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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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苦が増加する仕組み
 お釈迦様はこの世の一切は皆苦として、人が苦から離れられない事を説いたのじゃ。
 悟りを得ていない者は正にその通り、苦から苦へと苛まれて生きるしかないものじゃ。
 生きて苦しみ、死んでも又苦しむのじゃ。
 
 そのように苦しむのも悟りを得ていない者には、無明である自分が存在するという観念の原因があるからなのじゃ。
 他のものから完全に独立した主体的な自分があるという観念から苦は起こり、離れられないのじゃ。
 間違った観念を正さなければ苦しみは続くのじゃ。

 例えば頭のおかしい者が自分は飛べるという間違った観念を持って高い所から飛び降りれば、死んだり怪我をしたりするのじゃ。
 そのように現実とは離れた間違った観念を持っていては苦しみは尽きないのじゃ。
 
 悟っていない者が自分は主体がある、自分は思考や感情の主体であると思うことが苦を増す間違った観念なのじゃ。
 自我が思考や感情の主体であるならば、それらをコントロール出来る筈であるが、実際は出来ないのじゃ。
 自我は思考や感情の主体ではなく、それらに隷属しているものなのじゃ。

 自我は思考や感情が勝手に反応することを止められず、それらの奴隷となっているだけなのじゃ。
 思考や感情を満足させるために、無駄な行いに時間と心身を費やしているだけなのじゃ。
 自我が思考や感情の主体ではなく、思考や感情をコントロールできないことが苦を生み増加させる原因の一つなのじゃ。

 例えば異性に強く執着しながら離れてしまう愛別離苦があれば、何度もそれを考えてしまうじゃろう。
 思考をコントロールできないのであるから、苦しくても何度も考えてしまうのじゃ。
 そして考える度に悲しみの感情を起こしてしまい、苦しむのじゃ。
 それも感情をコントロールできない故に、考える度に悲しみの反応が自動的に起きて苦しむのじゃ。

 このように一つの苦があれば、それを何度も何度も繰り返して苦しむことになるのじゃ。
 それも自我が思考や感情の主体ではなく、それらをコントロールできないからなのじゃ。
 更にそれが新たな苦を引き起こすのじゃ。

 一度、苦を味わった心はそれを未来に起こるかもしれない事と認識するのじゃ。
 そして、それを避けようとするのじゃ。
 それが不安と呼ばれる心の働きなのじゃ。

 それは本来は苦を避けるための心の働きであるが、却って苦を増加させることになるのじゃ。
 不安は心を苛み、更に行動を制限するようにするのじゃ。
 この先そのような苦しみを味わう事がないようにと、消極的に行動してしまうのじゃ。
 それも思考や感情を制御出来ないことから来る苦の増加なのじゃ。
 
 そのように激しく増加する苦も、原因から観察されれば滅するのじゃ。
 未だ悟りを得なくとも、苦を完全に観察できれば消すことが出来るのじゃ。
 何度も苦が起こっても、その度に観察できれば消えていくのじゃ。

 やがて苦が完全に滅して心が鎮まる安心の境地に入れるのじゃ。
 苦から逃れたいと思う者は、実践によって確かめるのじゃ。
 


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悟りの真実 | 22:32:17 | Trackback(0) | Comments(0)
怒った時こそ許すのじゃ。
 自我のある者は自分を守るために、命が危ういと思った時や正当な権利を侵害されたと思った時、怒りが起こるものじゃ。
 それは自分を守るための心の働きであるから、意志によって起こさないようにしようとすることはできないのじゃ。
 実践を重ねて心が不動になった時から、怒らないことも出来るようになるじゃろう。
 
 それまでには怒りも起こり、それが正当であるとさえ感じられるものじゃ。
 正当な怒りであるから他人を責めたり、二度としないようにと痛めつけようとするじゃろう。
 正当であるからそれも正しいと感じるのじゃ。

 しかし、それは自らを獣以下の存在に陥らせることなのじゃ。
 獣は自分の命が危険になるような事態には怒り狂って戦うのじゃ。
 餌をとられたり、縄張りに入ってこられるという身の危険が感じられれば激しく戦うのじゃ。
 
 それは獣の習俗であるから怒りに任せた行動をしていると、獣と同じ所に生まれるようになるのじゃ。
 怒った時にこそ用心して、注意深く自らの心を観て、寛容を心がけるのじゃ。
 そうすれば自らも許されるのじゃ。

 自分も他人も心の奥深い所では同一と認識される故に、他人にしたことは全て自分に返るのじゃ。
 他人が許せなければ自分も許せないのじゃ。
 他人に辛く当たれば自分にも辛いことをするようになるのじゃ。

 他人を許せば自分も許せるようになるのじゃ。
 そうであるから先ず他人を許すようにするのじゃ。
 他人に優しくすれば、自分にも優しく出来るようになるのじゃ。
 他人を愛すれば、自分を愛して、他人にも愛されるのじゃ。

 そのように他人を許し、常に慈悲をかける者は常に福楽に見舞われ、人の世界以上にも行くことになるのじゃ。
 福楽を求める者は怒った時にこそ、寛容を心がけるのじゃ。
 ただ一時の感情によって獣に落ちるようなことがないようにするのじゃ。
 
 正当な権利を侵害されたと思った時に、自らに怒ってよい、これは怒ってよいてことであると、思う者も居るじゃろう。
 それは攻撃欲を誤魔化す為の隠蔽に過ぎないのじゃ。
 自分は攻撃的な者ではなく、正当な権利のために怒っていると欲を隠蔽しているのじゃ。
 それに気付かず他人を攻撃すれば自らの心に嘘をつき、攻撃欲をも満たす二重の悪を為すことにもなるじゃろう。

 そうであるから怒った時にこそ自らの心を観て、寛容を心がけるべきなのじゃ。
 未だ心を制御できない者が怒りを生じてもそれは仕方のない事じゃ。
 それでも心の中の怒りを観て、寛容を心がければ悪事を避ける事も出来るじゃろう。

 心に怒りを覚えない境地には至らなくとも、怒りを寛容に換えることは意志によって出来ることじゃ。
 正当に思える怒りが起こっても、怒りに正当なものなどないことを思い出すのじゃ。
 怒りは自我から起こるただの心の反応であるだけなのじゃ。
 福楽を求め、苦を避ける者は怒った時にこそ、他人を許すことを心がけるのじゃ。 



運気向上法 | 12:45:54 | Trackback(0) | Comments(4)
真の幸運を招く法
 人は誰でも幸福と安楽を求めているものじゃろう。
 そのためにさまざまな行いをしているじゃろう。
 しかし、自分では幸福や安楽のためと思いながら、実は幸福や安楽をもたらさない行いをしていることもあるのじゃ。

 例えば真面目に規則を守っていれば、胡福や安楽が来ると思っていたりするのじゃ。
 そしてそのために規則を破るものを弾劾していたりするのじゃ。
 それは自らの幸福と安楽をもたらさないばかりか、破滅の道でさえあるのじゃ。

 実際に真面目に規則を守って暮らしていたのに、不幸になったと言う者も多いじゃろう。 
 それで今まで教わってきたことは嘘だったと知れるならば、それも教訓になるがのう。
 それでも真の幸福の道を知ることの出来ない者も多いじゃろう。

 そもそも真面目に規則を守ることは、社会や組織のためになるから喧伝されていることに過ぎないのじゃ。
 民衆が真面目に規則を守る者だけであれば、社会も秩序が守られると思うから為政者によって教育され、広められているのじゃ。
 それは実際には個人には幸福をもたらさず、社会のためにもならない愚かな洗脳なのじゃ。

 民衆が上から押し付けられた規則を真面目に守るだけであると、為政者のおかしな命令を誰も止められず、ナチスがユダヤ民族を虐殺したようなことも起こってしまうのじゃ。
 ナチスの者達も真面目に規則を守って虐殺を実行して行ったのじゃ。
 それは社会と民衆の全てを破壊してしまったのじゃ。
 ただひたすら真面目に規則を守るという行いは、個人も社会もいずれは破滅に導くだけの愚かな行いなのじゃ。

 規則を守るだけならば、虫にもできることじゃ。
 蟻などは社会を持ち、全て規則に従っているものじゃ。
 規則を守ることで他人に苦を与えていた者が虫に生まれかわっても何の不思議も無いものじゃ。

 昔の中国に過酷な法律を作っていた大臣がいたのじゃ。
 旅人には水をあげてもいかんとか、厳しい法で民を苦しめていたのじゃ。
 後に大臣は没落して無一文で村をさまよいあるいていたのじゃ。
 一軒の家で水を頼んだが、法律があるからと水もくれなかったのじゃ。
 大臣は飢えて死んでしまったのじゃ。
 厳しい規則を他人に課していたものが、自分もその規則で苦しんだのは当然なのじゃ。
 
 とはいえ全ての規則を破って出鱈目に生きるのがよいということもないのじゃ。
 人が行動の基準とすべき真の法がある。
 それに従えば個人は幸福と安楽がもたらされ、社会や国家も繁栄するものじゃ。
 それは一人一人の心の中にあるものじゃ。
 
 それが慈悲なのじゃ。
 慈悲の心に従って行いをすれば、人には幸運がつき従い、組織は繁栄するものなのじゃ。
 慈悲に従って全てを行う人や組織は、周りの者や組織もありがたいと思うから、周囲に支えられて繁栄するのじゃ。
 規則ばかりを押し付ける人や組織は周りも無い方が善いと思うから、衰退していくしかないのじゃ。

 本来は社会の規則も人の利益を図るものであったはずなのじゃ。
 しかし、ただ規則を守ればよいとだけ思えば、人を苦しめるものともなるのじゃ。
 お釈迦様も多くの戒律を作ったが、迦葉が年をとって戒律を厳格に守るのも苦しかろうと、少しは戒を破ってもよいとよいと勧めたのじゃ。
 
 規則に従って人の苦を増す者は、いずれ自分が苦しむ時になれば規則によって更に苦が増すことになるじゃろう。
 時には規則を破っても人の利益を図るものは、自分が苦境に陥った時に他人が規則を破ってでも助けることがあるじゃろう。
 慈悲に従って全てを行うことが、自他の繁栄を図る最も賢いやり方なのじゃ。

 人が未だ修行が足りなくて智慧が無くとも、慈悲という基準に従うことで真の繁栄の法を実践できるのじゃ。
 自らと組織の繁栄を願う者は、慈悲を自らの行いの基準として実践に励むのじゃ。
 


運気向上法 | 11:55:08 | Trackback(0) | Comments(10)
足跡と足元を見て進むのじゃ。
  長く修行している者の中には、もはや飽きてしまったとか、成果も見えないのに続けるのは苦しいとか想う者もいるじゃろう。
 それは悪いことではないのじゃ。

 昔からそのように感じる者は多いのじゃ。
 それを苦にしたり、否定したりすると本心もわからなくなるのじゃ。

 そのような修行への熱意を取り戻すにはいろいろ工夫が必要なのじゃ。
 先ずは今まで辿ってきた修行の過程を振り返ってみるのじゃ。
 日記をつけている者ならば、最初の頃から読み返してみると善いのじゃ。

 修行を始める前のことを読めば、以前は苦しんでいたことも、今では夢のように感じるかもしれん。
 そのように成果が見られれば、やる気もまた湧いてくるものじゃ。

 人間は何の成果も見えない仕事をさせるとだんだんと飽きて、能率も下がるというのじゃ。
 時には以前の状態を振り返って、今までの修行を積んできた足跡を振り返ってみるとよいのじゃ。

 次には最初の話と矛盾しているが、過去も未来も思わずに今、ここでだけ修行しようと思うことなのじゃ。
 今日のこの日、今この時だけ実践すると思えば気も楽になって、修行に励めるのじゃ。

 そもそも修行に飽きたり、苦に感じるのは、今までやってきたのに成果があがらなかったと、過去のことを思い出しているか、その修行がこれからもつづくと未来を思うから憂えるのじゃ。
 過去や未来を見て、今を見ていないのじゃ。
 そのようにして修行に飽きたり、苦に感じたりするのじゃ。

 それを防ぐために、今日の今、この時だけ修行しようと決心するのじゃ。
 そうすれば過去も未来もなく、今ここにあることもできるのじゃ。
 それが足元を見ることなのじゃ。
 
 更には環境を少し変えてみるのもよいのじゃ。
 服を変えるとか、座布団を変えるとか、いろいろ変えてみるのじゃ。
 それだけでも新鮮な気持ちになってやる気が出るものじゃ。

 瞑想の助けにするために、今までやったことのないこともやってみるとよいのじゃ。
 お香を焚いてみるとか、自然の音や瞑想に向いた音楽をかけるのもよいのじゃ。
 集中のための曼荼羅やヤントラ等の図形を壁にかけるのもよいのじゃ。
 信じる神仏の図像も使うとよいのじゃ。

 それに囚われてはいかんのじゃ。
 囚われない程度に何でも助けになるものを使ってよいのじゃ。
 瞑想は形にも囚われないで善いのじゃ。
 
 自分がやり易いようにいろいろ工夫してとにかく続けるようにするのじゃ。
 特に病とか多忙で続けるのが難しいと思う時こそ実践すべきなのじゃ。
 毎日五分でも欠かさず実践することで、大きな力になるのじゃ。
 日々の実践で整えられた心が、苦から逃れる避難所になるのじゃ。
 修行者は工夫して日々実践するとよいのじゃ。



元気が出る説法 | 23:53:39 | Trackback(0) | Comments(6)
不死の境地
 悟りを得られれば不死の境地に入れるとお釈迦様は説いたのじゃ。
 不死の境地とは死を超越した境地なのじゃ。
 苦の最たるものである死を超越することがお釈迦様の教えの真髄なのじゃ。
 仏教の全てはそのためにあるのじゃ。

 死を超越したならばもはや他の苦も一切なくなるのじゃ。
 死以上の苦はないからのう。

 それでは人はどのようにして死を超越することが出来るのじゃろうか。
 死とは肉体の働きが停止することなのじゃ。
 それに伴って肉体に拠っていた全ての能力もなくなるのじゃ。
 感覚とか思考とか感情とか認識などもなくなるのじゃ。
 それらが自分であると思っていたならば死は自分の消滅であり、絶望しかない現象なのじゃ。

 しかし、肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。
 そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

 実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
 人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
 それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

 例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということもないじゃろう。
 自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
 自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

 瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
 自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
 自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
 境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

 そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
 自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

 更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
 天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
 膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

 全てであるならば二重の意味で死は無いのじゃ。
 死という観念はなく、死という実際も無いのじゃ。
 全てである意識が存在するだけであれば、肉体の消滅はその一部が変質するだけとわかるからなのじゃ。
 それが不死の境地なのじゃ。
 もはや永遠に意識があるだけなのじゃ。
 人は誰でも死の瞬間まで自らを知る努力を続けることで、その境地に到達することもできるのじゃ。
 


悟りの真実 | 13:59:58 | Trackback(0) | Comments(4)
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