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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自らの価値観と評価を観察するのじゃ。
 未だ悟りを得ていない者には条件付けされた価値観と自己評価が心の中にあるものじゃ。
 その価値観と自己評価によって行いも決められてしまうのじゃ。
 それが善いものならば善い行いに繋がるが、悪いものならば悪い行いに繋がってしまうのじゃ。

 それらは親とか友人等によって条件付けされるのじゃ。

 例えば犯罪を良いものとする価値観を条件付けされた者は、泥棒より強盗が勇気が在るとか間違った価値観を身に付けてしまうものじゃ。
 そして今の自分は泥棒しかしていないから強盗をして勇気があることを証明しようとしてしまったりするのじゃ。
 そのようにして悪事を続け、何度捕まってもやめられないのじゃ。

 心にそのような価値観と自己評価の働きが在る限り、自分でやめようとしてもやめられないのじゃ。
 何の得にもならず、明らかに損になるとわかっているのにやめられないのじゃ。
 知性や理性で理解していることも、心の中の条件付けによる行いをとめることは出来ないのじゃ。

 逆に親から駄目な者とか条件付けされた者は、自分を駄目な者と想い、駄目な行動をしてしまうのじゃ。
 それも自己評価から起こる行いなのじゃ。

 思春期になれば親から独立した自分の考えを持つようになるが、心の中の条件付けは変わらないのじゃ。
 それは心の中に残り、行いを選択する時に働いてしまうのじゃ。
 そのようにして親から与えられた価値観と自己評価に沿った行いを一生繰り返してしまう者もいるのじゃ。

 そのような価値観と自己評価わ乗り越えるためには、やはり観察するしかないのじゃ。
 自分の本心を観てそのような価値観と自己評価があり、今までそれに反応して行いをしていたと気づいた時、それは滅するのじゃ。

 悪しき行いに向かおうとする価値観と自己評価が在る限り、悟りに向かう修業も全うできないじゃろう。
 悪しき行いを求める心は、自己の心を整える行ないに反発するからのう。
 そうであるからそれも修行の妨げになる煩悩の一つといえるのじゃ。

 金や権力や名声をひたすら求めることが善いとする価値観や自己評価も同じなのじゃ。
 必要以上の欲は貪欲として三毒の一つとして教えられているの字や。
 今の知識や理性と照らし合わせて不要の価値観と自己評価は滅するべきものと言えるのじゃ。
 
 修行者が自分の本心をよく観察してそのような価値観と自己評価に気づけば、それも滅するのじゃ。
 そして今の自分の知性と理性に沿った行いも出来るようになるのじゃ。
 真の悟りを求める心の働きを最も尊ぶべきものとして進むことも出来るのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 


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苦滅の道実修 | 21:50:40 | Trackback(0) | Comments(1)
苦によって進歩するのじゃ。
  この世界に苦は尽きないものじゃ。
 この世で苦を味わった事の有る者や、今苦の中にある者もいるじゃろう。
 執着によって、身の病によって、貧窮によって、あらゆる苦がこの世に生きる者には襲い掛かるものじゃ。

 果てしなく続くように思える苦に、人は時に絶望してしまうかもしれん。
 この世で苦に悩まされた最後には、死の苦が待っておる。
 誰もが逃れられない苦なのじゃ。
 そのような一切苦のこの世に生きる意味はあるのかと、疑問にさえ思うかも知れん。

 しかし、そのような苦の中に真の幸福への道は有るものじゃ。
 人が苦に苛まれもはや今までの生活をも捨てて、新たな人生に脱却しようとする時、欺瞞を捨てて真の幸福への道は開かれるのじゃ。
 苦は確かに人にとって忌むべきものであるが、大局を見れば人を進歩させるものとも言えるのじゃ。

 苦がなければ決してしなかったであろう瞑想も、苦によって行うことが出来るじゃろう。
 瞑想をすれば心は整い、智慧もわくのじゃ。
 苦に負けない心が芽生えるのじゃ。

 更に苦を滅する法を知れば、自らの行いによって苦を克服できることも知れるのじゃ。
 苦は人を強く、賢くしてくれるのじゃ。
 
 今苦の最中に在る者にはわからんかもしれん。
 そのような法より今有る苦をどうにかしようと、酒や薬やさまざまな逃避に走ってしまう者も居るじゃろう。
 しかし、逃避は苦をますます強くするだけなのじゃ。

 逃避によって苦がなくなることは無いのじゃ。
 むしろ逃避に執着する苦が加算される故に、ますます苦が強くなるのじゃ。
 そのようにして人は苦から苦へと逃避し続け、何をして良いのかもわからない迷いに陥るのじゃ。

 苦は逃避によっては決してなくなりはしないのじゃ。
 そのことをはっきりと知って逃避をやめることが出来れば、真の苦を滅する法を行うことも出来るじゃろう。
 正しい法に従って観察すれば苦は滅することもできるのじゃ。

 苦は心に有る故に心を観察すれば苦は滅するのじゃ。
 たとえ身の痛みであっても、観察する事でそれが苦にはならないのじゃ。
 痛みよりも痛みによる不安、恐れが苦になるのじゃ。
 痛みは痛みだけのものと知り、それが自分ではないことに気づけば苦にはならないのじゃ。
 
 お釈迦様がこの世は一切が苦であると説いたのも、苦を滅する道が有るからなのじゃ。
 例えば冬に降り積もった多くの雪は何をしても消えることは無いが、春になれば忽ち全て融けて消えるように、逃避に拠ってなくなることの無い苦も正しく観察する事で全て無くすことも出来るのじゃ。
 正しく苦を観察し、苦が原因から起こる事を観察し、原因が無ければ苦が起こらないことを観察すれば苦は春の雪のように跡形も無く消えていくのじゃ。

 そして更に苦の根本原因である自分が有るという観念をも観られたならば、自我もなくなるのじゃ。
 更に認識をも観察すれば苦を起こす観念も無くなり、永遠の安らぎへと導かれるのじゃ。
 そこまで徹すれば一切の苦は永遠に無くなり、不死の境地に辿りつくのじゃ。
 その時にこそ苦は人が超越するためにあったと言えるのじゃ。
 
 


元気が出る説法 | 23:24:00 | Trackback(0) | Comments(2)
帰宅の喩
 悟りとは人が変じて別の何かになることではないのじゃ。
 むしろ本来の状態に戻ることなのじゃ。
 偽りの観念世界から真実の家に帰ることとも言えるのじゃ。

 例えば金持ちの子が家に飽き足らず、どこか遠くへ旅に出たとしよう。
 その子は厳しい世間で何年も暮らし、乞食に成り果ててうろつきまわっていたのじゃ。
 持っている物は汚い破れた衣と、破れた地図とけものを打つ為の折れた杖と壊れたお椀だけなのじゃ。
 
 どんどん流れて行き着いたのはかつて暮らしていた自分の家だったのじゃ。
 しかしあまりに長くよそに行っていたために自分の家ということもわからなかったのじゃ。
 金持ちの子はただ一日の糧となる食事を求めて、その家に行ったのじゃ。

 その家の門を叩くと金持ちの親が出てきたのじゃ。
 すると金持ちの親は直ぐにそれが自分の子供とわかったのじゃ。

 親は子にこう告げたのじゃ。
 「お前はわしの子じゃ。この門を入ればこの家も財産もこの地方の土地も全ておぬしのものじゃ。
  しかし、この門に入るにはその汚いものを全て捨てなければいかんのじゃ」
 すると子は直ぐに破れた衣を脱ぎ捨て、破れた地図も折れた杖も壊れたお椀も捨てたのじゃ。
 そして門に入り、家も財産も土地も全てを自分のものとすることができたのじゃ。
 
 悟りを求めるのも元からある本来の全てを取り戻すことなのじゃ。
 それには今自分のものと思っているものを悉く捨てなければいかんのじゃ。
 人が自分と思っている破れた衣のような自我。
 破れた地図のような愚かさ。
 獣を追うための折れた杖のような怒り。
 壊れたお椀のような貪欲。

 それらを捨ててようやく全てを得られる悟りの門に入れるのじゃ。

 自我は衣のように人を守り、他人から見られる自分があると言う観念なのじゃ。
 しかし、それは実は破れた衣のように心身を守れず、我執によって醜さをあらわすだけのものじゃ。
 自分の名前とイメージがその本体であり、それらのために人は自らの心身を疲弊させ、壊すのも厭わないのじゃ。
 その観念に囚われて全てを自分のものとしたいと思う醜さが現れるのじゃ。
 それは捨て去ってよい薄汚れた観念でしかないのじゃ。

 人の愚かさは破れた地図のようなものじゃ。
 我執や囚われによって人は愚かさを保ち、自らの利益を図ろうとして却って迷い、苦しんでいるのじゃ。
 それもまた必要な物ではないのじゃ。

 怒りは折れた杖のようなものじゃ。
 折れた杖でけものを打とうとしても役に立たないばかりか、自らを傷つけるものじゃ。
 恐れから逃れるために人は怒りを起こすが、それは却って自らを傷つけるのじゃ。
 そのような怒りも捨て去るべきものじゃ。

 貪欲は壊れたお椀のようなものじゃ。
 壊れたお椀に食物を入れても、こぼれてしまうからいつまでも一杯にならないのじゃ。
 そのように欲は不安に拠って起こるものであるから、限りが無いのじゃ。
 貪欲があればいつまでも満足することは無く、無駄に時間を過ごしてしまうのじゃ。
 それも捨てなければ悟りの門には入れないのじゃ。

 人がただ老病死の苦を逃れようとして悟りの道を行くのは、自分の家に一日の糧を求めて行くようなものじゃ。
 そのために今自分であり、自分のものとしている全てを捨てれば全てが得られるのじゃ。
 それは他から与えられるものではなく、自らが変ることでもなく、本来のありように回帰することなのじゃ。
 そのような悟りによって全てと本質的に繋がり、永遠の安楽に到達するのじゃ。
 修行者は実践によって確めるのじゃ。


悟りの真実 | 00:24:15 | Trackback(0) | Comments(2)
全てを観察するのじゃ。
 修業のために心を観察しようとする時は、体になにか動きがあればそれも観察するべきなのじゃ。
 今は心を観察しているから、体の働きは観察しないでおこうとか思わなくてよいのじゃ。
 今ここに起こる事を注意深く全て観察するのじゃ。
 それでこそ観察は完全になり、自我も観られるのじゃ。

 例えば心を観察してお腹に反応が有るとか、喉がしめられるような感じが有るとか、そのような肉体の反応も全て観察すると善いのじゃ。
 それもまた心の反応とも呼べるのじゃ。
 心と体は完全に離れている訳ではないからなのじゃ。

 心の動きはからだの反応としても現れるのじゃ。
 心身は一つのものであるからそのような反応があっても当然なのじゃ。
 それを無視していれば観察も不完全になってしまうのじゃ。

 肉体を観察していて心に反応が有る事も珍しくは無いのじゃ。
 肉体の記憶が心にも反映されるのじゃ。
 例えば昔、転んで怪我をした傷を観察すると痛い想いが蘇ってくるとかのう。
 
 そのような心の反応も肉体を観察する時に観るとよいのじゃ。
 
 つまりは今ここで起こる全ての反応を注意深く観て、受け容れ、認識することが大事なのじゃ。
 観察している時の心身の全ての反応に注意していれば、観察力も高まるのじゃ。
 
 自我も認識対象への主体の投射として現れるものであるから、そのように全てに注意して観察していれば観察できるようになるのじゃ。
 観察から余計なものを排除しようとすれば、自我も観えないのじゃ。
 それは観察しようとする主体の観念であるから観察対象からは外れてしまうのじゃ。
 自我は観察対象外の働きとして見過ごされているのじゃ。

 しかし、常日頃から観察領域を広げていれば、それも観察対象のうちに入れることが出来るのじゃ。
 常に全てに観察を加え、注意深く全てを観ようとすれば、主体の観念が働くところも観られるようになるのじゃ。
 全てを観ようとすれば主体も全ての内であるから観られるのじゃ。

 観察によって何を観るのかと、思い煩うことは無いのじゃ。
 全てをありのままに観るのじゃ。
 それでこそ悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 

 


悟りを得るための修行法 | 21:53:25 | Trackback(0) | Comments(0)
逃避を滅するのじゃ。
 大抵の者は恐れや不安等から日常的に逃避しているものじゃ。
 何か恐れや不安の対象があれば、それから目を逸らし、別の対象に耽溺することで観ないようにしているのじゃ。
 数々の娯楽や時には薬やギャンブルや犯罪などもその逃避の対象となるのじゃ。

 人がそのような悪習をなかなかやめられないのも、それが恐れや不安等からの逃避であるからなのじゃ。
 例えば道に蛇が居てそれを恐れて逃避していれば、いつまでも目的地には着かないのじゃ。
 蛇を恐れて逃避して娯楽に耽溺していれば、そのまま一生目的地にはつかないで終えるじゃろう。

 更に逃避していることを認めないで、朝は眠いからとか、夜は日が暮れたからとか逃避したことをも逃避して認めないならば、どんどん欺瞞が心に積もっていくのじゃ。
 そのように自分を誤魔化していれば、本心を観ることも出来ないのじゃ。

 修行者にもそのような逃避はあるものじゃ。
 自分の心の中の恐れから逃避して、修行が進めなくなるのじゃ。
 自分が無くなる恐れや常識から外れるのではないかという恐れ等、さまざまな恐れからの逃避が障害となるのじゃ。

 恐れから本心を観ることから逃避し、逃避したことも誤魔化してしまうのじゃ。
 終には自己欺瞞と傲慢の故に修業もやめてしまうのじゃ。
 多くの修行者がそのようにして悟りへの道から脱落して行ったのじゃ。

 そのような恐れも観察によって無くすことができるのじゃ。
 逃避しないでいようとか、逃避はやめようとか思わないでよいのじゃ。

 ただ自分が逃避している事に気付き、恐れが原因であることを観察できればよいのじゃ。
 逃避はその瞬間に消滅するのじゃ。
 人が不要になった荷物を手放すように、恐れと逃避は自然に消えるじゃろう。

 勇気を持って自分の逃避を観察しようとする以外に何も必要は無いのじゃ。
 今まで逃避し続けてきた習慣を変えようとするのは、勇気がいるものじゃ。
 しかし修行者は勇気を奮い起こして恐れに目をむけ、逃避を観察するのじゃ。
 そうすれば障害はなくなり、悟りへの道を進んでいくことも出来るのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 21:23:59 | Trackback(0) | Comments(2)
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