望とは希望が絶たれた状態なのじゃ。
 前途に希望がないと、絶望の余り何もしたくなくなったり、時に自分や他人を傷つけてしまったりする事さえあるものじゃ。
 人が犯罪に走ったりするのもそれが原因の一つだったりするのじゃ。

 そのような絶望もよく観察してみれば、滅することも出来るのじゃ。
 自分に前途が無いとか、悲観しているよりその状態をよく観察してみれば絶望も実は幻想であったと気付けるのじゃ。
 絶望にも原因があり、原因から観察できれば厭離されるのじゃ。

 絶望の原因に多いのは恐れじゃろう。
 例えば道に落ちている縄を蛇だと思い、道を通れないから仕事が出来なくて絶望するなどという事があるとしよう。
 しかし、よく見れば縄だと気付いて道が通れるようになり、仕事も出来るようになるのじゃ。

 そのように他人への恐れとか、仕事そのものに対する不安や恐れ等があって仕事が出来ず絶望していても、恐れの原因を観察してみれば、実は恐れそのものが幻想によるものだと気付いてなくなり、恐れも消えるのじゃ。
 観察によって恐れが無くなり、仕事が出来るようになれば絶望もなくなるのじゃ。
 そのようにして恐れによって絶望があっても、恐れを原因から観察して滅すれば絶望も消えるのじゃ。

 更には自分自身のイメージが小さいために絶望に陥ることもあるじゃろう。
 親等からあれも出来ないとかこれも出来ないとか言われて育つと、その者の自己イメージは矮小となり、本当に自分は何も出来ないと思い込むようになるのじゃ。
 或いは親子供に依存していれば、親を正当化するために自分は無意識に失敗を繰り返し、無能力であることを証明する。
 そして絶望してしまうのじゃ。

 それらもよく自らの心を観察し、過去の記憶に縛られていたと気付けば消えるのじゃ。
 例えば子供が遊戯で悪役を演じていたとして、遊戯が終わればもはや悪役を演じる必要もないと気付くようなものじゃ。
 親兄弟との関わりで演じていた自己のイメージを離れれば、全て変わるのじゃ。
 特にしばらく離れていれば自らを省みて気付く事も容易になるのじゃ。


 他にも希望に強く執着していた為に、それを失ったという事で絶望に陥る事もあるじゃろう。
 目標や希望を持つ事はよいことであるが、それに執着してしまうと却って苦になり、絶望したりすることもあるのじゃ。
 余りにも高望みし過ぎて失敗したり、進歩が遅いと希望は絶望に変わり苦になるものじゃ。
  
 そのような原因の絶望も観察によって滅するじゃろう。
 希望することや目標を持つ事がいけないのではなく、それに執着しすぎると苦になり、絶望することにもなると、気付く事でそれも無くなるのじゃ。
 そして結果に執着することなく、ただひたすらに新たな希望に向けて進んでいくこともできるじゃろう。

 そのように絶望も詳細に観察することによって、滅することが出来るのじゃ。
 日々実践に勤める修行者には絶望も、もはや無に等しいのじゃ。
 賢い者は日常に於いても絶望を超えて進むのじゃ。


元気が出る説法 | 13:22:21 | Trackback(0) | Comments(14)
慈悲と執着
 仏教に限らず多くの宗教は愛を尊び、愛による行いを推奨するものじゃ。
 お釈迦様は慈悲と言い、他者と自分を同じように扱うことを説いておる。

 しかし、愛によって他者を苦しめ、自分自身も苦しむ事もあるのじゃ。
 それは愛や慈悲と、執着を区別していないからなのじゃ。
 愛や慈悲と執着は似ているが、まったく違うのじゃ。

 愛や慈悲による行いは自他を幸福に導くものじゃ。
 執着による行いは自他を苦しめるものなのじゃ。

 例えば愛するものと別れる愛別離苦という苦があるのじゃ。
 それは執着の故に苦になるのじゃ。

 本当に愛しているだけならば、どんなに離れようと相手が安楽ならば苦にならないものじゃ。
 今ここに無いことを悔やめば執着になり、苦を起こすのじゃ。

 愛や慈悲とは相手をありのままに認め、今ここにある状態に満足する事なのじゃ。
 執着とはありのままの状態を認めず、今ここには無いことを願うことなのじゃ。

 愛するものと別れ、今ここにいればよいとか、過去にはここにいたとか、未来にここにいるようになるとよいとか、思うことが執着なのじゃ。
 今ここにいる愛する者にも、今このようであればよいとか、過去にこのようにすべきであったとか、未来にこのようになればよいとか思うことが執着なのじゃ。
 例えば子供に良い学校に入ればよかったとか、この先よい学校に入るべきであるとか、入られなければならない故に今は全てを犠牲にして学ばなければならんとか思うのが執着なのじゃ。

 そのような執着があれば苦は自他に起こり、争いあう不和となるのも当然なのじゃ。

 相手がどのような状態であろうと認め、慈しむことが真の愛であり慈悲なのじゃ。
 相手の安楽を喜び、苦境にあれば哀れむのが慈悲なのじゃ。
 それでこそともに助け合い、進歩していくことも出来るのじゃ。

 愛や慈悲を実行しているのに、何故自他共に苦しむのかと迷う者は、このように愛や慈悲と執着を間違えていないか、よく観察してみるのじゃ。
 その執着も不安や孤独感から起こるものじゃ。
 自らの本心をよく観察し、愛や慈悲を行っているつもりで、執着していないか気をつけて進んでいくのじゃ。
 


元気が出る説法 | 21:42:19 | Trackback(0) | Comments(4)
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