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鬼和尚天空

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慈悲によって幸福になるのじゃ。
 お釈迦様は清い心でいれば、福楽は影のように付き従うといっておる。
 清い心とは何かといえば慈悲の心なのじゃ。

 人が慈悲の心を持って日々を過ごせば、幸運も安楽も自ずからやってきて離れないのじゃ。
 それこそが幸福への道なのじゃ。

 どれほど知識や金や名声や権力があっても、慈悲が無ければ幸福も安楽も無いものじゃ。
 慈悲が無ければ知識は疑いを生み、金は不安の元となり、名声は非難となり、権力は恐れを生じるのじゃ。

 慈悲によって人を導かなければ、多くの知識は却って猜疑心を生むのじゃ。
 慈悲が無いまま資産を作れば、人はそれを奪おうとするから不安の元となるのじゃ。
 権力によって人を無慈悲に扱えば、恨みを生じ、自分も無慈悲に扱われるのではないかという恐れを生じるのじゃ。

 常に慈悲を持って衆生に優しくすれば、かえって自分の元に良い報いが返ってくるのじゃ。
 それが情けは人のためならずという格言の本当の意味なのじゃ。

 人の社会は慈悲を持って存在する理由となっているのじゃ。
 慈悲の無い社会は強い者だけが得をする弱肉強食の野生の世界と同じなのじゃ。

 そのような社会が速やかに無くなるのは当然なのじゃ。
 慈悲の多い世の中こそ人々長く存続させようと願うから、長く続くのじゃ。

 社会の規則も慈悲によって司るのが肝心なのじゃ。
 時には規則に反しても慈悲を優先させるのが良いのじゃ。

 規則は人のためにあるのであり、規則のために人があるのではないのじゃ。
 そこの所をよく心得ていないと、時に恐ろしいことにもなるのじゃ。

 心理学者の実験でも、人が規則によって命令されると、どんな恐ろしいことでもやってしまうという結果があるのじゃ。
 そのような心理があるから戦争中に残虐な事が多く起きても不思議ではないのじゃ。

 規則に何でも無条件に従う習慣が身についていると、そのような事も起こるのじゃ。
 常に慈悲を心がけていれば、規則によって無慈悲な事をする恐れも無いのじゃ。

 お釈迦様の教えだけでなく多くの宗教によって認められる善事も、全て慈悲によって行われるものじゃ。
 悟りを得たいとか、修行したいと思っていなくとも、人として生まれて幸福を願い、生まれ変わっても良い所にいきたいと思うならば、常に慈悲の心をもって善事を行うが良いのじゃ。

 常に慈悲の心をもって善事を行うならば、お釈迦様の言うとおり、常に幸福と安楽が付き従うじゃろう。
 そして良い所にいくことが約束されている故に、死ぬときにも不安は無いのじゃ。
 そのような者こそ人として生まれて良かったと言えるのじゃ。


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未分類 | 19:26:32 | Trackback(0) | Comments(12)
不安も迷いも道標なのじゃ。
 修行中の者は、道の途中ではどうしても不安や迷いが起こるものじゃ。
 悟りを得ると自我が無くなると言うが、それで大丈夫なのかとか。
 自己防衛がなくなるのではないかとか。

 或いは自分の道は正しいのかとか。
 社会に貢献しないで良いのかとか。

 さまざまな悩みや不安は尽きないものじゃ。
 そのような不安や悩みも自ら滅しようと想えば滅する事が出来るじゃろう。

 悟りへの道を行く意志が堅固であれば、不安や悩みを滅しようとする意志も働く。
 意志が堅固でなければ、不安や悩みも増大するじゃろう。

 自らの本心を常に確かめ、悟りへの意志を堅くする事が一番大事なのじゃ。
 そして不安や悩みがあれば、滅しようとする意志を起こすのじゃ。

 自我を無くす不安はそれが投射される観念である事を知り、観察出来れば消えるじゃろう。
 観念には自己防衛は無く、むしろ自我が無い時に肉体の防衛機能は良く働く事もわかるじゃろう。

 正しい道を行っていると確信すれば、自らの道に対する不安や迷いも消えるじゃろう。
 そのような確信は今まで培ってきた心の状態によって起こるじゃろう。

 修行によって心が整えられ、苦が無くなり、世界が変わる状態を経験したならば、自らの道に間違いが無い事が判るじゃろう。
 世間において人々が執着から起こる苦に悩み、その苦にもしがみついて生きるしかないのを観察すれば、自ら道を行ける事の幸運に気付くじゃろう。

 元々修行も何もしなければ苦を越える事も知らず、不死の境地も知らないまま死ぬしかないものじゃ。
 心が鎮まり、苦を滅した安楽を得ただけでも幸運といえるのじゃ。

 不安や迷いも不死の境地を目指すゆえに起こるものじゃ。
 それは悟りへの道標ともいえるのじゃ。
  
 そのように不安や迷いがある修行者は、自らの心と世間を観察し、不安や迷いも道標として進むのじゃ。


未分類 | 12:44:31 | Trackback(0) | Comments(4)
神を知るために悟りを開くのじゃ。
  神を知るために悟りを開くのじゃ。

 仏教とは無神論であるとか、言われたりしておる。
 しかし、お釈迦様が悟りを得た時、創造神であるブラフマンが法を説くように勧請したとか、神を信じる者の為に、神は居ると言った事が記されておる。

 お釈迦様の教えとは全ての者の宝であり、神を信じる者達にも開かれているものじゃ。
 どのような思想や信仰をもっていようと、修行は出来るものじゃ。
 それが神を信じる者には、神を知り、神に近付く道にもなるのじゃ。

 例えば子供が総理大臣に会いたいとか言っても、何処にいてどのようにすれば会えるのかも知らず、自分では会う事は出来ないじゃろう。
 大人になれば総理と同じ政党に入ったり、有力者に近付いて伝手を辿って会えるようにしたりと、いろいろな手段で会えたりする。

 そのように修行しない者は智慧が無く、自らの心も観られず、心も乱れて神が何処に居るかもわからないものじゃ。
 修行すれば心は静まり、智慧が生じ、自らの心も見られるのじゃ。
 そこに神を求める事も出来るじゃろう。

 心を静め、謙虚に自らを省みる修行は、多くの神を信じる教えにも背かないものじゃろう。
 それこそが真に神を求める道とさえ言えるのじゃ。

 人が己の心の中に神を求める時、間違ってはならないのは、自我やその反映を神と思う事じゃ。
 己の為に神を求めれば、そのような間違いも起こるじゃろう。
 己を無くし、虚心に求めれば感じるじゃろう。
 その肉体にも全てと同じ本質がある事を。

 それは全てを作るものと同じ意識なのじゃ。
 それを感じれば神と呼べない神を知るじゃろう。
 


テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

未分類 | 20:23:39 | Trackback(0) | Comments(14)

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