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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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知識に囚われてはいかん。
 さて、今日は知識に囚われた者達への教えじゃ。

 もともと知識人などは多くが、知識こそ自分であり、自我であると認識しておるものじゃ。
 それ故に知識を捨てろと言うと、自我が消されると思い、強く反発し、なんとか消されまいとして激しく抵抗するものじゃ。

 例えば禅の者は良師は全てを奪うと言う。 
 その全ての中に知識は入っていないと思うのじゃろうか。

 例えば空を知る者は、一切は空であると言う。
 その一切の中には知識は含まれていないのじゃろうか。

 そうではあるまい。
 真の良師なら、知識も含めて、自我を存立させる因となるものを、全てを奪うじゃろう。
 一切が空とは、知識をも含める全てが空であると言う意味しかない。

 それなのに知識を自分だと思い込んだ者は、知識だけは例外だと、思い込んで、このような矛盾にも気づかぬふりをしている。

 知識が自分だと認識している者にとっては、知識を捨てろとは、正に自分を捨てろ、己を殺せと言われるに等しい。
 それ故に捨て去られ、殺されようとする自我が、激しく抵抗をするのじゃ。
 
 全てを捨てろとか、一切が空であると聞いても、その知識をしまいこみ、却って知識を増やし、自我を強化しているのじゃ。
 知識は道具に過ぎないとか、知識と思考、分別は違うだとか、ありとあらゆる言い訳を考え出し、知識とその投射された自我を守ろうとする。

 知識が道具ならば、ペンチやスパナのように、本来捨てる事も、又拾う事もたやすい筈ではないか。
 必要なら改めて身に付ける事も出来る。
 全てを奪い、一切が空ならば、知識と思考と分別と、全てを奪い去らせ、一切を空とする以外に無い。
 

 しかし、知識が自分であるとする者は、決して手放そうとしない。
 知識だけは例外であり、手放してはならないモノと、執着するのじゃ。
 その激しく抵抗する姿こそが、知識に執着している何よりの証拠であるが、決して気づこうとはしない。
 気づいてしまえばそれを捨てなければならない。
 それは自分を捨てる事に等しい故に、恐怖を生じ、執着が生じているのじゃ。

 だが本当に真実を求め、ありのままに観察する者は観る事が出来るじゃろう。
 知識も又、他の一切のものと同じく、移り変わるものであり、陽炎のようなものであり、実体が無く、空であると。
 どんな知識も永遠には止まらない。
 記憶は薄れ、変化し、やがて消える。
 書き写したものでも、やがては消えていく。
 知識は仮想された現実の上での、仮想されたデータであり、実体は無い。
 夢や幻のようなものと変わらず、永遠にして普遍な実体は無い。

 そのようなものとして知識を観る時、知識とその執着から離れ、自我の生成を観照する準備が出来るじゃろう。
 そして、観察を続ければ知識を因として生じた自我が、観えるじゃろう。
 その時こそ恐れずに、全てを観るがいい。
 知識は己ではない、空であり、無我であり、ただ自我が投射している対象であると、完全なる了解が得られるじゃろう。
 更に進んで認識をも転換した時、完全なる悟りを得る事が出来るのじゃ。


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法Ⅳ自我解体 | 20:39:34 | Trackback(0) | Comments(11)
城の譬
 自我を観照する道はとても難しい。
 それというのも自我は人の心に大きく巣食い、固く根を張っているからじゃ。

 例えばそれは巨大な城のようなものとも言えよう。
 巨大な城には偽りという掘りが周囲を取り巻き、逃避という石垣が外壁を固め、自我を自分と思う誤った自己保存の兵が中に居て、殿様である自我の核を守っている。

 その城を落とすには先ず心の中から偽りの水を抜き、逃避の外壁を崩し、誤った自己保存の兵をなだめ、自我の核に辿りつかなければならないのじゃ。
 自分の心から偽りや逃避、誤った自己保存という自我を保存しようとするものを、解体していかなければ、例え中核に踏み込んだとしても、たちまちの内に再び偽りや逃避によって、自我は保護されてしまう。

 長い間修行してきた者は、恐らく一度や二度は、観照が起こっている筈じゃ。
 しかし、その度に恐怖を感じ、誤った自己保存の本能によって自我を破壊する観照から逃避し、隠蔽してしまうのじゃ。

 真の悟りを得ようとする者は、先ず偽りを捨て、逃避を止め、自我は真の自己ではなくイメージに過ぎないと知らなければならぬ。
 それらの障害を心から取り除く事で、始めて観察者に気付く事が出来るのじゃ。
 偽りも逃避も捨てて己の心を清める事が、真の仏道なのじゃ。 
 


悟りを得るための修行法Ⅳ自我解体 | 21:23:00 | Trackback(0) | Comments(0)
自我を解体するのじゃ。
 今回はある程度修行をした者に与える教えじゃ。
 長く修行をしているのに悟りを得られぬ者、心当たりの有る者は聞くが良い。
 未だ数息観をしている者や、ヴィパッサナーを始めたばかりの者は読まないでも良い。将来、修行が止まってしまった時に、参考にするとよい。

 さて、今世間にはわしが教えた物も含めて、さまざまなヴィパッサナーなとのやり方が伝わっておる。しかし、それらのやり方は実はヴィパッサナーではない。
 ヴィパッサナーをしやすくする為の技に過ぎないのじゃ。

 真のヴィパッサナーとは己を観察する事。
 長く修行しても悟りを得られないのは、観察をしているようでいて、実は観察をしていないからなのじゃ。
 観察するのに必要なのは、技ではない。

 勇気なのじゃ。

 己の心を勇気を持って観察する事が、真のヴィパッサナーなのじゃ。
 それが出来なければ永遠に悟りは得られん。

 人間の心は恐ろしい事や不安、嫌悪感、劣等感などがあるとそれらの感情から逃げようとする。逃げて見ないようにしたり、蓋をして忘れ様とさえする。
 それらの逃げが、心を観察する事を困難にしているのじゃ。
 それはもともと生き物に備わった本能じゃ。ゾウリムシでもミジンコでも、炙ってやると逃げていくように、人間も心に苦痛を感じると、それから逃げようとする。
 その動きが心の観察を困難にしているのじゃ。

 この逃避の働きが人の心に深く、深く根付いて行動の全てを支配しておる。
 このように書くと自分の心には逃避などは無いと、思う者もいるじゃろう。それが完全な逃避の姿じゃ。
 自分が逃避している事さえ自分に隠す、完全なる逃避なのじゃ。
 もともと仏門に入る動機が、何らかの恐怖や不安、孤独からの逃避であった場合、悟りを得るのは更に困難になる。
 悟りを得る為には、逃避してきた自分の心を観なければならないのだから。
 そのような者は仏門に入る動機から、掘り起こして観なければならないのじゃ。

 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
 と、自分自身に強く誓うのじゃ。

 そして坐るがいい。
 もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
 そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

 この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
 泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
 苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
 そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。

 修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
 何もかも観察するのじゃ。
 いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
 もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
 何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。

 そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、始めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
 そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
 何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
 その時が来るまで観察を続けるのじゃ。 


悟りを得るための修行法Ⅳ自我解体 | 21:20:41 | Trackback(0) | Comments(14)

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