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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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一切世間は無常なのじゃ。
 人間は同じような環境が続くと、いつまでもこのままでいられると思ってしまうものじゃ。
 それにはこのままでいたいという願望もあり、真実を見ないようにしているのじゃ。

 実際にはこの世では全ては変化してとまらないものじゃ。
 世間では常にあるものは何も無いのじゃ。
 それを無常とお釈迦様は教えたのじゃ。

 全ての世間のものはやがて滅していく性質のものなのじゃ。
 不安や恐れからそれを見ようとしていなければ、労病死の定めが訪れた時に嘆くことになるのじゃ。

 それは目覚めた者の肉体も同じなのじゃ。
 心は既に不死の境地にあっても、肉体は滅びていくものじや。

 お釈迦様も涅槃に入り、その後の多くの目覚めた者達ももはやいなくなったのじゃ。
 わしもいずれはいなくなるものじゃ。
 それは予め定められたことなのじゃ。

 仏陀も肉体がある間だけ存在し、道標になることが出来るのじゃ。
 人として生まれ、正しい道を示す者が居る間に、修行できる環境にあることは実に稀なことなのじゃ。
 稀な機会を逃せば後に悔やむことにもなるじゃろう。
 
 この稀な機会にただひたすらに修行に励めば不死の境地にも至れるのじゃ。
 お釈迦様が無情を説いたのも、世間を超えた所に無限の境地があるからなのじゃ。
 修行者はこの有限の時間で無限の境地に至るまで精進あるのみなのじゃ。


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元気が出る説法 | 13:45:53 | Trackback(0) | Comments(3)
絶望を超えるのじゃ。
  絶望とは希望が絶たれた状態なのじゃ。
 前途に希望がないと、絶望の余り何もしたくなくなったり、時に自分や他人を傷つけてしまったりする事さえあるものじゃ。
 人が犯罪に走ったりするのもそれが原因の一つだったりするのじゃ。

 そのような絶望もよく観察してみれば、滅することも出来るのじゃ。
 自分に前途が無いとか、悲観しているよりその状態をよく観察してみれば絶望も実は幻想であったと気付けるのじゃ。
 絶望にも原因があり、原因から観察できれば厭離されるのじゃ。

 絶望の原因に多いのは恐れじゃろう。
 例えば道に落ちている縄を蛇だと思い、道を通れないから仕事が出来なくて絶望するなどという事があるとしよう。
 しかし、よく見れば縄だと気付いて道が通れるようになり、仕事も出来るようになるのじゃ。

 そのように他人への恐れとか、仕事そのものに対する不安や恐れ等があって仕事が出来ず絶望していても、恐れの原因を観察してみれば、実は恐れそのものが幻想によるものだと気付いてなくなり、恐れも消えるのじゃ。
 観察によって恐れが無くなり、仕事が出来るようになれば絶望もなくなるのじゃ。
 そのようにして恐れによって絶望があっても、恐れを原因から観察して滅すれば絶望も消えるのじゃ。

 更には自分自身のイメージが小さいために絶望に陥ることもあるじゃろう。
 親等からあれも出来ないとかこれも出来ないとか言われて育つと、その者の自己イメージは矮小となり、本当に自分は何も出来ないと思い込むようになるのじゃ。
 或いは親子供に依存していれば、親を正当化するために自分は無意識に失敗を繰り返し、無能力であることを証明する。
 そして絶望してしまうのじゃ。

 それらもよく自らの心を観察し、過去の記憶に縛られていたと気付けば消えるのじゃ。
 例えば子供が遊戯で悪役を演じていたとして、遊戯が終わればもはや悪役を演じる必要もないと気付くようなものじゃ。
 親兄弟との関わりで演じていた自己のイメージを離れれば、全て変わるのじゃ。
 特にしばらく離れていれば自らを省みて気付く事も容易になるのじゃ。


 他にも希望に強く執着していた為に、それを失ったという事で絶望に陥る事もあるじゃろう。
 目標や希望を持つ事はよいことであるが、それに執着してしまうと却って苦になり、絶望したりすることもあるのじゃ。
 余りにも高望みし過ぎて失敗したり、進歩が遅いと希望は絶望に変わり苦になるものじゃ。
  
 そのような原因の絶望も観察によって滅するじゃろう。
 希望することや目標を持つ事がいけないのではなく、それに執着しすぎると苦になり、絶望することにもなると、気付く事でそれも無くなるのじゃ。
 そして結果に執着することなく、ただひたすらに新たな希望に向けて進んでいくこともできるじゃろう。

 そのように絶望も詳細に観察することによって、滅することが出来るのじゃ。
 日々実践に勤める修行者には絶望も、もはや無に等しいのじゃ。
 賢い者は日常に於いても絶望を超えて進むのじゃ。


元気が出る説法 | 13:22:21 | Trackback(0) | Comments(18)
慈悲と執着
 仏教に限らず多くの宗教は愛を尊び、愛による行いを推奨するものじゃ。
 お釈迦様は慈悲と言い、他者と自分を同じように扱うことを説いておる。

 しかし、愛によって他者を苦しめ、自分自身も苦しむ事もあるのじゃ。
 それは愛や慈悲と、執着を区別していないからなのじゃ。
 愛や慈悲と執着は似ているが、まったく違うのじゃ。

 愛や慈悲による行いは自他を幸福に導くものじゃ。
 執着による行いは自他を苦しめるものなのじゃ。

 例えば愛するものと別れる愛別離苦という苦があるのじゃ。
 それは執着の故に苦になるのじゃ。

 本当に愛しているだけならば、どんなに離れようと相手が安楽ならば苦にならないものじゃ。
 今ここに無いことを悔やめば執着になり、苦を起こすのじゃ。

 愛や慈悲とは相手をありのままに認め、今ここにある状態に満足する事なのじゃ。
 執着とはありのままの状態を認めず、今ここには無いことを願うことなのじゃ。

 愛するものと別れ、今ここにいればよいとか、過去にはここにいたとか、未来にここにいるようになるとよいとか、思うことが執着なのじゃ。
 今ここにいる愛する者にも、今このようであればよいとか、過去にこのようにすべきであったとか、未来にこのようになればよいとか思うことが執着なのじゃ。
 例えば子供に良い学校に入ればよかったとか、この先よい学校に入るべきであるとか、入られなければならない故に今は全てを犠牲にして学ばなければならんとか思うのが執着なのじゃ。

 そのような執着があれば苦は自他に起こり、争いあう不和となるのも当然なのじゃ。

 相手がどのような状態であろうと認め、慈しむことが真の愛であり慈悲なのじゃ。
 相手の安楽を喜び、苦境にあれば哀れむのが慈悲なのじゃ。
 それでこそともに助け合い、進歩していくことも出来るのじゃ。

 愛や慈悲を実行しているのに、何故自他共に苦しむのかと迷う者は、このように愛や慈悲と執着を間違えていないか、よく観察してみるのじゃ。
 その執着も不安や孤独感から起こるものじゃ。
 自らの本心をよく観察し、愛や慈悲を行っているつもりで、執着していないか気をつけて進んでいくのじゃ。
 


元気が出る説法 | 21:42:19 | Trackback(0) | Comments(4)
自らの性質を見るのじゃ。
  世間には多くの知識が溢れておるが、最も重要で有効な知識は自分自身の性質の知識なのじゃ。
 自分がどのような性質のものであるのか、知る事が生きる為にも最も役立つのじゃ。
 自分の性質を知らないまま、多くの人と同じように自分もしようと思っていると。苦や迷いが起こるのじゃ。

 例えば自分はにんじんが嫌いな者であると、知っただけでも買い物にはにんじんを買わないようにするとか、にんじんの利用理は覚えないとかの選択が起こり、行動も起こるのじゃ。
 多くの人にとってにんじんが善い物であるから自分も無理に食べようとすると苦が起こり、栄養のために食べるか食べないかというような迷いも起こるじゃろう。
 そればかりかにんじんが食べられない自分に劣等感を持ったり、悪いものであるとさえ思ったりするじゃろう。

 そのように自分の性質に対する一つの小さな知識だけでも、それあれば苦は少なくなり、迷いもなくなるが無ければ苦や迷いがあるのじゃ。
 一つの知識だけでもそうであるから、自分について知れば知るほど、苦は無くなり、迷いも減るじゃろう。

 仕事を選ぶときや人生の目標を決める時なども、自分の性質を知ることで最も善い選択が出来るのじゃ。
 世間でよい仕事であるとか言われているという理由で、嫌いな仕事を選べばやはり苦しむこととなるのじゃ。
 先ずは自分の性質を知ることで、正しい選択も出来るようになるのじゃ。

 仏家において見性と言われるのも、実には自らの性質を知ることに他ならないのじゃ。
自らの性質を見る故に見性と呼ぶのじゃ。

 それもまた難しいものではない。
 ただ今ここにある自らの性質を観察し、ありのままに認めるだけでよいのじゃ。
 その積み重ねがやがて自我にも気付く道になるのじゃ。

 姿形の無い自我を観るには、その働きや性質から観察するしかないのじゃ。
 自らの性質を否定も肯定もせず、ありのままに観察する実践が悟りを招きよせるのじゃ。

 お釈迦様が教え、インドから伝わった悟りを得る方法と聞けば、なにやら遠大なものと思うかもしれないが、何のことは無い自らの性質を観察して気付くというだけのものなのじゃ。
 それは知識の多さや記憶力が優れていなければ出来ないというものでもないのじゃ。
 むしろ真摯に一つの法を続ける事でも、気付きは起こるのじゃ。

 昔、しゅりはんどくという者が居ったのじゃ。
 自分の名前も忘れるというほどの鈍根の者であったが、お釈迦様に教えられ、心のちりを払う行をしていたのじゃ。
 ある日、心のちりを持つという性質のあるものが自分である思っていると気付き、悟りを得たのじゃ。
 それこそ煩悩即菩提というものじゃ。

 悟りの道を妨げる筈の煩悩やちりでさえ、自らの性質を知る手がかりになれば、却って悟りへの道となるのじゃ。
 記憶や知識によるのではなく、自らの性質を受け入れ気付く事でそれも可能になるのじゃ。

 自らの性質を知ることに勤めればこのように日常にも役立ち、終には悟りにも導かれるのじゃ。
 修業者のみならず、安楽を求める全ての者は自らの性質を知る事に勤めるのじゃ。
 
 
 
  


元気が出る説法 | 20:08:00 | Trackback(0) | Comments(8)
言葉とイメージの二重構造に気づくのじゃ。
  人が持つ自分の言葉とイメージには、自らの予定する行動も入っているものじゃ。
 良い言葉とイメージを持つ者には、良い行動をするという予定があり、悪い言葉とイメージを持つ者には、悪い予定の行動が入っているのじゃ。
 そのために人は福楽を願いながらも、自分を苦しめたりするのじゃ。

 例えば駄目な人間と親や周りの者に言われて、そのような言葉とイメージを受け入れてしまった者は、その言葉とイメージ通りに行動しようとするじゃろう。
 仕事とか勉強でも何をしても駄目になるとか、少しうまく行っても自分から駄目にしてしまうのじゃ。

 まれに成功したとしても自分で事件や事故を起こして、やはり駄目だったと自分の言葉とイメージを正当化してしまうのじゃ。
 そのような者は世間によくいるのじゃ。

 商売で成功しても法律違反をして刑務所に入ってしまう者とか、博士になったのにちかんなどをして逮捕される者とか幾らでもいるのじゃ。
 そのような者達も自分の言葉とイメージが、悪かったからなのじゃ。
 そのために言葉とイメージの通りに行動し、成功を失敗に変えてしまったのじゃ。

 そのような言葉やイメージも自ら受け入れているのであるから、自ら滅する事も出来るのじゃ。
 日頃から自分の心を観察し、自分が受け入れている言葉とイメージを良く知っていれば、そのような事も避けられるのじゃ。

 お釈迦様も心を浄めるのじゃ、とか、心を整えるのじゃ、と言っているのじゃ。
 心は観念によって働くものであり、観念は言葉とイメージで成り立っているのじゃ。
 観察によってそれは滅する事も出来るのじゃ。

 しかし、大抵の者は自分に悪い言葉とイメージを持っていても、それを自分で見ないようにしているものじゃ。
 自分から自分の言葉とイメージを隠し、無理に良い言葉とイメージを作るのじゃ。
 例えば意味も無く知識を蓄えて自慢したり、自分だけが他人の知らないことを知っているとか妄想したりするのじゃ。

 そのような二重構造の謬見で自らを苦しめているのじゃ。
 最初の自分が駄目な人間とかの言葉とイメージも、実際は謬見でしかないのじゃ。
 自ら受け入れなければ苦になる事も無いのじゃ。

 そのような者達は、自らの限界を知る者よりより大きな混乱があり、心を隠す習慣の為にそのような苦を滅する行も受け入れがたいものじゃ。

 先ずは自らの心にある劣等感や卑小感を認め、そのために過大な言葉やイメージを作り上げていたと、認めるが良いのじゃ。
 劣等感等も本当は観念妄想に過ぎないと、気づけばもはや自ら知識を自慢する事も無いのじゃ。
 
 集中と観察によって少しずつでも自らの心が観られれば、大きな混乱も収まってくるのじゃ。
 そのように修行者は真摯に心を見つめて励むのじゃ。


元気が出る説法 | 20:50:59 | Trackback(0) | Comments(12)
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