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鬼和尚天空

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般若心経実践法⑥
  般若心経によって空の法を実践しようとしている者は、特に注意して心がけなければならないことがあるのじゃ。
 それはいかなるものごとをも、空であるという見解を持ってはいかんということなのじゃ。
 今まで空の法を述べておきながら、おかしなことを書くと想う者も居るかもしれんが、それが最も肝心なことなのじゃ。
 
 空の法とは修行のための方法であり、一般的な真実ではないのじゃ。
 実在する何かが空であるという事はありえないのじゃ。
 修行のために実在するものごとを空であると、念じるだけなのじゃ。 

 それを理解できずになにものかが空であると、知識として覚えれば見解を持つことになるのじゃ。
 何かを空であるという見解を持つことは、法に囚われることになるのじゃ。
 空見を持ってしまうことになるのじゃ。

 いかなる見解をも破壊するのが空の法の真髄なのじゃ。
 それを理解できずに空という見解を持てば、法の核心を取り逃がすことになるのじゃ。
 空見を持てば却って悟りから遠ざかることになるのじゃ。

 空見を持つものに自己同一化が起こるからなのじゃ。
 空という見解を持つ主体が自分であるという自己同一化が起こり、厭離できなくなるのじゃ。
 
 そもそも五蘊を空と見なすことは、自分という観念を空として厭離するためなのじゃ。
 それが全ての般若経の目的とも言えるものじゃ。
 自己同一化を取り除くための観念が空なのじゃ。

 空の法を実践して自己同一化が厭離できなくなり、逆に強化するならば、それは本末転倒というべき事態なのじゃ。
 そうであるから空という法とその主体をも空であると見なさないければならないのじゃ。
 
 それが般若心経の最も肝心な法なのじゃ。
 全てを空と見なしても、それを実践する主体が残ってしまえば空ではないのじゃ。
 空の法を実践する者も空と観るのじゃ。
 空の法を実践する主体もまた空であると見なすのが、正しい空の法なのじゃ。

 空という法を知る者も実践する主体も空であると観るのじゃ。
 空という法をも空と観るのじゃ。
 空という法を行使する心も、行使される対象も空と観るのじゃ。

 それが実践できれば主体が空であるとして感じられない無我に至るのじゃ。
 更に主体が感じられなくとも、それを認識するものがあるのじゃ。
 それを阿頼耶識と唯識論では呼ぶのじゃ。

 それもまた空と見なせば、消えていくのじゃ。
 そのようにして菩提、悟りも究極にまだ至れるのじゃ。
 記憶に依存した認識である阿頼耶識さえも空として滅すれば、もはや大悟徹底の境地なのじゃ。
 究極涅槃であり、不死の境地なのじゃ。
 一切の苦悩と憂いが無く、永遠の至福と唯一つの意識が残るだけなのじゃ。

 空の法を実践する者は、そのような言語も絶した究極涅槃の境地に至るまで、実践在るのみなのじゃ。
 


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悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 21:08:44 | Trackback(0) | Comments(0)
般若心経の実践法⑤
  般若心経の最後の実践は認識の空を観じる方法なのじゃ。
 認識とは人の全ての心身の働きの根本にあるものじゃ。
 認識が無ければ全ての心身の働きは行うことが出来ないのじゃ。

 認識するという心の働きと、認識の対象と、認識の主体が全て空であると念じれば、全ての心身の働きも消え去るのじゃ。
 認識することが無く、認識対象と認識主体が無ければ、全ては無になるのじゃ。
 認識するが無ければ何かをしてもしなかったことになるのじゃ。
 知識も無く、分別も無く、およそ言葉にする事も全てなくなるのじゃ。

 そのようにして認識が止まれば、自分という認識も止まるのじゃ。
 自分という主体が無く、他人という客体もない。
 知覚するものも無ければ、働きもない。
 その時、真の無為が為されるのじゃ。

 自分が無くもはや心の働きも無く、言葉にする事もない無為の境地に在れば真の大悟徹底の境地にも参入できるのじゃ。
 
 最後の境地にまで至るには、悟りを達成するという強い意志が必要になってくるのじゃ。
 認識が空であると強く念じれば、あらゆるものごとが認識できない状態になるのじゃ。
 それは狂気の状態に似ているのじゃ。
 それに恐れをなして逃避してしまう者もいるじゃろう。

 そもそも人は認識された知識による世界に住み、それを自己よりも先にあり、従うべき世界であるとして自己よりも高い価値観を持っているものじゃ。
 それがなくなるということは混乱に還ることであり、知識による世界の整合性を求めていた者には到底受け容れられない事じゃろう。
 洋の東西を問わず、人の作り上げた世界は知識の大きな集合としてあり、知識の王国とも言えるものじゃ。
 知識を多く集め、知識を積み上げることが人間の最も偉大な営みとして認められてきたのじゃ。
 
 それらが無くなる事は自分個人としての破滅ではなく、世界全ての破滅にも思えるものじゃろう。
 西洋では知識を愛することが哲学として全ての学問の上位に位置づけられているのじゃ。
 分別や知識を無くせという教えは、人の営みとして本来ありえないものとさえ言えるのじゃ。

 しかし、大乗仏教ではそれを実践せよと説かれるのじゃ。
 知識や分別を無くすことが、生き物としての至高の境地である悟りに通じるものであると言うのじゃ。
 このような逆説的な教えを実践し続けるには、正に強い悟りへの意志を奮い起こさねばならないのじゃ。

 狂気にも似た無分別の状態を乗り越えたならば、更に法を捨てる段階に入るのじゃ。
 般若心経で苦集滅道、十二因縁さえも空と説かれた通り、仏陀の教えさえも空としなければならんのじゃ。
 それは空の法も同じなのじゃ。
 このすべてを空と念じる法さえも空と観るのじゃ。

 正に空を空と観るのじゃ。
 空は空と異ならず、空は即空であると観るのじゃ。
 これこそ般若心経の文字には表れない、文底に隠された最後の法なのじゃ。
 狂気にも似た混沌から無為に入り、法をも捨て去った時、真の悟りは芽生えてくるのじゃ。
 
 その時、自己を捨て去ったことから心身の完全な統御を得ているじゃろう。
 観念を捨て去ったことから観念の完全な理解を見出すじゃろう。
 知識を捨て去ったことから智慧の完全な完成を遂げているじゃろう。

 観念の一つである死はもはや無く、永遠の安楽が実感できるじゃろう。
 時間が無いことが永遠であり、全てが意識であるから空間と言えるものも無いのじゃ。
 
 そのような大悟徹底の境地に至るまで実践あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 20:47:59 | Trackback(0) | Comments(6)
般若心経の実践法④
  行とはものごとを分別する働きなのじゃ。
 知覚したものごとがどのようなものか、記憶に拠って分類するのじゃ。
 認識の一環として働くものであり、通常はその働きは無意識に行われ、観ることもできないものじゃ。

 それを見極めて空として観想することで、妄念を産む分別の働きを止めることができるのじゃ。
 
 人が通常、何かを知覚したならば、即座にそれが何か観念によって分類する働きが心に起こるのじゃ。
 例えばりんごを見たならば、それが赤く、丸いという特徴から、りんごの記憶と照合され、それがりんごであると観念によって認識されるのじゃ。
 何かを知覚すれば、その働きはそうしようと想わなくても自動的に起こっしまうのじゃ。
 
 観念を自動的に起こす働きなのじゃ。
 その行の働きがあれば観念はいつまでも起こり続け、思考や感情をも次々に起こるのじゃ。
 
 それは記憶しているものならば、直ぐにそれらの特徴がわかって便利な反面、人には不利益なことも在るのじゃ。
 分類が素早く無意識に行われてしまう故に、苦を生じるものごとを知覚した時にも、素早く苦をもたらしてしまうのじゃ。
 そしてその働きは無意識であるから、意識的には止められないのじゃ。


 そのような苦を生む働きを止めるために、空の観想が役に立つのじゃ。

 通常ならば余りにも素早く働く故に、行はその働きを感じることすら難しいじゃろう。
 しかし、それを自覚する方法もあるのじゃ。
 今まで見たこともないものごとを知覚した時、行の働きはいくつもの記憶と照合するために、かなり遅く働くのじゃ。
 りんごに似ているが色が違うとか、形が違うという物を見れば、それはりんごかなしか、或いはみかんかと、暫くの間迷いが生じるのじゃ。
 その時には分別する働きは遅く成る故に、自覚できる時間もあるのじゃ。

 そのようにして行の働きを自覚できたならば、それを空と観ることも可能になるのじゃ。
 常日頃から注意して自分の心の働きを観察しようとしているならば、それも観られるのじゃ。
 それは観念を起こす働きである故に、それを空として止める事が出来れば、観念をも生じなくさせることが出来るのじゃ。

 行の働きを自覚することは困難であるが、一度それが観られて空と観想することができれば、観念の根本から止める事が出来る故に、観念を滅するよりも強力な方法となるのじゃ。
 観念がいくら滅しても次々に湧いて止められないという者も、行から滅すれば止める事が出来るようになるじゃろう。
 原因から滅する事が出来るから、強く執り付かれている観念に対しても有効な方法となるのじゃ。

 実践によって確かめてみるのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 21:08:46 | Trackback(0) | Comments(6)
般若心経の実践法③
  般若心経の実践法の三番目には想念の空を観想するのじゃ。
 想念とは観念と言ってもよいのじゃ。
 名前と形のイメージによって認識される心象なのじゃ。

 悟って居ない者にとって全ての物事は、この観念によって認識されているのじゃ。
 あるものが在ると認識するには、名前と心の中のイメージに拠るしかないのじゃ。
 名前とイメージによって分別できないものは無いとされるのじゃ。
 
 観念を空と見なすことで、あらゆる認識の対象から解放され、囚われなくなるのじゃ。
 それは自分という観念にとっても同じなのじゃ。
 観念が自分として自己同一化している者は、この想念の空を怠り無く実践することで無我にもなれるのじゃ。

 想念の空には二つの効果のある実践があるのじゃ。

 
 一つは執着する全てのものごとの観念を空と観ることなのじゃ。
 心の中で何かに執着していれば、修行の道も進まないのじゃ。
 金とか名声とか権力とか異性に執着したままでは、心は悟りを求めて自我を滅しようとはしないじゃろう。
 そのような執着を捨てるために、執着の対象を空と観る方法が必要なのじゃ。

 もう一つは自己の観念の空なのじゃ。
 これが本来の修行の道といえるものじゃ。
 自分という観念を空と観ることで、自我の厭離が起こり、自己同一化がなくなるのじゃ。

 修行の順序としては先ずさまざまな執着を空として取り除くことから始めなければならないじゃろう。
 執着があれば修行は進まないからのう。
 あらゆる執着を取り除いてこそ、修行も速やかに進むのじゃ。

 何かに執着していれば、苦も起こるものじゃ。
 執着の対象を空と見なすことが出来れば、苦もなくなるのじゃ。
 これこそ心経の法を実践をする上での最も大きな利点と言えるのじゃ。

 観念を全く生じないようにするのは、悟っていない者には困難なことじゃ。
 観念を消そうとすると、観念は消えず、観念が消えないというその観念によって又苦しめられるのじゃ。
 そのような苦は誰もが経験したことがあるじゃろう。
 例えば異性に強く執着して何度も考えて、苦しいからもはや考えないようにしようとしても又考えてしまう。
 更に考えないようにしようとしても出来ないことが苦になる。
 異性だけでなく、いろいろな執着によって何度も体験したことじゃろう。
 そのような繰り返しで貴重な人生の時間を消耗してしまうのじゃ。

 そのように観念に取り付かれて消せない時に、心経の空は効果を発揮するのじゃ。
 観念は悟りを得ていない者には容易に消すことは出来ないが、何度も繰り返し観想することで変えることは出来るのじゃ。
 観念を空に変えれば、消したことと同じ効果があるのじゃ。

 金に執着しているならば金とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
 名声に執着しているならば名声とは空であり、無いものであり、増えることも無く減ることも無く、清浄でも汚くも無く夢幻であり、存在し無いものであると観るのじゃ。
 そのようにして執着の対象となるあらゆるものを空と何度も観想し、念じるのじゃ。

 執着の対象を空とすることで厭離も起きて、修行も進むのじゃ。
 更には修行のための法もあまりに執着すれば、苦になり、修行の妨げにもなるのじゃ。
 それもまた空と見なして捨てるべきなのじゃ。
 心経には苦集滅道も空と記されているのは、そのためなのじゃ。
 四諦十二因縁全てが空と見なせば、法に対する執着をも消せるのじゃ。

 それが出来れば自己の観念をも空と観ることに進むのじゃ。
 悟りを得ていない人間は自己をも観念として認識しているのじゃ。
 心の中の観念を自分と認識しているのじゃ。
 観念の自分は自分の名前と、自分の姿形、形象、イメージによって出来ているのじゃ。

 それを自分と認識しているから、自分の名前を広めたいと思い、他人に与えるイメージを良くしたいという執着も生まれるのじゃ。
 そのために時には自分や他人の命さえも顧みないことさえあるのじゃ。
 それが多くの苦と混乱を引き起こしているのじゃ。

 自己の観念を滅するために、名前とイメージの空を実践するのじゃ。
 自分の名前が空であり、自分の姿形、形象、イメージも空であると何度も観るのじゃ。

 自分の名前が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、あるものではなく、無いものでもないと観る時、名称による自己同一化がなくなるのじゃ。
 そして自分の名前による執着、名前を広めたいという欲が無くなるのじゃ。

 同じように自分のイメージ、姿形、形象が空であり、無であり、夢幻であり、減ることも増すことも無く、清浄となることはなく垢つくこともなく、あるものではなく、無いものでもないと観れば形象による自己同一化がなくなるじゃろう。
 それが出来れば安らぎがあるじゃろう。
 他人に与えるイメージを良くしようと思う欲がなくなるからなのじゃ。

 名前と形象による自己を守ろうとする緊張も無くなるから神経も解放されるのじゃ。
 同時に自己の観念のための欲と動機も無くなるから、あらゆる心の働きも沈静化するのじゃ。

 そのようにして一時的な忘我であるサマーディも容易に達成できるじゃろう。
 更に自己の観念が空であると、完全に気付いたならば、無我にもなるじゃろう。
 無我になっても観ているものがあると気付き、それもまた空であると観るならば、大悟徹底も完遂されるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 13:33:14 | Trackback(0) | Comments(16)
般若心経の実践法②
  身体の次は感覚を空と観想する方法を実践するのじゃ。
 眼耳鼻舌身意の感覚器官と、見聞臭味触意の対象を空と念じるのじゃ。
 眼によって見る、耳によって聞く、華によって嗅ぐ、舌によって味わう、皮膚によって触れる、心によって思いを感じるという感覚もまた空と念じるのじゃ。
 それらの感覚が空と感じられれば感覚による自己同一化がなくなり、自我や苦もなくなるのじゃ。

 実践としては暫く瞑想をして心を鎮めた後、眼を見開いて見るのじゃ。
 眼を見開いてそこにあるのは壁とかでもよいのじゃ。
 今見ているものが空であると強く何度も何度も念じるのじゃ。
 それはあるものではなく、かげろうのような幻であり、どこまでも無であり、在るものでも無いものですらもないと念じるのじゃ。

 更に今見ている眼も、見ることのできる力である視覚も空と念じるのじゃ。
 そのように何度も何度も空と念じていると、本当にその空が感じられるのじゃ。

 見ているのが壁ならば、それが壁として感じられない、見えているのに壁と認識できないというような状態になるのじゃ。
 確かに眼の感覚として捉えているのに、見ることがない空の状態になるのじゃ。
 そうすれば視覚の空は完成した言えるのじゃ。

 同じように耳で聞くことも空と念じるのじゃ。
 虫の声でも騒音でも何でも聞こえている音を空と念じるのじゃ。
 聞いている耳も、聞くという感覚も空と念じるのじゃ。
 何度も実践していると、耳に聞こえている音も認識せず、聞こえているのに聞くことが無い状態になるのじゃ。
 感覚としては聞こえることがあるのに、認識は出来ない空の状態になるのじゃ。
 そのようになれば聴覚の空は完成なのじゃ。

 鼻で嗅ぐ匂いも又空と念じるのじゃ。
 臭覚も鼻も空であり、在るものでも無いものですらないと観想するのじゃ。
 何度も何度も念じていれば、臭覚も空となるのじゃ。
 嗅いでも匂いがわからず、何の分別も無くなって臭覚の空は完成するのじゃ。

 舌で味わうものも空と念じるのじゃ。
 味は空であり、何等存在するものではなく、無でさえ無である絶対的な無であり、空と念じるのじゃ。
 味わう舌も味覚も空と念じるのじゃ。
 そのように何度も実践していれば味覚も空となるのじゃ。

 更に身体で触るものも空と念じるのじゃ。
 触っている手や足も空であり、触覚も空と念じるのじゃ。
 触れたことによる分別が無くなり、何を触れているのかわからず、触れるということすら失念した時に触覚の空は完成するのじゃ。
 
 最後に心に感じることも空と念じるのじゃ。
 怒りや悲しみ喜びや楽しささえも空と念じるのじゃ。
 いかなる思想や主張や主義も全て空と観るのじゃ。
 それら全てが空であり、幻であり、存在せず、あるものでも無いものでも無いと念じるのじゃ。
 それらを感じる心も、感じられる心の感覚すら空と念じるのじゃ。
 そうすれば心で感じることも空となるのじゃ。

 心に何が浮かんでもそれを認識せず、心が働くことも自分とは無関係に感じられるのじゃ。
 心は何もしなくても勝手に働き、何もしないで静まっていくじゃ。
 それにも囚われないならば、心の空が完成したと言えるのじゃ。

 このようにして感覚の空を完成すれば、感覚に主体を投影していた者は自我を厭離して無我にもなるのじゃ。
 感覚に主体を投影していなかった者も感覚に依存していたことに気付き、感覚から起こる苦や囚われを無くすことができるのじゃ。
 
 感覚そのものは存在し、在るものであるが、人はそれを観念として認識している故に自己同一化や囚われが起こるのじゃ。
 空と観想することでそれらの謬見が無くなり、厭離も出来るようになるのじゃ。
 修行者はこのような効果のある空の法をひたすら実践するとよいのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 20:49:38 | Trackback(0) | Comments(2)
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