投稿日:2009-04-01 Wed
今回は苦と観察について話すのじゃ。人を苦しめるものの本体は何かと言えば、それは阿頼耶識による繰り返し起こる一連の連鎖反応と言えるかもしれん。
苦は因により、縁によって、何度も繰り返し起こり、止めることが出来ず、増大していくものなのじゃ。
それは今、ここにある現実を見る事が出来ず、過去の記憶による認識がそうさせておるのじゃ。
例えば死の苦、死苦というものがある。
死というものは現実にあるものであるが、生きている限りは誰もまだ経験した事がない。
経験したことが無いにも関わらず、人は死を慮り、それを苦にしておる。
死苦の本体は死そのものではなく、過去の記憶から構成された、死に対する不安や恐怖を伴う言葉とイメージに過ぎないものじゃ。
それが繰り返し起こり、止められず、増大する故に死は苦となる。
人が何らかのきっかけで個我の消滅という推測や、他人からの情報などによって死に対する恐怖や不安を抱くと、それが記憶され、関連性のあるものを見たり聞いたりする事で、なんどもその不安や恐怖が甦る。
認識そのものが記憶に依存している故に、人はそれを止められない。
止められないから何かに逃避し執着する事で忘れようとする。
すると執着するものを得られないという苦や他者との争いという苦が、次々に起こる事になる。
このようにして人は苦を繰り返し味わい、止められず、苦が増大して行く人生を送る事になるのじゃ。
病や貧困による苦も世の中にはある。
それらは今、ここにおいてあるものと思う者もいるかもしれん。
しかし、それらも又、個我というものに執着し、その消滅する不安や恐怖と結びついているのじゃ。
例えば病による痛みは今、ここにあるものじゃが、それは本来体に備わった、警報に過ぎないものじゃ。
体のどこかに不具合があれば、体は痛みという警報装置で教えてくれる。
痛みはただの警報であり、それが体を傷めるものではない。
意志によって気にならなくする事も出来る。
しかし、痛みが起こる度に、肉体が壊れるのではないかとか、昔は痛まなかったとか、 早くもとのようになりたいとか、何度も繰り返し思い、それを止められぬ故に、病による痛みは苦になるのじゃ。
貧困も腹が空き、餓えるものじゃが個我に囚われなければ、苦になるものではない。
もっと金が欲しいとか、恥だとか、金があればと思う心が苦を作り出す。
そのような心の仕組みは全て記憶による認識である、阿頼耶識によって成り立っておる故に、繰り返し表れ、止められず、増大する性質をもっているのじゃ。
そしてそのような苦に自分のイメージである自我を投射している。
苦が我であると想い、執着し、離れようとしない事が更に苦を増しているのじゃ。
例えば人が自動車事故などに会い、恐怖を味わったとしよう。
その記憶は心に残り、自動車とか車に関係するものを見たり聞いたりする度に、表れ出る。
その記憶の連鎖は止められず、恐怖そのものを恐れ始める。
恐怖から逃れる為に車を見ないように外出を避けたり、思い出すものを目に付かないようにしたりと、さまざまに苦を増やしつづける。
そして、そのような苦を己だと想い、執着し、離れず、苦であると認めようともしない。
これが多くの人間の陥っている現状なのじゃ。
このような苦の連鎖を止めるには、観察をするのじゃ。
観察によって記憶の連鎖は止まり、客観視する事で自己同一化が解消される。
このような過程は厭離と呼ばれる。
観察によって観察するものと観察されるものとの間に、狭間ができるのじゃ。
観察されたものは外部のものとして認識され、自己同一化が終わる。
そしてその仕組みが全体として把握される時、あたかも種のわかってしまった手品のように、もはやそれは苦として恐怖や不安の対象ではなくなり、いらないものとして処理されるのじゃ。
このように今、ここにある苦の表れと、原因と、逃避する行程を全て観察する事で、苦は止める事が出来るのじゃ。
観察は今、ここにあるものを観る行為であるから、過去の記憶に惑わされず、干渉を受けないのじゃ。
とは言っても最初のうちはやはり観察をしていても、つい記憶に釣られてしまうとう事もあるじゃろう。
しかし、集中と共に修行していく事で、観察は上達し、記憶に煩される事が無くなる。
十分に修行した者なら、個我の成り立ちを観察し、あらゆる苦を消す、観照が起こる事もあるじゃろう。
全ての苦を消すまで、みんな精進するのじゃ。
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投稿日:2009-04-28 Tue
観察と知識は違うものじゃ。観察とは、知識を得るためにするものではない。
知識を得ても苦が滅しない限り、観察を続けなければならんのじゃ。
例えば昔、お釈迦様が居た頃にキサーゴータミーという母親が息子を無くしたそうじゃ。
キサーゴータミーはお釈迦様に生き返らせてくれと頼んだ。
するとお釈迦様は、
「この子を生き返らせるには、今まで死者の出た事の無い家から貰った水が必要だ」
と、言われた。
そこでキサーゴータミーは家々を周って、聞いてみたが、どの家も死んだ人が居ると答えるばかりじゃった。
とうとう死者の無い家は見つからなかった。
しかし、キサーゴータミーの苦は消えておったという。
やがてキサーゴータミーは、出家して尼になったそうじゃ。
キサーゴータミーも人は死ぬものであり、死んだ者は生き返らないと知ってはいたじゃろう。
どのように苦しんでも無駄とわかっていても、知識では苦は去らない。
繰り返し観察する事によって、苦は始めて滅するのじゃ。
この話は観察によって苦が無くなる過程を良く表しておる。
お釈迦様は子供が生き返らないと知って居ったが、キサーゴータミーの苦を無くすために死者の無い家を探し回らせ、他人の苦を観察させたのじゃ。
修行者ならば修行によって得た集中力で、己の苦を観察できたじゃろう。
しかし、そのような力の無いキサーゴータミーの為に、方便を使って他人の苦を観察させるようにしたのじゃ。
このように愛する者を無くした苦は、愛別離苦と呼ばれるものじゃ。
愛する者を無くし、その悲しみが何度も繰り返し起こり、自分では止められない、恐ろしい苦じゃ。
現代でも癌やうつ病などの病気になる者は、近親者が死んだりした者に多いと言う。
無くなった愛する者の残した着物を見たり、同じような年頃の者を見たりするたびに、苦しみは繰り返し起こったじゃろう。
そして過去にこのようにして置けば良かったとか、今ここに居ればどんなに良いだろうかとか、思うたびに苦は増大していく。
悲しみ自体は自然な反応であり、苦ではないが、それが記憶による認識の不備により、何度も繰り返し起こり、止められず、増大していく事が苦になるのじゃ。
そのような苦も、縁によって起こり、苦に終わる結果を観察されれば消え行く。
キサーゴータミーが家々を廻り、死者はないかと聞けば、それによって家の者に苦が起こる事もあったじゃろう。
そのように聞くと言う縁によって、悲しみが起こり、苦しむ家の人の姿を見る事によって、己の苦もこのようなものであると、全体を観察する事が出来た。
そして苦は客観化され、己との同一化が解消され、滅して行ったのじゃ。
このように他人の苦を観察する事によっても、苦は無くなる。
しかし、そう都合よく己と同じ苦を抱える者が近くに居るはずもない故に、己を観察する以外に無いものじゃ。
苦が縁によって起こる所を、因によって生じる事を、結果として苦がはびこり、逃避や隠すという行為が起こる事を、全て観察すれば、必ず苦は消える。
そして全ての苦が拠って起こる因である、己と言うものが観察できたならば、全ての苦が消える悟りを得る事も出来る。
それまで実践あるのみじゃ。
投稿日:2012-02-29 Wed
苦を滅するための瞑想で、原因が無いと観想しても原因が無くならないと、思う者が居るようじゃ。苦を滅するために、原因が無いと観想するのは、その原因を無くすためではないのじゃ。
それは苦を滅するために、原因が無いと想うだけなのじゃ。
その原因が無かったらどのようになるかと、心の中で想い、心の反応を観察するのじゃ。
例えば手にりんごを持っていたとして、それが無ければどうなるかとか想うとする。
りんごが無ければ、手にかかる重みが無いじゃろう。
冷たい感触とか、匂いも無いじゃろう。
そのようにもし無かったらどのようであるかと想い、その反応を観察するだけでよいのじゃ。
原因がその観想により無くなるのではないのじゃ。
原因の記憶はありつづけるじゃろう。
しかし、そこから次々に起こる苦の反応が滅するのじゃ。
例えば親にぶたれたとかの記憶から他人への過度の依存が起こり、満たされぬと、そこからの逃避として酒や薬にまで依存するようになると言うような反応があるとしよう。
原因から観想して反応が完全に観察されれば、原因となった記憶は残っていても、その原因から起こる他人への依存や満たされぬ苦や、そこからの逃避としての更なる依存などが起こらなくなるのじゃ。
そのように順逆から観想する事で、苦の反応がよく観えて来るのじゃ。
観察された苦の反応が、自我の投射を離れ、その苦が己ではなく、己のものでもないと気づきが起こり、厭離に至るのじゃ。
何度も実践すれば、その微妙な働きがわかって来るじゃろう。
修行者は良く実践し、速やかにあらゆる苦を滅して進むのじゃ。
テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体
投稿日:2019-02-02 Sat
お釈迦様がこの世は一切皆苦と説かれたように、今も多くの者が苦しんでいるじゃろう。
その苦にもまた多くの種類があるものじゃ。
金が無いのに苦しむ貧窮困苦
愛する者と会えなくなる愛別離苦
怨み憎む者といがみあう怨憎会苦
欲するものが得られない欲求不得苦
そして万人が避けられない老病死苦等と人はさまざまな苦に悩まされるものじゃ。
それらの苦を滅するには苦を生み出す自らの心の働きを、完全に観察しなければならないのじゃ。
心を観ることから逃避していれば苦はいつまでも起こり続けるのじゃ。
苦とは心から起こるものであるからなのじゃ。
貧窮困苦などは環境の要因であるから、心から起こるのではなく、心を観てもどうにもならないと想う者もあるかもしれん。
しかし、貧窮も実際はそれを苦にする者の心からあるものなのじゃ。
金が無いことへの不満とか、将来への不安とか、金に執着する心が苦になるのじゃ。
それらがなければ貧窮も苦ではないのじゃ。
そのような苦を心の中にはっきりと観て、原因からも観察する事で苦はなくなるのじゃ。
誰かが苦を持っていてそれが完全に解消するということがあったならば、それは心の中の苦を見る事ができたからなのじゃ。
それ以外に苦がなくなることはありえないのじゃ。
環境が変ることで苦は一時的に感じなくなることも在るのじゃろう。
しかし、その場合は苦をもたらした環境に戻ればまた苦が感じられるようになってしまうのじゃ。
苦を完全に解消するには、自らの心の中にある苦をはっきりと観る必要が在るのじゃ。
とはいえ心をどのように観察すればよいのかと、疑問に想う者もいるじゃろう。
そのためにお釈迦様は縁起の法を説いたのじゃ。
人の心は刺激に対して同じ反応をするように出来ているのじゃ。
そのために同じ原因からは同じ苦が何度も起こるのじゃ。
それを自己同一化している故に、苦は自分のものとして人を悩ませるのじゃ。
観察して自己同一化がなくなれば、苦は自分のものではなく、悩むこともなくなるのじゃ。
それが観察によって苦が無くなる理由なのじゃ。
要は観察すればよいのであるから縁起の法だけでなく、さまざまな方法で苦を滅することも出来るのじゃ。
最近の心理学でもいろいろな方法で心を観ることができるようになっているのじゃ。
どのような方法でも人が真に苦から逃れることが出来るのは、苦を生み出す心の中をありのままに観たことによるものであると知るがよいのじゃ。
今苦を抱えている者は自らの心をありのままに受け入れ、観察して苦を取り除くと善いのじゃ。
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