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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自分を知るのじゃ。
  洋の東西を問わず、昔から今に至るまで全ての賢者達は一つの教えを繰り返し説いているのじゃ。
 それは自分を知ることなのじゃ。
 観察や経験によって自分を知ることが、賢者によって説かれた真の利益ある教えなのじゃ。

 自分を知ることで人は世間で大きな利益を得て、最後には世間を出る悟りにも到達できるのじゃ。
 自分を知らなければこの世で苦しみ、迷いのうちに死んで後にも苦しむのじゃ。
 自分を知ることがこの世に生まれてきた理由とも言えるのじゃ。

 例えば幅が三メートルのトラックに乗る者が自分のトラックの幅を知らなければ、幅が二メートルしかない山道に無理に乗り入れたりしたら転落して事故になるじゃろう。
 逆に四メートルの道幅のところに走るのは無理だと諦めてしまうこともあるかもしれん。
 そのように自分を知らなければ能力を過信して事故にあったり、逆に能力を低く見積もってチャンスを諦めてしまうこともあるじゃろう。

 能力についてだけでもこのように自分を知ることで事故を防ぎ、チャンスを生かすこともできるようになるのじゃ。
 その他、自分の好悪や肉体の習癖や心の働きについて知ることが多ければ、不調を減らし利益を多く出来ることは言うまでも無いのじゃ。

 自らの好む所を知ることで、それを生かして楽しめる職業に就いて成功することも出来るのじゃ。
 自らの好まないことを知って、利益が多いからと嫌いな職業に就いてストレスで心身を壊すということもなくなるのじゃ。
 
 肉体についても寒さに弱いとか暑いと倒れるとか、よく知っていれば病を防ぎ、長生きも出来るのじゃ。
 他人に効く薬も体質によって自分には効かないこともあるものじゃ。
 自分の肉体について日頃から知れば薬も合うものを選ぶことが出来るのじゃ。

 更には心の働きを知ることで苦を滅することも出来るのじゃ。
 苦しみも自分の心を観察することで滅することが出来ると知れば、安楽の境地に至れるのじゃ。

 自分の心を観察するといっても初めはわからないことばかりじゃろう。
 そのようなことが出来るということさえ知らない者も多いじゃろう。
 何事も初めはわからないことばかりであるが、実践し続けることで知識も増え、慣れてくるものじゃ。
 何があろうと自分の心を知る努力を続けることが大事なのじゃ。 
 
 人が苦を嘆き、迷いの内に生きていくしかないのも自分を知らないからなのじゃ。
 自分のしたいことも、すべきこともわからないのは自分に対して無知であるからに他ならないのじゃ。
 それは地図を持たない者が目的地も無く道なき道を旅するようなものじゃ。
 そのような状態ではただ苦しみ迷い続けたというだけの人生になってしまうのじゃ。

 自分を深く知っていれば、理想とすることも目的も自ずから明白になってくるものじや。
 それは慣れた道を行くものが行く先も、道筋も完全にわかって晴天の下で歩くようなものじゃ。
 確実に目的地に着くであろう事は明白なのじゃ。

 自分を知れば世間において大きな利益を得て、出世間の道においても永遠の安楽に辿り着けるのじゃ。
 自分を知れという賢者達の言葉は、真に虚しくないと言えるのじゃ。
 修行者は日々自分を知る努力を続けるとよいのじゃ。


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元気が出る説法 | 20:29:17 | Trackback(0) | Comments(0)
怒りを捨てるのじゃ。
 お釈迦様は法句経で怒りを捨てよと説いているのじゃ。
 捨てるとは慈悲喜捨の捨なのじゃ。
 心に怒りがあれば心が長く乱れ、修行も進まないのじゃ。
 それだけでなく怒りが起こった心は善悪もわからなくなり、正しいことと思って悪事をしてしまうこともあるのじゃ。
 そのような害悪がある故に、お釈迦様は怒りを捨てよと説いたのじゃ。

 怒りに駆られた者は正しい知識すらも無くなり、暴力に走ったりしてしまうものじゃ。
 肉体的な暴力だけでなく、言葉による暴力も使ってしまったりするのじゃ。
 それによって犯罪にまで発展してしまったりするのじゃ。
 そして怒りが消えてから何故そんなことをしたのかと、後悔したりするのじゃ。

 時に怒る者は正しさとか、正義という偽りの観念によって自らを欺いたりもするのじや。
 悪を正すとか、正義感による行いによって怒りを正当化するのじゃ。
 そのような正しさや正義は、攻撃欲を満たす為の欺瞞でしかないのじゃ。

 正義の欺瞞によって怒りと攻撃欲を発揮すれば、それは虚偽と他者を傷つける二重の罪を犯すことにもなるのじゃ。
 自分が正しいからと他人を責める者には、このような悪徳が付き纏うのじゃ。
 怒りや攻撃欲を正義として偽るならば、懺悔告白することも無い故に悪しき報いも免れないのじゃ。
 
 ただ一時の怒りでこの世では犯罪に発展し、後には地獄に行く可能性もあることを考えれば、怒りは常に捨てるべきものであることがわかるじゃろう。
 怒りが起こったことを知覚したら、常にそれを捨てる心構えで居れば、習慣の力によって怒りも制御できるようになるのじゃ。
 
 自分が今怒っている、或いは怒りそうだと感じたらそれを捨てるのじゃ。
 怒りの感情に囚われず、巻き込まれないようにしてそれから離れるのじゃ。
 何度でも怒りが起こる度に行えば、それが習慣に成り、怒りも直ぐに制御できるようになるのじゃ。
 
 或いは怒りを観察し、その原因から怒ることが観られれば怒りは消えるのじゃ。
 そして同じ原因から怒りが起こることもなくなるのじゃ。

 それはただの反応で在るから消すこともできるのじゃ。
 怒りの原因とは、誰かが自分から何か奪ったとか、自分のイメージを傷つけたとかなのじゃ。
 そのような原因から怒りが起こり、原因が無いと怒りも起こらないことを観察出来れば消えるのじゃ。
 
 怒りを抱える者は怒りによって自分を無能にしてしまうのじゃ。
 怒りを制御した者には敵わなくなるのじゃ。
 怒りを捨ててこそ優れた者になるなることもできるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 21:09:50 | Trackback(0) | Comments(6)
愛とは
  お釈迦様はこのように言っておる。

210、 愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 ここで愛と言われているのは愛着であり、執着なのじゃ。
 慈悲とは違うものなのじゃ。

 慈悲は自他の同一観から起こるものであり、他人の喜びを自らの喜びとして感じ、他人の悲しみを自らの悲しみとして観るものじゃ。
 愛着や執着は自分の孤独や不安から起こるものであり、逃避に過ぎないものじゃ。
 苦である孤独や不安から逃れようとして愛着し、更に苦を増やすことになるのじゃ。

 愛する者と離れる苦が愛別離苦であり、憎む者と会わなければならないのが怨憎会苦なのじゃ。
 愛するものがあれば、反対に憎む者も出来るのじゃ。
 愛する者を傷つける者や愛する者と反対の特徴がある者を憎むのじゃ。
 そして憎む者と共に居ることで苦しむのじゃ。
 そのように愛憎共に人を苦しめるものなのじゃ。

 愛する者によって苦しむ人の姿は日常でも多く観られるものじゃ。
 愛する者と離れる苦だけでなく、会っていても互いに傷つけあう苦もあるのじゃ。
 愛し合っていても自我があれば傷つけあわずにはいられないのじゃ。
 更には情痴のもつれからの犯罪や、ストーカーなどの犯罪までも引き起こすものじゃ。

 愛とは麻薬のようなものとも言えるのじゃ。
 人に一時的な快楽はもたらすが、やがては苦になり、破滅にさえも陥らせるものなのじゃ。
 しかし、麻薬も使いようによっては薬になるように、愛も慈悲になれば人に利益をもたらすものとなるのじゃ。

 愛着は自らのために他人を求めるものじゃ。
 慈悲は自他双方の利益を求めるものなのじゃ。
 
 愛着は人をありのままに慈しむことはなく、離れていれば会いたがり、会えば自らの思うとおりに操ろうとするものじゃ。
 それによって傷つけあうことにも繋がるのじゃ。
 慈悲は人をありのままに慈しみ、苦楽を共にして、自他の利益を図ろうとするのじゃ。
 そうであるから傷つけあうことも無く、進歩していくことも出来るのじゃ。
 そのような慈悲はそのまま善事であると言えるのじゃ。

 愛とはこのように両面の働きがあり、慎重に見極めなければならないものなのじゃ。
 自分が愛着し、執着しているならば、自らを観察して気付くのじゃ。
 そうすれば執着から離れ、破滅することも無いのじゃ。
 更に意志によって愛着を慈悲にまで昇華し、自他共に利益を図るのじゃ。


ダンマパダ(法句経)解説 | 20:32:12 | Trackback(0) | Comments(6)
見られただけならば自我は無いのじゃ。


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悟りの真実 | 17:52:43 | Trackback(0) | Comments(11)
自我の苦
 お釈迦様は自ら衆生の病を治す医者であると言ったのじゃ。
 衆生は病にかかっているから、それを治すというのじゃ。

 それがどのような病かといえば 衆生は自我という観念による病にかかっておるのじゃ。
 自我があれば、そのイメージによって苦も受けるのじゃ。

 自分が他人より劣っているというイメージを持った者はそれによって劣等感に苦しむのじゃ。
 自分が他人より優れていると思う者は、それを証明するために必死に働かなくてはいかんようになるのじゃ。
 逆に優秀な自分を守るためにと、引きこもりになったりもするのじゃ。

 自分があれば自分の好きなものが認識され、それに執着して苦になるのじゃ。
 自分があれば自分の嫌いなものも認識され、それを避けるために行動も制限されるのじゃ。

 このように自我はあらゆる人間に苦をもたらし、行いも制限しているのじゃ。
 自我によって認識する全ては苦になり、一時の快楽さえもやがては苦に変わるのじゃ。
 
 それも観念によって起こる病なのじゃ。
 観念による主体を自己と呼び、観念による客体を他己と呼ぶのじゃ。
 自己以外の全てが他のものであるならば、小さな自己と自己以外の全ての世界が対立するという観念を生むのじゃ。

 その観念が強い孤独感や孤立感、寂しさを起こすことになるのじゃ。
 それらからまた逃避、執着、攻撃欲等の苦に繋がる観念が起こるのじゃ。
 
 自我の観念は多くの苦の源であり、苦の上に苦を積み重ねるものなのじゃ。
 お釈迦様はそれを無明と呼び、観察することによって滅することが出来ると説いたのじゃ。
 苦を生じ、迷いを起こす無明も一度完全に観察されれば、煙の如く消え去るのじゃ。
 賢明な修行者は無明のもたらす大きな苦を知り尽くし、恐れを超えて進むのじゃ。


悟りの真実 | 14:47:35 | Trackback(0) | Comments(0)
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