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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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形象の苦
  名色の内、今回は色についてなのじゃ。
 色とは形象であり、心の中ではイメージとして認識されるものじゃ。
 名前とイメージによって、全ては観念として悟りを得ていない人に認識されているのじゃ。
 
 その名前も実には言葉のイメージとして心の中で処理されているのじゃ。
 意味や音の有る一つ一つの小さなイメージとして言葉もあるのじゃ。
 言葉の組み合わせに拠ってイメージだけでは伝え難いような、複雑な概念や抽象的な観念も伝えられるのじゃ。
 そうであるから全てはイメージとして認識されているとも言えるのじゃ。

 天も地も山も川も森も林も星も雲も人も、全てイメージとして認識されているのじゃ。
 全てがイメージとして認識されていると言う事は、自分もまたイメージとして認識されているということなのじゃ。
 自分のイメージは全てのイメージの捉え方を決めるものなのじゃ。
 自己イメージに拠って、全ての認識対象は分別されているのじゃ。

 例えば自分が弱いというイメージを持つ者には、この世界が恐ろしいものと認識されているじゃろう。
 自分が強い者というイメージがある者は、この世界がそれほど恐ろしくは無いと認識するのじゃ。
 そのように自己イメージは他の全てのイメージを決定付けるものなのじゃ。

 自己イメージに拠って人は認識する世界が違うとも言えるのじゃ。
 そのように自己イメージは、人の認識する全ての世界と人生をも左右する重大なものであるが、これを自覚する者は少ないのじゃ。
 自己イメージは主体として謬見されているから、認識し難いのじゃ。
 自分の眼が眼を見れないようなものじゃ。

 そのような状態である為に、心理学的な言い方をするならば自己イメージは潜在意識として働いているとも言えるのじゃ。
 通常の意識状態では認めることも出来ないものなのじゃ。
 人にとって生きている世界と、人生を決めるものであるのに、自分では知覚する事も出来ない心の働きである故に、それを知らなけれ困難な状況にも陥るのじゃ。
 ブレーキもアクセルも不明な車に無理やり乗せられて、知らない道を走っているようなものじゃ。

 自己イメージに拠って世界は自分にとってどのようなものなのか、決定付けられるのであるから、自分は駄目な者とイメージされていれば、この世界でだめな者として行動してしまうのじゃ。
 そのような者はその自己イメージを滅しない限り、一生駄目な者として行動し続けるのじゃ。
 何故そのような自己イメージが作られるのかといえば、それは大抵は親とか親代わりになった者から条件付けされたからなのじゃ。
 子供は親に拠って全て教えられるものであるから、駄目な者と叱られてばかりいれば、自分を駄目な者としてイメージしてしまうのじゃ。
 それによって人生まで駄目にしてしまう者も多いのじゃ。

 それが自己イメージによると言えるのじゃ。
 更には自己イメージが自分であると認識するのであるから、自己イメージだけを良くしようと勤める者も少なくないのじゃ。
 学力が無いのに本をかじり読みした受け売りで知ったかぶりをしたり、実力が無いのに自慢ばかりして顰蹙を買う者も、そのように自己イメージにのみ囚われて失敗する者なのじゃ。
 心に悪意を持ちながら外面だけを綺麗にしている者も、イメージに囚われた愚かな者と言えるのじゃ。

 そのようにイメージだけをよく見せようとするのも、親に対する執着から起こるものじゃ。
 子供にとって親に気に入られるのは死活問題であるから、今の自分の本性や実力よりも善いイメージを与えようとするのじゃ。
 それは殆どの者にとって一生続けられる観念遊戯となってしまうのじゃ。
 親が居なくなれば社会や親代わりの者に自己イメージを見せるために、全ての労力を費やしてしまうのじゃ。
 それもまた自己イメージのもたらす苦なのじゃ。

 更には自分が世界とはなれて孤立した者というイメージから、孤独感や寂しさという根本的な苦の原因が起こるのじゃ。
 それから逃れるためにさまざまな逃避が起こるのじゃ。
 権力や金や名声に囚われ、果てには酒や薬とかに頼って身の破滅をもたらすのじゃ。
 それが自己イメージによって起こる苦の最も大きなものじゃろう。

 以上の如くに自己イメージはさまざまな苦をもたらす、苦の根本原因とも言えるものじゃ。
 しかし、その苦も自己イメージから起こることが一瞬でも観られたならば、即座に消えるのじゃ。
 自分のイメージから起こる苦の連鎖が全体として観られることで、気づきが起こり、厭離されるのじゃ。
 日々の精進によって観難い自分というイメージも、いずれは観ることができるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。


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未分類 | 23:32:57 | Trackback(0) | Comments(2)
名前の苦
  お釈迦様はダンマパダで名色からの厭離を説いているのじゃ。
 名色とは名前と形象なのじゃ。
 形象とはイメージなのじゃ。
 未だ悟りを得ぬ者は、全てのものごとをこの名前とイメージである観念に拠って認識しているのじゃ。

 その中の名前について今回は説くのじゃ。
 誰でも生まれた時から名前を持っているものじゃ。
 名前に拠って自分と他人を識別するのじゃ。
 名前が無ければ社会も成り立たないのじゃ。
 そんな便利な名前も自分として認識していると、苦を生む原因にもなるのじゃ。

 例えば軍人などは名誉のために死をも選ぶのじゃ。
 勇敢な者という名前を得るために自分の体が壊れることも厭わず、己の死をも省みず、他人をも殺すことを選ぶのじゃ。
 勇敢といわれ、臆病と言われないようにするために、自他の苦の道を選択してしまうのじゃ。
  
 或いは名声を欲する者が自らの肉体を傷つけても見目良く容貌を形成し、多くの時間を費やして技を磨き、終には人生の大半を費やしてしまうことも名に囚われて苦に陥ることなのじゃ。
 愚かな者はまともな手段によって名を広めることが出来ぬと思えば、犯罪まで行って名を広めようとさえするものじゃ。
 そのために被害に遭う者も苦であり、本人にとっても多いに苦になるものじゃ。


 そのように極端な例でなくとも、多くの者が日常で名前に執着した為に苦を受けているのじゃ。
 例えば他人人頼まれると嫌といえない者も居るのじゃ。
 そのために嫌な頼みごとや仕事を抱え込んで苦しむのじゃ。
 人に良く思われたいと思うから嫌とはいえないのじゃ。
 人に良く思われたいというのも、名前への囚われであることも多いのじゃ。

 或いは他人からの評価を気にして、己の意志を曲げてしまうのも名前への囚われからであることも多いのじゃ。
 自分の好きなことも体裁が悪いとか、体面が悪いとか、世間の評判を気にして事業とか趣味でも出来なくなってしまうのじゃ。
 そのような心構えでは後々に後悔することになるのじゃ。
 事業でも趣味の事でも、若いうちにやって置けばよかったとか、後悔しながら人生を終えるのじゃ。
 
 人が最も良い評価を得たいと願うのは、大抵親からの評価なのじゃ。
 親からいい子であるという評価を得たいがために、子供は頑張るものじゃ。
 ゲームとか遊びとかの好きなことも抑制し、勉強に励んだりするのじゃ。
 そのような心の習慣が大人になっても残ってしまうことが多いのじゃ。
 
 親や他人から褒められる事が人生で一番価値の在ることであるという、価値観が条件付けされるのじゃ。
 そうなれば自分の好きな事を抑圧し、世間の評判のために頑張りすぎてしまうのじゃ。
 そしていつの間にか気がつけば、自分が何を好み、何を楽しみとしているのかすらわからなくなってしまうのじゃ。
 世間の評判に合わせすぎてしまったために、己がわからなくなってしまうのじゃ。
 己がわからなければ迷いの世で更に迷いの中に入っていくようなものじゃ。

 そのような苦悶の生活に心当たりの在る者は、よく自らの生活や環境を省みてみると善いのじゃ。
 何故、自分は今このように窮屈な生き方をしているのか。
 何故、好きなことも出来ずに苦しいことばかり選択しているのか。
 そもそも自分の好きなことは何であったのか。
 等の疑問を自らの胸に聞いてみるのじゃ。

 それがただ親や世間からの評価を得たいと思っているからであったならば、名前に囚われているから苦が起こるのであると気付くこともできるかもしれんのじゃ。
 気付くことで厭離は起こり、名前との自己同一化も消えるのじゃ。
 そして他人の評価や世間の目を気にせずに、好きな事を思い出して安楽に生きることも出来るのじゃ。
 それもまた自分を知ることによる安楽と言えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。


未分類 | 21:57:39 | Trackback(0) | Comments(2)
慈悲によって幸福になるのじゃ。
 お釈迦様は清い心でいれば、福楽は影のように付き従うといっておる。
 清い心とは何かといえば慈悲の心なのじゃ。

 人が慈悲の心を持って日々を過ごせば、幸運も安楽も自ずからやってきて離れないのじゃ。
 それこそが幸福への道なのじゃ。

 どれほど知識や金や名声や権力があっても、慈悲が無ければ幸福も安楽も無いものじゃ。
 慈悲が無ければ知識は疑いを生み、金は不安の元となり、名声は非難となり、権力は恐れを生じるのじゃ。

 慈悲によって人を導かなければ、多くの知識は却って猜疑心を生むのじゃ。
 慈悲が無いまま資産を作れば、人はそれを奪おうとするから不安の元となるのじゃ。
 権力によって人を無慈悲に扱えば、恨みを生じ、自分も無慈悲に扱われるのではないかという恐れを生じるのじゃ。

 常に慈悲を持って衆生に優しくすれば、かえって自分の元に良い報いが返ってくるのじゃ。
 それが情けは人のためならずという格言の本当の意味なのじゃ。

 人の社会は慈悲を持って存在する理由となっているのじゃ。
 慈悲の無い社会は強い者だけが得をする弱肉強食の野生の世界と同じなのじゃ。

 そのような社会が速やかに無くなるのは当然なのじゃ。
 慈悲の多い世の中こそ人々長く存続させようと願うから、長く続くのじゃ。

 社会の規則も慈悲によって司るのが肝心なのじゃ。
 時には規則に反しても慈悲を優先させるのが良いのじゃ。

 規則は人のためにあるのであり、規則のために人があるのではないのじゃ。
 そこの所をよく心得ていないと、時に恐ろしいことにもなるのじゃ。

 心理学者の実験でも、人が規則によって命令されると、どんな恐ろしいことでもやってしまうという結果があるのじゃ。
 そのような心理があるから戦争中に残虐な事が多く起きても不思議ではないのじゃ。

 規則に何でも無条件に従う習慣が身についていると、そのような事も起こるのじゃ。
 常に慈悲を心がけていれば、規則によって無慈悲な事をする恐れも無いのじゃ。

 お釈迦様の教えだけでなく多くの宗教によって認められる善事も、全て慈悲によって行われるものじゃ。
 悟りを得たいとか、修行したいと思っていなくとも、人として生まれて幸福を願い、生まれ変わっても良い所にいきたいと思うならば、常に慈悲の心をもって善事を行うが良いのじゃ。

 常に慈悲の心をもって善事を行うならば、お釈迦様の言うとおり、常に幸福と安楽が付き従うじゃろう。
 そして良い所にいくことが約束されている故に、死ぬときにも不安は無いのじゃ。
 そのような者こそ人として生まれて良かったと言えるのじゃ。


未分類 | 19:26:32 | Trackback(0) | Comments(12)
不安も迷いも道標なのじゃ。
 修行中の者は、道の途中ではどうしても不安や迷いが起こるものじゃ。
 悟りを得ると自我が無くなると言うが、それで大丈夫なのかとか。
 自己防衛がなくなるのではないかとか。

 或いは自分の道は正しいのかとか。
 社会に貢献しないで良いのかとか。

 さまざまな悩みや不安は尽きないものじゃ。
 そのような不安や悩みも自ら滅しようと想えば滅する事が出来るじゃろう。

 悟りへの道を行く意志が堅固であれば、不安や悩みを滅しようとする意志も働く。
 意志が堅固でなければ、不安や悩みも増大するじゃろう。

 自らの本心を常に確かめ、悟りへの意志を堅くする事が一番大事なのじゃ。
 そして不安や悩みがあれば、滅しようとする意志を起こすのじゃ。

 自我を無くす不安はそれが投射される観念である事を知り、観察出来れば消えるじゃろう。
 観念には自己防衛は無く、むしろ自我が無い時に肉体の防衛機能は良く働く事もわかるじゃろう。

 正しい道を行っていると確信すれば、自らの道に対する不安や迷いも消えるじゃろう。
 そのような確信は今まで培ってきた心の状態によって起こるじゃろう。

 修行によって心が整えられ、苦が無くなり、世界が変わる状態を経験したならば、自らの道に間違いが無い事が判るじゃろう。
 世間において人々が執着から起こる苦に悩み、その苦にもしがみついて生きるしかないのを観察すれば、自ら道を行ける事の幸運に気付くじゃろう。

 元々修行も何もしなければ苦を越える事も知らず、不死の境地も知らないまま死ぬしかないものじゃ。
 心が鎮まり、苦を滅した安楽を得ただけでも幸運といえるのじゃ。

 不安や迷いも不死の境地を目指すゆえに起こるものじゃ。
 それは悟りへの道標ともいえるのじゃ。
  
 そのように不安や迷いがある修行者は、自らの心と世間を観察し、不安や迷いも道標として進むのじゃ。


未分類 | 12:44:31 | Trackback(0) | Comments(8)
神を知るために悟りを開くのじゃ。
  神を知るために悟りを開くのじゃ。

 仏教とは無神論であるとか、言われたりしておる。
 しかし、お釈迦様が悟りを得た時、創造神であるブラフマンが法を説くように勧請したとか、神を信じる者の為に、神は居ると言った事が記されておる。

 お釈迦様の教えとは全ての者の宝であり、神を信じる者達にも開かれているものじゃ。
 どのような思想や信仰をもっていようと、修行は出来るものじゃ。
 それが神を信じる者には、神を知り、神に近付く道にもなるのじゃ。

 例えば子供が総理大臣に会いたいとか言っても、何処にいてどのようにすれば会えるのかも知らず、自分では会う事は出来ないじゃろう。
 大人になれば総理と同じ政党に入ったり、有力者に近付いて伝手を辿って会えるようにしたりと、いろいろな手段で会えたりする。

 そのように修行しない者は智慧が無く、自らの心も観られず、心も乱れて神が何処に居るかもわからないものじゃ。
 修行すれば心は静まり、智慧が生じ、自らの心も見られるのじゃ。
 そこに神を求める事も出来るじゃろう。

 心を静め、謙虚に自らを省みる修行は、多くの神を信じる教えにも背かないものじゃろう。
 それこそが真に神を求める道とさえ言えるのじゃ。

 人が己の心の中に神を求める時、間違ってはならないのは、自我やその反映を神と思う事じゃ。
 己の為に神を求めれば、そのような間違いも起こるじゃろう。
 己を無くし、虚心に求めれば感じるじゃろう。
 その肉体にも全てと同じ本質がある事を。

 それは全てを作るものと同じ意識なのじゃ。
 それを感じれば神と呼べない神を知るじゃろう。
 


テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

未分類 | 20:23:39 | Trackback(0) | Comments(14)