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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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悟りの生物学的な解釈。
  悟りとは一体何であるのかと、疑問に思う者は少なくないじゃろう。
 よくわからないが昔から伝統的に尊いものであると言われてきて、信仰している者もいるじゃろう。
 今の西洋的な教育を受けた者には、それだけでは承服できないという者達も居るじゃろう。
 そのような者には生物学的な解釈も必要なのじゃ。

 その解釈が絶対的な真実でもないのじゃ。
 言葉によって伝えられる観念は全て真実ではないからなのじゃ。
 それでも疑問を持ったままでいるより実践する上で役に立つ故に、それも説かれるのじゃ。

 そもそも生物とは個別の物質的な実体をもたず、環境や同質のものと繋がって存在するものじゃ。
 例えば樹は地面に根を下ろして一つとなっているのじゃ。
 水や養分を吸収して空気中に放出したり、葉を増やしたりしているのじゃ。
 枝を切り取って、地面に刺せばそれがまた一本の樹になって増えたりするのじゃ。

 そこには個体とか、個我はないのじゃ。
 同質の環境に繋がっているものが増えていくだけなのじゃ。
 動物でもくらげなどは多くのものが繋がって成長して、大きくなると一つ一つ切り離されて海を漂うのじゃ。

 人間もまた同じように環境や同質のものたちと一体であり、固体とか個我はないのが事実なのじゃ。
 しかし、人間は進化していくことで他の動物にはない能力が発達したのじゃ。
 それは記憶能力なのじゃ。
 
 記憶能力は文字を作り出して知識を伝達したり、遺したりして生活に役立つ技術の発展に役立ったのじゃ。
 しかし、その反面、記憶に依存してしまう認識をも作り出したのじゃ。

 認識能力が記憶に依存してしまうと、人は記憶を通してしか世界を認識出来なくなってしまったのじゃ。
 全ては知識と記憶による観念として、認識されるようになったのじゃ。
 そして知識と記憶から、この肉体とか精神が個体であり、個我で在ると認識するようになってしまったのじゃ。

 個体とか個我の観念から、孤独とか不安とか恐れが起こるようになったのじゃ。
 さらに孤独から他人への執着が起こり、恐れから怒りが起こり、不安から欲が起こるようになったのじゃ。
 そして他人への執着から愛別離苦が起こり、怒りから闘争の苦が起こり、欲から欲求不得苦も起こるようになったのじゃ。

 このように記憶能力の発達は認識からの依存を起こし、個我の謬見を起こし、さまざまな苦を引き起こすことになったのじゃ。
 それは生物学的には一種の退化であり、事実を誤認することになったのじゃ。
 事実を誤認する故に、苦痛に苛まれながらも戦わずにはいられないのが人間なのじゃ。
 それは進化の袋小路に入ったと言えるのじゃ。
 そのままでは牙を大きくし過ぎた虎とか、でかくなりすぎたアンモナイトのように肥大し過ぎた能力によって、却って現実的には役立たずになり、種として消えて行く定めなのじゃ。

 それを正しい進化の道筋に戻すのが悟りで在ると、生物学的には言えるのじゃ。
 肥大し過ぎた記憶能力も、正しい手段によって依存から解放することができるのじゃ。
 そのための方法が心を観察する方法なのじゃ。
 例えば学者が虫眼鏡で砂から植物の種を正しく見分けて取りのぞくように、心も観察して謬見を取り除けば正しく機能するようになるのじゃ。

 そのためには心をコントロールする方法も必要なのじゃ。
 それが集中の法なのじゃ。
 集中と観察の二つの方法によって、真実を見分けられるようになるのじゃ。

 このように生物学的に解釈してみたが、それが絶対に正しいということもないのじゃ。
 前述したようにこれもまた実践のための解釈なのじゃ。
 それで納得がいったら実践あるのみなのじゃ。


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わしの考え | 21:25:03 | Trackback(0) | Comments(2)
習慣を観るのじゃ。
  人間は習慣の生き物と、昔デューイという学者が言っていたのじゃ。
 正にその通りなのじゃ。
 人の日々の言動の殆どは習慣で行っているものじゃ。
 特に考えるでもなく、習慣で話したり、行動したりしているのじゃ。

 人の日々の生活の殆どは、習慣によって決められているのじゃ。
 いつも着ている服を着て、いつもの食事をして同じ道を通って学校や職場を往復しているじゃろう。
 雑多な生活の選択一つ一つを、考えて実行する者は殆どいないじゃろう。
 それを観察すれば確かに人は習慣の生き物であると、理解できるじゃろう。
 
 お釈迦様は人は行いによって、分別されると説いたのじゃ。
 悪いことをするのが悪人であり、善い事をするのが善人と言えるのじゃ。
 それもまた習慣によることが多いのじゃ。
 悪人は常日頃から悪いことをしているから、機会があれば悪事をしようとするのじゃ。

 善人は日々善事を実践しているから、機会があれば善事をするのじゃ。
 そして悪人は報いが来れば悪い所に行き、善人は善い所に行くことになるのじゃ。
 行いの報いも、習慣によって増減するものと言えるのじゃ。

 このように習慣が人の本性や性質をも司るものであるからには、自分を知るには自分の習慣を観察することも、修行の助けになるものじゃ。
 自分はどのような習慣を持っているのかとか。
 その習慣は自分にとって善いものなのか、悪いものなのかとか、観察して明らかにしていくのじゃ。
  
 よい習慣ならば意志によって続けることができるじゃろう。
 悪い習慣ならば、滅することもできるのじゃ。
 観察には習慣を止める力があるからなのじゃ。

 観察によって習慣に気づいたならば、それは即座に停止されるのじゃ。
 その後に続けることも自在になるのじゃ。

 以前にある年老いた者が、タバコをすう習慣がやめられなかったことがあったのじゃ。
 いろいろ試してみたが、どうしてもやめられなかったのじゃ。
 最後にその原因を心の中に観察してみると、実は高校生のころにかっこいいと思って始めたのが原因だったのじゃ。
 それが習慣となって老いるまで続いてしまったのじゃ。
 それに気づいてすぐにやめられたのじゃ。
 もはやかっこつけたい年ではないからのう。

 このように長年の習慣は、心の中の些細な原因で続いていることも多いのじゃ。
 そして原因から観察できれば、すぐにでも止められるようになるのじゃ。
 それが観察による気づきの効果なのじゃ。

 実は仏教でいう無明もまた、習慣によって心の中に強く結び付けられているのじゃ。
 無明とは自分があるという観念なのじゃ。
 その観念を長年使っていると、習慣によって心の中から排除するのが、難しくなるのじゃ。
 つまり毎日毎日、自分がどうしたとか、こうしたとかの観念を使用していれば、自分という観念が心に染みついしまうのじゃ。
 それを疑うこともできなくなってしまうのじゃ。

 それに対抗するには、修行の実践を習慣にするとよいのじゃ。
 習慣の力は修行にも役立てることができるのじゃ。
 日々集中と観察を続けるならば、それらの力は非常に大きなものとなるのじゃ。

 日々の実践によって習慣化された無意識の観察によって、自我を観ることも可能となるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。


悟りの真実 | 22:04:11 | Trackback(0) | Comments(2)
自分を無条件に愛するのじゃ。
  この娑婆世界は一切皆苦であるとお釈迦様は説いたが、その中でもとりわけ苦になるのが自分を愛せず、痛めつける苦であると言えるじゃろう。
 自分で自分を傷つけ、否定する者は珍しくないのじゃ。
 それに自分では気づかない者さえいるのじゃ。
 
 愚かな者は自分に対して仇敵のようにふるまうと、お釈迦様も説いたのじゃ。
 自分で自分を傷つける者が多いことは、二千五百年前のインドでも変わらず多く居たのじゃ。
 悪事を行ったり、酒とか薬とか賭博で自分を破壊しているのじゃ。

 そのように自分を傷つけるように振舞うのも、親などから条件付けされたからなのじゃ。
 子供は親によって自分への待遇を決めるものじゃ。
 親から虐待されたり、条件付の愛を与えられたりすると、それを真似て自分を扱ってしまうのじゃ。

 勉強しない子はうちの子ではないとか、言われていると勉強しない自分を愛してはいかんとか、条件付けしてしまうのじゃ。
 そして勉強しなかった自分に、罰を与えようとしてしまうのじゃ。
 自分でも意識できない心の働きで、そのように行動してしまうのじゃ。
 
 あるいはお前は頭が悪いとかいわれていると、自分は頭が悪いと条件付けして能力が発揮できなくなってしまうじゃ。
 自分の能力に自分で制限をかけてしまうのじゃ。

 しかし、人は自分の意志もあるものじゃ。
 自分の意志によって、自分への待遇を変えることもできるのじゃ。
 自分の意志で条件付きの愛を、無条件の愛に変えることもできるじゃろう。
 自分の能力をどこまでも信じることもできるじゃろう。

 そして自分の心を観察して、そのように自分を罰する原因を観察できれば、それは滅することもできるのじゃ。
 それができれば条件付けも効果をなくすのじゃ。

 さらに自分は頭がいいとか、自分は天才だとか口に出して言えば能力も上昇していくのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

 そもそも親が条件付きの愛しか与えてくれなかったという理由で、自分も自分自身に条件付きの愛しか与えないでいる必要はないのじゃ。
 無条件に自分を愛してよいのじゃ。
 そようであれば、他人をも愛することができるのじゃ。

 人は自分への待遇によって、他人への待遇も変えるのであるからのう。
 自分を愛し、大事にできない者は、他人も愛し、大事にすることはできないのじゃ。
 自分の意志で自分を愛し、他人をも愛するがよいのじゃ。
 
 そのようにして自他の利益を求めるのじゃ。


自己敬愛の法 | 22:40:17 | Trackback(0) | Comments(14)
わかりやすい苦を滅する法。
  以前からわしは苦を滅する法を説いてきたが、まだよくわかってない者も多いようじゃ。
 わしの説明もわかりにくかったようじゃ。
 そうであるからこれから苦を滅する法を、わかりやすく簡単に説明していくのじゃ。

 まず簡単に言えば、苦は心を観察することでなくなるということが最も大事なことなのじゃ。
 人の苦は心から起こるものであるからなのじゃ。
 心から苦がなくなれば、苦はないのじゃ。

 肉体の苦痛でさえ、心によって苦になるじゃ。
 痛みや障害さえも、心が苦としなければ苦ではないのじゃ。
 それらが心によって苦の原因となると苦が起こるのじゃ。

 このように苦は心によって引き起こされる故に、心によって滅することも可能なのじゃ。
 そのための方法が観察なのじゃ。
 観察が完全にできたら苦は滅するのじゃ。

 観察というのも難しいものではないじゃ。
 観察とは今ここにあるものごとをありのままに観ることなのじゃ。
 たとえば道端に咲いた花を見て、花びらが五枚あると見たら、それが観察なのじゃ。

 しかし、その観察もしばしば記憶を見てしまうことがあるのじゃ。
 道端に咲いている花が、昨日は花弁が五枚であったから、今日も五枚あるじゃう、などと思ったらもはや観察ではないのじゃ。
 観察とは今ここにあるもののごとを観ることであるからのう。
 記憶に依存した認識を持っている人間は、このように観察をしているつもりで、記憶を観てしまうことがあるから注意が必要なのじゃ。

 そのように観察するにしても、集中力がないと難しいのじゃ。
 観察しててもすぐに別のことを考えたりしてしまうからなのじゃ。
 そのようなことがないように、集中力を養うのが数息観などの集中の法なのじゃ。

 集中と観察の方法を二つあわせて止観と呼ぶのじゃ。
 心の雑念を生み出す働きを止めて、観察するのじゃ。

 ではどのように観察するのか、といえば原因から苦が起こることを観察するじゃ。
 例えば愛するものと別れる愛別離苦ならば、執着が原因で苦があると観るじゃ。
 心の中に執着から起こる苦の縁起をありのままに観察するのじゃ。

 そうすれば苦は滅していくのじゃ。
 苦との自己同一化がなくなるからなのじゃ。
 簡単に説明すれば、このようになるじゃ。
 
 一つ一つの法を詳しく知りたい者は、このブログの苦を滅する法の記事をよくよんでみるとよいのじゃ。
 今苦に悩まされている者は、実践して楽になるとよいのじゃ。  


苦滅の道実修 | 21:48:08 | Trackback(0) | Comments(10)
自分の敬愛を受け入れるのじゃ。
  今まで自己敬愛を誓言してきたが、どうしても自分への愛や敬意を受け入れ難いという者もいるじゃろう。
 そのような者は、自らの意志によって愛や敬意等を受け容れることを宣言すると善いのじゃ。
 そのような抵抗もまた、親や周囲の者達による条件付けに過ぎないのであるからのう。
 自らの意志で自分の心を変化させるがよいのじゃ。
 
 自分は自分の許しを受け容れると、誓言するのじゃ。

 自分は自分の承認を受け容れると、誓言するのじゃ。

 自分は自分の愛を受け容れると、誓言するのじゃ。

 自分は自分の敬意を受け容れると、誓言するのじゃ。

 このように言葉に出して誓えば、自ら受け容れられれるようになるのじゃ。
 これを実践して始めて、実は自分の敬愛等を受け容れていなかったことに気づく者もいるじゃろう。
 激しく動揺することもあるかもしれん。

 今までの自分の心の習性が、修正されるからなのじゃ。
 自分でも知らなかった心の働きを知ることになるのじゃ。
 それによって自分自身を信頼し、自分をコントロールできるようになるのじゃ。

 そもそも自らの心が本当にコントロールできる人間は、この世には少ないものじゃ。
 コントロールできているつもりで、実際にはできていなかったりするのじゃ。
 日常でもダイエットしようとか思っても、やはり一時間ぐらいで腹いっぱい食べてしまったりすることでわかるじゃろう。

 そのような心をコントロールできない原因は、承認欲求とか、愛情の不足から来ている事も多いのじゃ。
 自らの不満からストレスが溜り、感情を抑えきれないのじゃ。
 そして不安からの逃避としても、感情的な行動に走るのじゃ。

 自らの敬愛等を受け容れ、心が一時的にも満たされれば、コントロールも可能になるのじゃ。
 更に自らの敬愛等を受け容れることで、自分を信頼することができるのじゃ。
 自分の意志が統一されて、自分で決めたことも守れるようになるのじゃ。
 自分を信頼しすることが自信になるのじゃ。

 そのようであってこそ修業も日々続けることが出来るのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。


自己敬愛の法 | 21:33:13 | Trackback(0) | Comments(2)
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