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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自分の本心を認め受け入れるのじゃ。
 心の観察は先ず本心を受け入れ、認める事から始めなければならんのじゃ。
 本心とは自らの偽らない心なのじゃ。
 自分の心を偽っていては、観察にはならないのじゃ。
 
 例えば本当は心に恐れがあるのに、恐れていないと偽れば、恐れはいつまでもあり続け、滅することも無いのじゃ。
 その恐れによって行いも制限され、修行も止まってしまうこともあるものじゃ。
 
 日常生活に於いても、本当は疲れているのに疲れていないと自分を誤魔化せば、疲れをとることもできず、いずれは倒れてしまうのじゃ。
 疲れている時には疲れていると認め、受け入れることで疲れを癒すことも出来て、倒れることもないのじゃ。
 
 今の自分の本心を認め、受け入れることで現実に対応できるようになるのじゃ。
 本心を認め、受け入れないならば現実に目を背けて、観念遊戯に浸っていることになるのじゃ。
 それではいつか破綻することは目に見えているのじゃ。

 本心を認めようとしない理由には、幾つかの理由があるものじゃ。
 恐れから認めないものも居るじゃろう。
 恐れがあれば逃避があり、本心から逃げ続けるのじゃ。

 今まで弱音を吐かず頑張ってきたからという習慣によるものもあるじゃろう。
 ただの習慣により、本心を認めない故に苦しみ続けるのは愚かなことじゃ。

 或いは本心がわかってもどうしようもないからと諦めからの理由もあるじゃろう。
 自分が疲れたり、恐れているのを認めても現状が変るわけではないからと無理に本心を認めないようにしているのじゃ。

 他にも意地になっていたり、自分に怒りを感じているからとかの理由もあるじゃろう。

 それらの理由により、本心を認めなければ苦は続き、いずれ破綻することもあるものじゃ。
 時に人は本心を認めない故に一生、苦を抱えて生きることもあるのじゃ。
 ただ本心を認め受け入れるだけで消えていく苦を、死ぬまで抱えていくのは愚かなことじゃ。

 どのようなものであろうと本心を受け入れ、認める覚悟をすれば、それらの理由をも超えて本心が観られるものじゃ。
 そして観察によってどのような苦も滅していくことができるのじゃ。
 無意味な理由で長く苦しむことが無いように、全ての者は自らの本心を認め、受け入れて進むがよいのじゃ。
 


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苦滅の道実修 | 20:26:44 | Trackback(0) | Comments(4)
苦を認めるのじゃ
 お釈迦様はこの世を一切苦と説いたのじゃ。
 その通りこの世に生きる者は多くの苦を抱えておる。
 しかし大抵の者はその苦に対して一つの対処しかしておらん。

 それは苦から眼を背けて逃避したり、無い振りをする事なのじゃ。
 そのような対処は苦を増大するばかりで、少しも和らげる役には立たないものじゃ。
 苦から逃避すれば他に執着するものが生まれ、その為に余計に苦を受けるはめに陥るのじゃ。

 例えば苦から逃避するためにギャンブルや薬に嵌れば、ますます苦しくなるようなものじゃ。
 そのように極端な例ではなくとも、多くの者が苦からの逃避により、新たな執着を生み出し、苦を増やしているのじゃ。
 自分に今苦があることを認め、受け入れなければ苦は増大し続けるばかりなのじゃ。

 そのようにして苦を認めないと、何が苦しいのかすらも判らなくなるのじゃ。
 何も判らないのに何故か生きるのが辛いとか、何やら不安があるとかで自ら生きる事を断念する者まで居るじゃろう。
 自らの苦から逃避し続ければそのように、迷いも起こるのじゃ。

 それも苦から連鎖する縁起がある故なのじゃ。
 苦があれば人はそれを自分であり、自分のものと思う。
 そしてこれからもその苦と共に生き続けると、認識してしまうのじゃ。

 そうであるからこれからも苦があると思い、生き続ける事も辛いと思うのじゃ。
 過去の苦を未来に投射して、これからも苦のある生活を不安に思うのじゃ。

 そのような苦に対する正しい対処は、苦から逃避せずに受け入れ、それを認め観察する事なのじゃ。
 人に苦があるのは当然のことであり、当たり前なのじゃ。
 誰もが苦を持っているのじゃ。
 ただしい対処を知らないから見ないようにして、益々苦を増やしているのじゃ。

 自らの苦を認め、それを観察すれば苦はなくなるのじゃ。
 そして苦から逃避する為に起きた苦もなくなる。
 更に苦をこれからも受け続けるという不安などもなくなるのじゃ。

 そのようにしてただ一つの苦が無くなるだけでも心は安楽になり、住んでいる世界さえも変わって見えるのじゃ。
 知識として知るだけでは苦は消えないのじゃ。
 苦が自分にあると認め、その心を観察することで苦は消えるのじゃ。
 苦を持つ者は自らの苦を認め、観察を実践する事で安楽に生きるのじゃ。


苦滅の道実修 | 12:38:47 | Trackback(0) | Comments(8)
苦を滅する法のまとめ
  お釈迦様の教えられた苦を滅する法を、出来るだけ優しく解説するのじゃ。
 先ずは全ての法の基本となる止観の法を修行しなければならん。
 止観の法も実は難しくは無いのじゃ。

 要するに心を落ち着かせて、心を観察する方法と言うだけなのじゃ。
 心にある苦を観察するのに、一々苦しんだり悲しんだりしていては、観察が出来ないから、心を落ち着けて観察し易くするのが、止の行なのじゃ。
 数息観などの心を集中させて、雑念に悩まされないようになり、心が落ち着いて観察できるようになれば、止の行は完成なのじゃ。 

 詳しくは数息観のやり方の記事を見るのじゃ。
 そして観察の基本観察の本行も参考にすると良いのじゃ。

 心を観察するには何よりも、自分に正直であらねばならないのじゃ。
 自分の心に嘘をついていれば、何時までも本当の心の観察は出来ないものじゃ。
 特に苦や苦の原因を観察しようとする時、本当は苦しいのに自分は苦しんでいないとか、本当の原因を避けていては、苦も滅する事が無いじゃろう。

 苦を滅する修行は誰かに見せる為のものではない故に、自分には自分の心の全てを正直に見せるのが肝心なのじゃ。

 心を落ち着かせたら、先ずは苦がどのようなものであるか、観察しなければ成らないのじゃ。
 基本の手を観察する時のように、出来るだけ客観的に自分の苦がどのようなものであるか観察するのじゃ。

 仏教では苦を愛別離苦とか怨憎会苦などと色々に分類しているが、それらはあくまで参考にすべきものであり、人は各々が自分の苦がどのようなものであるか、観察して見出さなければならないのじゃ。

 苦がどのようなものであるか判ったら、次は苦の原因を追求するのじゃ。
 それも観察によって、何が原因なのか自ら見出さなければならないのじゃ。

 同じような苦でも原因は一人一人違っていたりするものじゃ。
 例えば愛する者と別れた愛別離苦であっても、ある者は執着が原因で苦しみ、別の者はプライドが傷ついたのが原因で苦しむという事もあるじゃろう。

 そのような原因を自ら観察して、見出さなければならんのじゃ。

 苦を滅する法に於いて一番大事なのは、この原因を探す事なのじゃ。
 本当の原因さえ判れば、後は観想し観察するだけで苦は必ず滅するのじゃ。
 人によっては原因が判っただけで、苦が滅する事もあるのじゃ。

 それ故に苦の原因を探す事に、最も注意しなければならないのじゃ。

 苦の原因は人が心の中で最も避けていた事や、観ないでいようとしていた事である事もある。
 一番辛い記憶がやはり苦の原因になっていたりするものじゃ。

 原因が判らない時には苦を観察しながら、様々な原因を思い浮かべ今の苦が最も強くなるものが原因と理解できるじゃろう。
 又一つの苦が複数の原因より起こる事もある。
 そのような時には一つ一つの原因について、次の縁起による苦の観察を行うが良いのじゃ。
 
 苦の原因を思い浮かべ、苦が起こる事を観察する。
 その苦の原因が無いとイメージして、苦も消える事を観察するのじゃ。

 このように順逆に観察する事で、苦は自己同一化を離れ、滅していくのじゃ。
 もし滅しないのであれば、それは原因が間違っているか、あるいは複数の原因がある可能性があるのじゃ。

 そのような時にはさらに原因を探し、一つ一つの原因に対して、順逆に観察して行くのじゃ。
 そうすれば苦は必ず滅していくじゃろう。


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苦滅の道実修 | 21:42:41 | Trackback(0) | Comments(22)
苦を滅する法
  苦を滅する法をくわしく解説するのじゃ。
 大体、このような順番になるのじゃ。
 

 ① 正しく心を観察する 

 ② 苦の原因を見つける。

 ③ 原因から苦が起きると観察する。

 ④ 原因が無くなれば苦は無いと観察する。


 ① 正しく心を観察する。

 先ず最初に数息観などを行い、心を集中するのが良いのじゃ。
 そして心を観察する事を学ぶのじゃ。

 心の現われは体の反応となって起きるものじゃ。
 興奮すれば心臓が早くなる。
 悲しければ喉が詰まり、みぞおちの辺りが苦しかったりもするじゃろう。

 そのような反応によって心が動いている事も知れるのじゃ。
 観察すればそのような反応が起きると判るじゃろう。
 それによって観察が出来ていると知る事もあるのじゃ。


 ② 苦の原因を知る。

 苦を滅するには、その原因を追求しなければならんのじゃ。
 
 苦の原因は大抵が執着や孤独や不安や恐怖などじゃ。
 過去の経験や誰かに言われた事に囚われていても、それが苦になったりするのじゃ。

 そのような原因を正しく知る事で、苦を滅する事が出来るのじゃ。


 ③ その原因から苦が起きると観察する。

 原因が判ったならば、実際に心の中を観察し、苦が生じる状況などを思い浮かべて苦が原因から生じる所を観るのじゃ。
 この時、体にも反応が現れるじゃろう。
 反応が無くなれば苦もまた無くなるのじゃ。

 ④ その原因が無ければ苦も無いと観察する。

 さらにその原因が無くなり、苦も無いという状態を思い浮かべ、心の動きを観察するのじゃ。

 これによって原因から起こる苦の連鎖が、はっきりとわかり、気づきによって厭離が成されるのじゃ。

 人はそのような原因から生じる苦の連鎖を己のものと投射しているものじゃ。
 この二つの観察によって、それが己のものではないと気づき、厭離されるのじゃ。


 こうして何度も行えば、いかなる苦も滅するのじゃ。
 
 例えば病気によって苦しんでいても、それは実はもとの健康な体になりたいとかの執着によるものが多いのじゃ。

 必ず人に訪れる死も、体に執着がある故に苦になるのじゃ。
 心に苦が無ければ死もまた楽しいのじゃ。

 これがお釈迦様の教えられた苦を滅する法なのじゃ。

 全ての者はお釈迦様の教えられた通りの法によって苦を滅し、楽しく生きるが良いのじゃ。


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苦滅の道実修 | 19:13:24 | Trackback(0) | Comments(24)
劣等感
今、多くの者が苦しめられている劣等感と言うものがあるのう。
背が低いとか、鼻が低いとか、学歴が低いとか、あるいは特に理由も無く他人よりも劣っていると、思い込んで苦しんでおる。
 そのような劣等感も実は心の作用であり、心の中にあるものであり、観察によって滅する事が出来るのじゃ。

人は自分は背が低いとか、鼻が低いとか、学歴が低いとか、そのような事で悩むが、実は背が高い者は背が高いことに悩み、鼻が高いものはそれに悩み、学歴が高い者もそれについて悩んだりしているのじゃ。

 日本の美容整形では低い鼻を高くしてくれという客が来るが、西洋の美容外科には高い鼻を低くしてくれという者が来たりするという。
 背が高い者も、低く見られるようにわざと、わざわざ肩を落としてあるいたりするという。

このように背が低かったり、鼻が低かったりするのも、相対的なことであり、それが他人と比べて、絶対に劣っているという訳でもない。
ただ人の心の中にのみ、自らの外見や条件を以って、他人よりも劣っていると言う観念があるのじゃ。

劣等感が心の中にあると、他人の言葉が全て自分を批判するように思えたり、自分の観念に固執して離れられず、真実が見えなくなったりするものじゃ。
それも己の弱さを隠そうと防御する反応から来るものじゃ。

そして自らを弱いと思う事も認めず、強く見せかけるために、他人への攻撃をえんえんと繰り返したりする。
実際は弱いと言う感覚さえも、謬見ではあるが。
偽りでしかない弱さを隠すために観念にしがみつき、観念を守るためにさらに攻撃を繰り返す。

このように心に劣等感があれば、攻撃的になり、自らの心の中を観察するのが困難になり、誤った観念に囚われ、真実を追究するのも、修行するのも困難になってしまうものじゃ。

弱さを隠すために行動し、今まで生きてきた人間が、己の弱さをあらわにする心の観察をするには、よほどの決意と努力が必要になるじゃろう。
しかし、一度、それを決意して自らの弱さを認め、それをあらわにしようとすれば、もはや劣等感もやがて滅する。

自らを劣っているとする思いがどこから来るのか、過去の記憶からか、他人の言葉からか、あるいは何らかの体験から来るのか、先ずは原因を見つけ出すのじゃ。

そして、その原因から自らを劣っていると言う思いが起こり、自らが劣っていると言う思いから、弱さを隠す防御反応が起こると、観察するのじゃ。

その原因が無ければ、自らを劣っていると言う思いが無くなり、自らが劣っていると言う思いが無ければ、弱が無く、防御反応も起こらないと観察する。

そのように順逆に正しく観察すれば、劣等感が消え去る。

それが無くなった時、劣等感は心の中にのみあり、外見などは関係が無かったと、気づく事が出来るじゃろう。



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苦滅の道実修 | 20:22:48 | Trackback(0) | Comments(10)
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