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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自我の苦
 お釈迦様は自ら衆生の病を治す医者であると言ったのじゃ。
 衆生は病にかかっているから、それを治すというのじゃ。

 それがどのような病かといえば 衆生は自我という観念による病にかかっておるのじゃ。
 自我があれば、そのイメージによって苦も受けるのじゃ。

 自分が他人より劣っているというイメージを持った者はそれによって劣等感に苦しむのじゃ。
 自分が他人より優れていると思う者は、それを証明するために必死に働かなくてはいかんようになるのじゃ。
 逆に優秀な自分を守るためにと、引きこもりになったりもするのじゃ。

 自分があれば自分の好きなものが認識され、それに執着して苦になるのじゃ。
 自分があれば自分の嫌いなものも認識され、それを避けるために行動も制限されるのじゃ。

 このように自我はあらゆる人間に苦をもたらし、行いも制限しているのじゃ。
 自我によって認識する全ては苦になり、一時の快楽さえもやがては苦に変わるのじゃ。
 
 それも観念によって起こる病なのじゃ。
 観念による主体を自己と呼び、観念による客体を他己と呼ぶのじゃ。
 自己以外の全てが他のものであるならば、小さな自己と自己以外の全ての世界が対立するという観念を生むのじゃ。

 その観念が強い孤独感や孤立感、寂しさを起こすことになるのじゃ。
 それらからまた逃避、執着、攻撃欲等の苦に繋がる観念が起こるのじゃ。
 
 自我の観念は多くの苦の源であり、苦の上に苦を積み重ねるものなのじゃ。
 お釈迦様はそれを無明と呼び、観察することによって滅することが出来ると説いたのじゃ。
 苦を生じ、迷いを起こす無明も一度完全に観察されれば、煙の如く消え去るのじゃ。
 賢明な修行者は無明のもたらす大きな苦を知り尽くし、恐れを超えて進むのじゃ。


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悟りの真実 | 14:47:35 | Trackback(0) | Comments(0)
ブラフマンの法
  ブラフマンの法とは元はヴェーダに記載されていた法なのじゃ。
 肉体をどこまでも広がっていくイメージをすることで、意識を拡大していくのじゃ。
 そのようにイメージすると実際に拡大された空間に自らの意識を感じることができるのじゃ。

 集中の行を実践していると意識が際限なく広がる識無辺処定に入るが、その境地を直接に目指すのがこの法なのじゃ。
 密教に伝えられている法と同じなのじゃ。
 ヴェーダによって伝えられているのは、体が広がるイメージなのじゃ。

 集中して座っている自分の体がどんどん大きくなっていくとイメージするのじゃ。
 体が部屋一杯に広がり、更に広がっていくのじゃ。
 部屋からもはみ出していって、どんどん大きくなっていくのじゃ。
 山川海空の全てに体が広がり、全ての空間を満たすようにイメージするのじゃ。

このようにイメージして行くと、ただのイメージではなく、空間に意識が感じられるようになるのじゃ。

 
 お釈迦様は三明経等で感情を使うブラフマンの法を説いているのじゃ。
 ブラフマンと同じ境地になる法としているのじゃ。

 心の中で慈悲を感じる対象を想い起こし、慈悲の感情を起こすのじゃ。
 その感情が体中に広がっていくとイメージするのじゃ。
 更に体から外にまで慈悲が広がっていくとイメージするのじゃ。
 今座っている部屋一杯にまで広がっていくのじゃ。
 そして部屋からも広がって、慈悲がどこまでも大きくなるようにするのじゃ。
 慈悲がどこまでも広がり、大地も空も埋め尽くすほどに大きくなっていくとイメージするのじゃ。
 地球とか宇宙とかの知識として知っている全ての空間を埋め尽くすのじゃ。

 集中が途切れてきたら、その感情が少しずつ小さくなり、自分の体に収まるとイメージして行を終えるのじゃ。

 そのようにイメージしていくのがお釈迦様の教えられたブラフマンの法なのじゃ。
 これも同じように日々続けているとただのイメージではなく、空間に実感が在ることが感じられるのじゃ。

 元々意識は全てに繋がり、空間にも在るものであるが個我の観念があればそれは感じられないのじゃ。
 肉体の感覚だけが自分の感覚と認識するからなのじゃ。
 そして自分の肉体と感覚以外に自分は無いと認識するのじゃ。

 このブラフマンの法を行えば、観念を超越した空間の意識が感じられるのじゃ。
 それを感得することで、肉体や感覚だけが自分であるという観念が薄れ、無辺の境地に至ることが出きるのじゃ。
 未だ悟りに至らなくとも、無辺の意識に到達しただけでも死という肉体の消滅によって全てが消滅するという観念は無くなるじゃろう。
 そして死の恐れも超えることが出来るのじゃ。

 死を恐れる者、更なる集中の境地を求める者、真実の意識を確かめたい者はこの法を日々修業するとよいのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 22:41:39 | Trackback(0) | Comments(2)
驕りに気をつけるのじゃ。

 驕りとは自らの知識や能力を過信して現実が見えなくなることなのじゃ。
 長年学んだり修行したりしていると、それによって驕りが出てきたりするものじゃ。
 驕りにかかると進歩も止まってしまうのじゃ。

 驕りは自己イメージを肥大させて修行すらもやめてしまう原因になるのじゃ。
 自分はもう十分に知っているとか、悟ったとか思ってしまうのじゃ。
 それで修行をやめてしまえばもはや進歩することもなくなるのじゃ。

 そのような驕りも原因があるから起こるものじゃ。
 驕りの原因は大抵、劣等感なのじゃ。
 自らを劣っているという観念があるから、逆に肥大した自己イメージを設けるのじゃ。

 そのような者が謙虚に自分の本心を見て驕りに気付くのは困難なことじゃ。
 自らが劣っているという観念から逃避している故に、原因を見出せないのじゃ。
 劣等感を認めることが非常に辛いからのう。
 
 実際にはその劣等感さえも植え付けられたものであったり、ただ虚偽の観念に過ぎないのじゃ。
 虚偽の観念からの逃避から、驕りが起こり、修行も止めてしまうのは愚かなことじゃ。
 修行者は気をつけなければいかんのじゃ。

 自分はもう十分に知っているとか、修行などはもう必要ないとか思うならば、それは驕りでしかないのじゃ。
 お釈迦様でさえ、日々自ら乞食をして家々を回り、時には断られたりしていたのじゃ。
 毎日瞑想をして弟子達に模範を示していたのじゃ。

 悟っても悟らなくても日々学び修行を実践するのが真の道なのじゃ。
 未だ死を超えていないのに、実践を止めてしまうのはもはや苦から苦へと迷う虫や獣と変わりないのじゃ。
 真の道を行く修行者は驕りに気をつけて進むのじゃ。




悟りを得るための修行法 | 21:18:59 | Trackback(0) | Comments(2)
さらに観察について学ぶのじゃ。
  観察とは本来そんなに難しいものではないのじゃ。
 例えば道を歩いている時に、道端に花が咲いていると観ればそれも観察なのじゃ。
 花びらが五枚在るとか、葉っぱが二枚とか観ればそれもまた観察なのじゃ。
 
 そのように何でもありのままに観れはそれが観察であり、誰にでも出来ることなのじゃ。
 今ここに在るものごとをありのままに観ることであるから本来は簡単なのじゃ。

 しかし、人は記憶に依存している故に、観察も一度で終わり、記憶による認識が始まってしまうのじゃ。
 先ほど観た道端の花も、少し経つとさっきの花だとか思って同じものと分別し、認識してしまうのじゃ。
 実際には時が経って花が散ってしまったり、葉が落ちているかもしれんのじゃ。

 そのような変化を観ずに、記憶によってさっきの花と同じと認識してしまうのじゃ。
 それはもう観察ではないのじゃ。
 記憶による分別になってしまうのじゃ。

 このように観察は本来、簡単なことであるが、記憶に拠ってしまえば観察は観察ではなくなってしまうのじゃ。
 そのような記憶による分別には注意しなければならないのじゃ。

 心の働きを観察する時にも、そのような記憶による分別に注意しなければいかんのじゃ。
 昨日観察した心の働きが、今日も同じく在ると思うのも記憶による分別となるのじゃ。

 観察を日々続ければ心は変化していくものじゃ。
 昨日観察できた心の働きも、今日にはなくなっているかもしれんのじゃ。
 記憶によらずそのような心の働きの変化も、よく注意して観察しなければならんのじゃ。

 毎日、自分の本心を始めて観るかのように注意深く観察していくのじゃ。
 記憶による連想や雑念が生じたら、それに構わず流していくとよいのじゃ。
 数息観等の集中の行が出来ていればそれも可能なのじゃ。

 毎日観察を続けていると、やはり習慣化して過去と同じようになってしまうものじゃ。
 昨日と同じ心の働きが在るだろうと思って集中すると、その働きを自ら作り出してしまうこともあるじゃろう。
 それは観察ではなく観念遊戯なのじゃ。
 毎日観察しているつもりでも、長く何の発見も無いというならば、そのような観念遊戯に陥っていないか、自らの状態を観察してみるのじゃ。
   
 全力を集中して今ここにある心の働きを始めて観るかのように注意深く観察すれば、新たな発見も在るものじゃ。
 そのようにして自我の働きが観られたならば、無我にもなるのじゃ。
 そして記憶に依存していたことも気づき悟りも訪れるのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 21:45:06 | Trackback(0) | Comments(2)
自らの価値観と評価を観察するのじゃ。
 未だ悟りを得ていない者には条件付けされた価値観と自己評価が心の中にあるものじゃ。
 その価値観と自己評価によって行いも決められてしまうのじゃ。
 それが善いものならば善い行いに繋がるが、悪いものならば悪い行いに繋がってしまうのじゃ。

 それらは親とか友人等によって条件付けされるのじゃ。

 例えば犯罪を良いものとする価値観を条件付けされた者は、泥棒より強盗が勇気が在るとか間違った価値観を身に付けてしまうものじゃ。
 そして今の自分は泥棒しかしていないから強盗をして勇気があることを証明しようとしてしまったりするのじゃ。
 そのようにして悪事を続け、何度捕まってもやめられないのじゃ。

 心にそのような価値観と自己評価の働きが在る限り、自分でやめようとしてもやめられないのじゃ。
 何の得にもならず、明らかに損になるとわかっているのにやめられないのじゃ。
 知性や理性で理解していることも、心の中の条件付けによる行いをとめることは出来ないのじゃ。

 逆に親から駄目な者とか条件付けされた者は、自分を駄目な者と想い、駄目な行動をしてしまうのじゃ。
 それも自己評価から起こる行いなのじゃ。

 思春期になれば親から独立した自分の考えを持つようになるが、心の中の条件付けは変わらないのじゃ。
 それは心の中に残り、行いを選択する時に働いてしまうのじゃ。
 そのようにして親から与えられた価値観と自己評価に沿った行いを一生繰り返してしまう者もいるのじゃ。

 そのような価値観と自己評価わ乗り越えるためには、やはり観察するしかないのじゃ。
 自分の本心を観てそのような価値観と自己評価があり、今までそれに反応して行いをしていたと気づいた時、それは滅するのじゃ。

 悪しき行いに向かおうとする価値観と自己評価が在る限り、悟りに向かう修業も全うできないじゃろう。
 悪しき行いを求める心は、自己の心を整える行ないに反発するからのう。
 そうであるからそれも修行の妨げになる煩悩の一つといえるのじゃ。

 金や権力や名声をひたすら求めることが善いとする価値観や自己評価も同じなのじゃ。
 必要以上の欲は貪欲として三毒の一つとして教えられているの字や。
 今の知識や理性と照らし合わせて不要の価値観と自己評価は滅するべきものと言えるのじゃ。
 
 修行者が自分の本心をよく観察してそのような価値観と自己評価に気づけば、それも滅するのじゃ。
 そして今の自分の知性と理性に沿った行いも出来るようになるのじゃ。
 真の悟りを求める心の働きを最も尊ぶべきものとして進むことも出来るのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 


苦滅の道実修 | 21:50:40 | Trackback(0) | Comments(2)
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