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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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苦によって進歩するのじゃ。
  この世界に苦は尽きないものじゃ。
 この世で苦を味わった事の有る者や、今苦の中にある者もいるじゃろう。
 執着によって、身の病によって、貧窮によって、あらゆる苦がこの世に生きる者には襲い掛かるものじゃ。

 果てしなく続くように思える苦に、人は時に絶望してしまうかもしれん。
 この世で苦に悩まされた最後には、死の苦が待っておる。
 誰もが逃れられない苦なのじゃ。
 そのような一切苦のこの世に生きる意味はあるのかと、疑問にさえ思うかも知れん。

 しかし、そのような苦の中に真の幸福への道は有るものじゃ。
 人が苦に苛まれもはや今までの生活をも捨てて、新たな人生に脱却しようとする時、欺瞞を捨てて真の幸福への道は開かれるのじゃ。
 苦は確かに人にとって忌むべきものであるが、大局を見れば人を進歩させるものとも言えるのじゃ。

 苦がなければ決してしなかったであろう瞑想も、苦によって行うことが出来るじゃろう。
 瞑想をすれば心は整い、智慧もわくのじゃ。
 苦に負けない心が芽生えるのじゃ。

 更に苦を滅する法を知れば、自らの行いによって苦を克服できることも知れるのじゃ。
 苦は人を強く、賢くしてくれるのじゃ。
 
 今苦の最中に在る者にはわからんかもしれん。
 そのような法より今有る苦をどうにかしようと、酒や薬やさまざまな逃避に走ってしまう者も居るじゃろう。
 しかし、逃避は苦をますます強くするだけなのじゃ。

 逃避によって苦がなくなることは無いのじゃ。
 むしろ逃避に執着する苦が加算される故に、ますます苦が強くなるのじゃ。
 そのようにして人は苦から苦へと逃避し続け、何をして良いのかもわからない迷いに陥るのじゃ。

 苦は逃避によっては決してなくなりはしないのじゃ。
 そのことをはっきりと知って逃避をやめることが出来れば、真の苦を滅する法を行うことも出来るじゃろう。
 正しい法に従って観察すれば苦は滅することもできるのじゃ。

 苦は心に有る故に心を観察すれば苦は滅するのじゃ。
 たとえ身の痛みであっても、観察する事でそれが苦にはならないのじゃ。
 痛みよりも痛みによる不安、恐れが苦になるのじゃ。
 痛みは痛みだけのものと知り、それが自分ではないことに気づけば苦にはならないのじゃ。
 
 お釈迦様がこの世は一切が苦であると説いたのも、苦を滅する道が有るからなのじゃ。
 例えば冬に降り積もった多くの雪は何をしても消えることは無いが、春になれば忽ち全て融けて消えるように、逃避に拠ってなくなることの無い苦も正しく観察する事で全て無くすことも出来るのじゃ。
 正しく苦を観察し、苦が原因から起こる事を観察し、原因が無ければ苦が起こらないことを観察すれば苦は春の雪のように跡形も無く消えていくのじゃ。

 そして更に苦の根本原因である自分が有るという観念をも観られたならば、自我もなくなるのじゃ。
 更に認識をも観察すれば苦を起こす観念も無くなり、永遠の安らぎへと導かれるのじゃ。
 そこまで徹すれば一切の苦は永遠に無くなり、不死の境地に辿りつくのじゃ。
 その時にこそ苦は人が超越するためにあったと言えるのじゃ。
 
 


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元気が出る説法 | 23:24:00 | Trackback(0) | Comments(4)
正しい信念
 修業の妨げになる煩悩は三毒と呼ばれるものじゃ。
 貪欲、瞋恚、愚痴の三つなのじゃ。

 貪欲は必要以上に執着し、求める欲なのじゃ。
 執着は苦を次々に生み出し、修業の妨げになるじゃろう。

 瞋恚は怒りなのじゃ。
 一度怒れば長く興奮が続き、心を統一して観察する事もできないのじゃ。

 最後の愚痴は今のように不満を言う事ではなく、愚かさなのじゃ。
 自分があるという観念である無明こそが最も妨げになる愚かさであるのじゃ。
 それは大きく見れば自分というものを知らない愚かさでもあるのじゃ。
 
 自我が観念であることを気付かないのは最大の過ちであるが、それ以前に自己イメージが卑小であれば、悟りを得る可能性も少なくなってしまうのじゃ。
 多くの者は自分のイメージが本当の実力より過小であると信じておる。
 それによって自ら力を制御してしまうのじゃ。

 昔みんなから頭が悪いと思われていた者が居ったのじゃ。
 自分でも頭が悪いと思って低賃金の仕事ばかりしていたのじゃ。
 ある時、IQを計ってみたら150という天才並にあったのじゃ。
 自分が天才だとわかってからその者は会社を作って金持ち社長になったのじゃ。
 
 そのように真実ではない誰かに与えられた自己イメージを信じてしまうと、実力も行いも制限されてしまうのじゃ。
 それは修業の道にも影響してしまうのじゃ。
 自分には到底悟りなど得られないと信じていると、その通りになってしまうじゃろう。
 自分には出来る、自分にも悟りは得られると信じるとその通りになるのじゃ。

 そのように大抵の者が自己イメージの低い原因は、子供の頃に親とかに叱られてばかりいたからとかなのじゃ。
 親も子が憎くて叱るのではないのじゃ。
 例えば交通安全を教えないと命に関わるからと、厳しく叱ったりして教えたりするのじゃ。
 しかし、そのようなしつけによって子供は自分が駄目な者であるとか、信じてしまうのじゃ。

 そのような心の働きは観察によって滅することが出来るじゃろう。
 そして新たな信念を何度も繰り返し、心に植えつける事で変えることが出来るじゃろう。

 今ここに生まれここで正しい悟りへの道を知り、信じて実行できる者は大いなる幸運に恵まれているのじゃ。
 偉大な才能があり、修業を全うする事もできるのじゃ。
 慈悲と勇気を持ち、智慧があり悟りへの高い志がある者じゃ。
 やがて悟りを得て多くの者を助け、全人類の光となるじゃろう。
 かつてお釈迦様の元で悟りを得た阿羅漢の聖者達のように多くの者に渇仰され、教えを授ける者となる。
 人の世が続く限り人々が賞賛し、次の二千年以上もその名によって救いを求める者達の慈雨となるのじゃ。
 それこそが今ここで修業する者達が正しい信念とするべきなのじゃ。


元気が出る説法 | 21:59:11 | Trackback(0) | Comments(8)
一切世間は無常なのじゃ。
 人間は同じような環境が続くと、いつまでもこのままでいられると思ってしまうものじゃ。
 それにはこのままでいたいという願望もあり、真実を見ないようにしているのじゃ。

 実際にはこの世では全ては変化してとまらないものじゃ。
 世間では常にあるものは何も無いのじゃ。
 それを無常とお釈迦様は教えたのじゃ。

 全ての世間のものはやがて滅していく性質のものなのじゃ。
 不安や恐れからそれを見ようとしていなければ、労病死の定めが訪れた時に嘆くことになるのじゃ。

 それは目覚めた者の肉体も同じなのじゃ。
 心は既に不死の境地にあっても、肉体は滅びていくものじや。

 お釈迦様も涅槃に入り、その後の多くの目覚めた者達ももはやいなくなったのじゃ。
 わしもいずれはいなくなるものじゃ。
 それは予め定められたことなのじゃ。

 仏陀も肉体がある間だけ存在し、道標になることが出来るのじゃ。
 人として生まれ、正しい道を示す者が居る間に、修行できる環境にあることは実に稀なことなのじゃ。
 稀な機会を逃せば後に悔やむことにもなるじゃろう。
 
 この稀な機会にただひたすらに修行に励めば不死の境地にも至れるのじゃ。
 お釈迦様が無情を説いたのも、世間を超えた所に無限の境地があるからなのじゃ。
 修行者はこの有限の時間で無限の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。


元気が出る説法 | 13:45:53 | Trackback(0) | Comments(3)
絶望を超えるのじゃ。
  絶望とは希望が絶たれた状態なのじゃ。
 前途に希望がないと、絶望の余り何もしたくなくなったり、時に自分や他人を傷つけてしまったりする事さえあるものじゃ。
 人が犯罪に走ったりするのもそれが原因の一つだったりするのじゃ。

 そのような絶望もよく観察してみれば、滅することも出来るのじゃ。
 自分に前途が無いとか、悲観しているよりその状態をよく観察してみれば絶望も実は幻想であったと気付けるのじゃ。
 絶望にも原因があり、原因から観察できれば厭離されるのじゃ。

 絶望の原因に多いのは恐れじゃろう。
 例えば道に落ちている縄を蛇だと思い、道を通れないから仕事が出来なくて絶望するなどという事があるとしよう。
 しかし、よく見れば縄だと気付いて道が通れるようになり、仕事も出来るようになるのじゃ。

 そのように他人への恐れとか、仕事そのものに対する不安や恐れ等があって仕事が出来ず絶望していても、恐れの原因を観察してみれば、実は恐れそのものが幻想によるものだと気付いてなくなり、恐れも消えるのじゃ。
 観察によって恐れが無くなり、仕事が出来るようになれば絶望もなくなるのじゃ。
 そのようにして恐れによって絶望があっても、恐れを原因から観察して滅すれば絶望も消えるのじゃ。

 更には自分自身のイメージが小さいために絶望に陥ることもあるじゃろう。
 親等からあれも出来ないとかこれも出来ないとか言われて育つと、その者の自己イメージは矮小となり、本当に自分は何も出来ないと思い込むようになるのじゃ。
 或いは親子供に依存していれば、親を正当化するために自分は無意識に失敗を繰り返し、無能力であることを証明する。
 そして絶望してしまうのじゃ。

 それらもよく自らの心を観察し、過去の記憶に縛られていたと気付けば消えるのじゃ。
 例えば子供が遊戯で悪役を演じていたとして、遊戯が終わればもはや悪役を演じる必要もないと気付くようなものじゃ。
 親兄弟との関わりで演じていた自己のイメージを離れれば、全て変わるのじゃ。
 特にしばらく離れていれば自らを省みて気付く事も容易になるのじゃ。


 他にも希望に強く執着していた為に、それを失ったという事で絶望に陥る事もあるじゃろう。
 目標や希望を持つ事はよいことであるが、それに執着してしまうと却って苦になり、絶望したりすることもあるのじゃ。
 余りにも高望みし過ぎて失敗したり、進歩が遅いと希望は絶望に変わり苦になるものじゃ。
  
 そのような原因の絶望も観察によって滅するじゃろう。
 希望することや目標を持つ事がいけないのではなく、それに執着しすぎると苦になり、絶望することにもなると、気付く事でそれも無くなるのじゃ。
 そして結果に執着することなく、ただひたすらに新たな希望に向けて進んでいくこともできるじゃろう。

 そのように絶望も詳細に観察することによって、滅することが出来るのじゃ。
 日々実践に勤める修行者には絶望も、もはや無に等しいのじゃ。
 賢い者は日常に於いても絶望を超えて進むのじゃ。


元気が出る説法 | 13:22:21 | Trackback(0) | Comments(18)
慈悲と執着
 仏教に限らず多くの宗教は愛を尊び、愛による行いを推奨するものじゃ。
 お釈迦様は慈悲と言い、他者と自分を同じように扱うことを説いておる。

 しかし、愛によって他者を苦しめ、自分自身も苦しむ事もあるのじゃ。
 それは愛や慈悲と、執着を区別していないからなのじゃ。
 愛や慈悲と執着は似ているが、まったく違うのじゃ。

 愛や慈悲による行いは自他を幸福に導くものじゃ。
 執着による行いは自他を苦しめるものなのじゃ。

 例えば愛するものと別れる愛別離苦という苦があるのじゃ。
 それは執着の故に苦になるのじゃ。

 本当に愛しているだけならば、どんなに離れようと相手が安楽ならば苦にならないものじゃ。
 今ここに無いことを悔やめば執着になり、苦を起こすのじゃ。

 愛や慈悲とは相手をありのままに認め、今ここにある状態に満足する事なのじゃ。
 執着とはありのままの状態を認めず、今ここには無いことを願うことなのじゃ。

 愛するものと別れ、今ここにいればよいとか、過去にはここにいたとか、未来にここにいるようになるとよいとか、思うことが執着なのじゃ。
 今ここにいる愛する者にも、今このようであればよいとか、過去にこのようにすべきであったとか、未来にこのようになればよいとか思うことが執着なのじゃ。
 例えば子供に良い学校に入ればよかったとか、この先よい学校に入るべきであるとか、入られなければならない故に今は全てを犠牲にして学ばなければならんとか思うのが執着なのじゃ。

 そのような執着があれば苦は自他に起こり、争いあう不和となるのも当然なのじゃ。

 相手がどのような状態であろうと認め、慈しむことが真の愛であり慈悲なのじゃ。
 相手の安楽を喜び、苦境にあれば哀れむのが慈悲なのじゃ。
 それでこそともに助け合い、進歩していくことも出来るのじゃ。

 愛や慈悲を実行しているのに、何故自他共に苦しむのかと迷う者は、このように愛や慈悲と執着を間違えていないか、よく観察してみるのじゃ。
 その執着も不安や孤独感から起こるものじゃ。
 自らの本心をよく観察し、愛や慈悲を行っているつもりで、執着していないか気をつけて進んでいくのじゃ。
 


元気が出る説法 | 21:42:19 | Trackback(0) | Comments(4)
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