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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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六波羅蜜を修めるのじゃ。
  大乗仏教では菩薩は六波羅蜜という六つの修養徳目を実践するように説かれるのじゃ。
 波羅蜜とは完成という意味なのじゃ。
 六つの徳目を完成させることで悟りにも近づいていくのじゃ。

 その六つとは、


 布施

 持戒

 精進

 忍辱

 禅定

 智慧

 なのじゃ。

 第一の布施は欲を離れ、生活環境を守るためのものじゃ。
 慈悲や尊敬の想いによって布施をしていれば、自然に囚われがなくなり、福楽も付き従うようになるじゃろう。
 初めのうちは布施をしても、生活は変わらないとかでやる気もなくなるかもしれん。
 
 しかし続けていけば確実に福楽は身についていくじゃろう。
 増えた福によって布施を増していけば、さらに福も増してことができるのじゃ。
 そのようにして好循環ができるようになれば、もはや布施も完成に近いのじゃ。


 戒を守ることは悪を滅し、善事を増すために重要な徳目なのじゃ。
 環境もよくなり、心も静まるじゃろう。
 不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒でも守れば、大いに利益もあるのじゃ。

 精進は日々実践を続けることなのじゃ。
 毎日、弛まずに実践することが、すべての道において速やかに進歩する秘訣なのじゃ。
 これこそがどの道においても最も近道なのじゃ。
 
 忍辱は汚辱をも忍ぶことなのじゃ。
 辱めを受けても耐え忍ぶことなのじゃ。
 この娑婆世界では正しいことが必ずしも認められるとは限らないのじゃ。

 娑婆世界は不完全な一切皆苦の世界であるから、正しいことをしていても汚辱に塗れることもあるのじゃ。
 そのような時にも耐え忍び、ひたすら修行に励むのが忍辱なのじゃ。


 禅定は瞑想の実践なのじゃ。
 集中によって心の制御方法を修めるのじゃ。
 これも日々続ければサマーディにまで至り、悟りもやってくるのじゃ。


 最後は智慧の完成と呼ばれるものじゃ。
 この智慧とは、空の法による智慧なのじゃ。
 全ての徳目の完成は、この智慧の完成によって成し遂げられるというのじゃ。

 一切の観念が空であると念じることにより、煩悩を滅し、欲を離れ、自己の観念をも打破できるのじゃ。
 無我になった後にも、観念を生む認識をも滅して、大悟徹底の境地にまで至ることができるのじゃ。
 そうであるからこの智慧の完成こそ、他の全ての徳目を完成させるものなのじゃ。
 今この世の菩薩も、この六波羅蜜を実践して悟りを得るのじゃ。
 


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未分類 | 21:24:30 | Trackback(0) | Comments(2)
争いに加担してはいかんのじゃ。
  今世界では複数の戦争が起きてしまっているのじゃ。
 そのせいで今この地域も危ないとか、何とかしなければいけないとか、思ってしまっている者もいるかもしれん。
 騒がしい周囲の雰囲気に巻き込まれて、自分も浮き足立ってしまうのじゃ。
 
 そのような集団の雰囲気で自分にも何かできるだろうとか、何かしなくてはならんと思い込んでしまうのじゃ。
 戦争の不安があるから心も騒いでしまうのじゃ。

 しかしそのような雰囲気に巻き込まれてはいかんのじゃ。
 疫病の後に経済や民衆の支持を得るために、為政者が戦争をすることは歴史上何度も起こったことじゃ。
 今がこれまでの歴史にもない転換点かと思うと、興奮して進退を誤り、身をも危うい事態になりかねないのじゃ。

 人々が争うのは今に始まったことではないのじゃ。
 思想の違いとか、宗教の違いで争うというのも間違いなのじゃ。
 同じ思想、同じ宗教の者同士でも争っているのであるからのう。
 
 争っている間は人は孤独や恐れを忘れられる。
 そうであるから争っているだけなのじゃ。
 酒や薬に溺れているのと一緒なのじゃ。

 そのような争いに、どのような理由があっても加担してはいかんのじゃ。
 正義であるとか、正当な報復であるとか、果ては争いをやめさせるための争いだとか、どのような理由でも関わるべきではないのじゃ。
 
 争いについて意見を聞かれれば、反対というのは善いのじゃ。
 又、傷ついた人や困窮した者を助けるのは善いのじゃ。
 それらは慈悲の言動であるからなのじゃ。

 それ以外の理由ではどのような争いにも加担してはいかんのじゃ。
 何故ならばどちらかの集団に加担して、その活動を手伝ったりすれば集団意識に巻き込まれるからなのじゃ。
 周囲のみんながやっているとその価値観を受け入れてしまい、自分もしなければいけないように思うのじゃ。
 特にそのような集団では過激な意見が通りやすくなるから、巻き込まれるのは危険なのじゃ。

 それが集団意識なのじゃ。
 例えばただボランティアで掃除をするだけと説明されて一つの集団に加われば、他にもいろいろ頼まれて気がつけば銃を持って戦場にいる羽目になるかもしれんのじゃ。
 それは極端な例であるが、集団意識に巻き込まれると、いつでもそのような危険があることを忘れてはいかんのじゃ。

 これから争いはこの地域にも降りかかってくるかもしれん。
 社会を守るために共に戦おうとか誘われるかもしれん。
 
 争いの集団に加担しなかったために、卑怯者とか、惰弱な者とか言われるかもしれん。
 時には経済的にも不利になるかもしれん。
 それでも争いに加わらず、善事を積み、ただひたすらに自分を見る実践に励むのじゃ。

 正義のためにでも戦う者は滅びるじゃろう。
 勇敢な者もついには居なくなってしまうじゃろう。
 戦いに勝ったとしても残されるのはただ屍だけじゃろう。

 慈悲を実践してきた者が栄えるのじゃ。
 自らの心身を観る実践に励んだ者が永遠の境地を得るのじゃ。
 それは争いによっては永遠に手に入らないものなのじゃ。
 それこそが人が得られる最大の利益なのじゃ。

 争いを避けて今この身で得られる最大の利益を求めるのが、賢いものが行くべき道なのじゃ。
 賢者は常に正しい道を歩むのじゃ。


未分類 | 22:44:37 | Trackback(0) | Comments(4)
仏陀と菩薩。

 例えば医者がいない地方に一人の医者が、派遣されてきたとしよう。
 その医者は患者一人一人に対して適した治療を行い、診断書を書いていたのじゃ。
 しかしその医者は死んでしまったのじゃ。
 
 医者が死んでしまった後、残された村人達は暫くは残された処方を使っていたが、次第に忘れ去られてしまったのじゃ。
 そしてその処方が書かれた診断書が、何か神秘的な効力があるのではないかと、死人に向かって唱えたりしていたのじゃ。
 何の効力もないのに、迷信としてそのような儀式をしていたのじゃ。
 
 そのような村に長い年月が経って、やっと一人の医者が派遣されてきたのじゃ。
 新しい医者は村人が持っている診断書を見て、前の医者がどんな治療をしていたのか、即座にわかったのじゃ。
 診断書は長い年月のうちに破れたりして、文章も半分しかわからない位であったが、同じ医者であるから半分からでも理解できたのじゃ。
 そして迷信をやめさせ、正しい治療を復興する事によって村人を治したのじゃ。
 
 仏陀もまた同じように人々の苦を治す医者のようなものじゃ。
 お釈迦様は福楽を招き、苦を滅して悟りに導く法を説いて人々を導いたのじゃ。
 それは医者が人を癒すのと同じなのじゃ。
 しかしお釈迦様も涅槃に入って長い年月が経って、次第にその法も忘れ去られてしまったのじゃ。

 それが今ここで正しく復興されたのじゃ。
 ここで正しく説かれた法を実践するならば、誰もが正しく利益を受けることができるのじゃ。
 福楽を望む者は善事を実践すれば福楽がやってくるじゃろう。
 苦の滅を望む者は観察による四諦を実践すれば、苦は滅するじゃろう。
 全てを捨てて悟りを目指す者は、自らの心を因縁によって観察することで悟りもやってくるじゃろう。
 
 そのように仏陀によって正しく説かれた法は、同じ悟りを得た仏陀によって復興されたのじゃ。
 それはかつての医者の診断書を、後に来た医者が正しく解読できたのと同じようなものじゃ。
 もはや死人に診断書を唱えるような迷信は、不要なのじゃ。

 仏陀の法は生きている者が福楽を招き、苦を滅して悟りを得るためのものであるからなのじゃ。
 死人に読み聞かせても何も意味はないのじゃ。
 実際に今ここで多くの者が善事や苦滅の法を実践して、その利益を得ているのじゃ。
 全ての法は復興され、再び新しい仏陀によって説かれたのじゃ。
 この機会を逃さず実践に励むのじゃ。

 しかし仏陀であっても、ただ一人で法を広めることは出来ないのじゃ。
 多くの菩薩の献身によってそれも可能となるのじゃ。
 仏陀の教えを実践する者全てが菩薩なのじゃ。
 出来る限り多くの者に安楽を得させるために、菩薩達は日々実践に励んでいるのじゃ。
 
 そのような菩薩達は仏陀の弟子ではないのじゃ。
 家族や兄弟でもないのじゃ。
 仏陀の一部なのじゃ。
 同じ体と心を繋ぐ同体無異の者達なのじゃ。
 
 菩薩の口が仏陀の口として、人々に正しい法を説くのじゃ。
 菩薩の手が仏陀の手として、善事を行うのじゃ。
 菩薩の足が仏陀の法をどこまでも広めていくのじゃ。

 後の人々は仏陀の法は理解できなくとも、実践して利益を得た菩薩の話は理解できるじゃろう。
 そして菩薩の名を唱え、加護を求めるじゃろう。
 さまざまな苦を滅した菩薩の話しを、唯一の心の拠り所として、実践するじゃろう。
 今苦の中にあって実践する菩薩が居るから、後の世にも仏陀の法を信じる者も出てくるのじゃ。

 苦しみを味わい、法を実践して滅することが出来た者が他人にも苦を滅する法を教えることができるのじゃ。
 苦しむ者に、「私も苦しんだ、実践して苦を滅することが出来た」と、言えるのじゃ。
 もはや苦がない仏陀にはそれは出来ないことなのじゃ。

 そうであるから菩薩達は仏陀の法を真に実践する者であり、仏陀の一部であり、仏陀の法を体現する者なのじゃ。
 今ここで苦の中で実践するのは、自分だけのためではなく、未来の菩薩達のためであり、仏陀のためであるとも言えるのじゃ。
 そのような菩薩の心が仏国土そのものなのじゃ。
 仏国土の中心にのみ仏陀は存在することが出来るのじゃ。

 仏陀の法を実践する全ての菩薩に福楽と真の悟りが訪れるじゃろう。
 それまで精進あるのみなのじゃ。


元気が出る説法 | 21:38:44 | Trackback(0) | Comments(12)
罪悪感を滅するのじゃ。
 自分を愛し、敬おうとしてもどうしても出来ない者も多くいるじゃろう。
 実践しようとしてもどうしても自分を虐待して、心の中で罵ったりしてしまうのじゃ。
 それが正しい事だとさえ感じるのじゃ。

 その原因の多くは罪悪感であるのじゃ。
 子供のころに虐待を受けたりして、自分が罪深い者であるから虐待を受けるとか、思ったりするのじゃ。
 あるいは兄弟姉妹の多い家庭で、親の関心が他の子に移ってしまうと、自分が悪い子だからとか思うのじゃ。
 
 そしてそんな自分を虐待したり罵ったりしてしまうのじゃ。
 それが親からの態度で学習したことであるから、正しいことだと感じてしまうのじゃ。
 自分の意志でやめようとしても、やめられないのじゃ。
 
 自分を虐待するとは、わざとさまざまなものごとを失敗するように仕向けたり、危険な行動をしたり、拒食症になったりすることなのじゃ。
 なにかよいことが起きても、それを自分から壊したりするのじゃ。
 金を手に入れたら散財してしまい、名を上げたら恥ずかしい真似をして自分を貶めたりするのじゃ。

 そのようにして自分が常に困窮するように仕向けるのじゃ。
 それが正しいと感じるから、止められないのじゃ。
 そしてついには自分を破滅に追い込んだりするのじゃ。

 そのような作用をする罪悪感を滅するには、先ずはそれが正しくないものであると確信しなくてはいかんのじゃ。
 親から与えられた条件付けで、それが正しいと思っていれば、いつまでもなくなることはないのじゃ。

 そのように説かれてもまだ自分が罪悪感を持つのは正しいと感じる者もいるじゃろう。
 自分は本当に罪を持つものであり、常に罪悪感を持っていなければいけないと思うのじゃ。
 しかし本当に罪があるならば、ただ懺悔告白して、二度としないと誓えばよいのじゃ。
 それ以上に思い悩む必要はないのじゃ。

 無理に思い悩むのはただ親から与えられた観念であり、それが自分であり、自分の一部と感じるからなのじゃ。
 それは倫理的に正しいからではなく、ただ何も知らない幼少期に植えつけられた観念であるから、失うことに抵抗があるだけなのじゃ。
 それが自他に害があり、破滅をもたらすものであれば、取り除くのは当然なのじゃ。

 このように罪悪感とは過去の間違った条件付けによって生じた、有害な観念であると、はっきり理解するのじゃ。
 それも煩悩の一つであり、滅すべきものとして認識するのじゃ。
 そして決別する決意を固めるのじゃ。

 決意が確かなものになったならば、自分の心を観察して原因を追究するのじゃ。
 初めて罪悪感を感じたのはいつであるのか、それが強く感じられたのはいつごろのことなのか、追求してみるとのじゃ。
 それが原因を探すことになるのじゃ。
 
 原因が分かったならば、その原因から罪悪感が起こり、諸々の自己虐待や自己への暴言などが起こったと観察するのじゃ。
 原因がなければ罪悪感はなく、諸々の自己虐待や自己への暴言などが起こらないと観察するのじゃ。
 そうすれば罪悪感も消えていくのじゃ。

 諸々の自己虐待や自己への暴言などを止められない者は、このように実践して自らの心を罪悪感から解放するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。



自己敬愛の法 | 20:52:37 | Trackback(0) | Comments(4)
不安を滅するのじゃ。
 不安は人が心に持つ苦の一つと言えるのじゃ。
 不安によって人は日々苦しんだりしているのじゃ。
 人によっては不安が強くなりすぎて、死んだり、心の病になったりすることさえあるのじゃ。
 
 そのような不安もよく観察することで、滅することができるのじゃ。
 不安がなくなれば、少しは生き易くなる者もいるじゃろう。
 生きていく苦を少しでも減らすために不安を正しく観察して、滅するべきなのじゃ。

 わしが観た所、不安とは今の苦や、過去の苦を未来に当てはめる不完全な予測なのじゃ。
 たとえば今、病で苦しいとすれば、これから先もずっとこの病で苦しいのではないかと、悩み苦しむのじゃ。
 あるいは過去に車に轢かれたりして痛い目にあったとすると、また車に轢かれたりするのではないかと、悩んで外に出るのが怖くなったりするのじゃ。

 そのように過去や今の苦を未来に予測して、苦にする心の働きが不安なのじゃ。
 それは苦だけを予測するから不完全な予測なのじゃ。
 今の病や過去の苦も、いつまでも、何度もあるというものではないのじゃ。
 それなのに苦だけを予測してしまうのであるから、不完全なものなのじゃ。

 そのような心の働きは、本来は未来の苦を避けるためのものなのじゃ。
 しかし認識が記憶に依存しているから、自分ではそれを止められず、苦になるのじゃ。
 苦を避けるための心の働きが、記憶により新たな苦を作り出す働きになってしまっているのじゃ。

 心に不安が湧いてきたら、それを正しく観察してみるのじゃ。
 今自分は苦を未来に予測していると、心の働きをありのままに見るのじゃ。
 そうすれば不安は滅するじゃろう。
 ただそれだけで不安は消えていくのじゃ。

 さらにその予測を良いものに変えてみるのじゃ。
 病があれば健康になった未来を予測し、過去の苦ならばそれがない未来を予測してみるのじゃ。
 その時、心に不安はないじゃろう。
 そのように実践して不安の原因が心にない時には、不安がないことを観察するのじゃ。

 そのように何度も観察すれば、不安は何度も滅するのじゃ。
 そうすれば不安とは何の力もない、観念遊戯であるとわかるのじゃ。
 想念によって遊んでいただけと、理解できるのじゃ。

 不安が心に湧いてくる度に、そのように正しく観察して滅していくのじゃ。
 そうすれば不安はいつでも滅することができるとわかるのじゃ。
 
 ただの観念遊戯によって、心を苦しめないようにするのじゃ。
 不安をすべて滅して、不安のない生活をするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 


苦滅の道実修 | 22:41:09 | Trackback(0) | Comments(6)
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