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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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全てを観察するのじゃ。
 修業のために心を観察しようとする時は、体になにか動きがあればそれも観察するべきなのじゃ。
 今は心を観察しているから、体の働きは観察しないでおこうとか思わなくてよいのじゃ。
 今ここに起こる事を注意深く全て観察するのじゃ。
 それでこそ観察は完全になり、自我も観られるのじゃ。

 例えば心を観察してお腹に反応が有るとか、喉がしめられるような感じが有るとか、そのような肉体の反応も全て観察すると善いのじゃ。
 それもまた心の反応とも呼べるのじゃ。
 心と体は完全に離れている訳ではないからなのじゃ。

 心の動きはからだの反応としても現れるのじゃ。
 心身は一つのものであるからそのような反応があっても当然なのじゃ。
 それを無視していれば観察も不完全になってしまうのじゃ。

 肉体を観察していて心に反応が有る事も珍しくは無いのじゃ。
 肉体の記憶が心にも反映されるのじゃ。
 例えば昔、転んで怪我をした傷を観察すると痛い想いが蘇ってくるとかのう。
 
 そのような心の反応も肉体を観察する時に観るとよいのじゃ。
 
 つまりは今ここで起こる全ての反応を注意深く観て、受け容れ、認識することが大事なのじゃ。
 観察している時の心身の全ての反応に注意していれば、観察力も高まるのじゃ。
 
 自我も認識対象への主体の投射として現れるものであるから、そのように全てに注意して観察していれば観察できるようになるのじゃ。
 観察から余計なものを排除しようとすれば、自我も観えないのじゃ。
 それは観察しようとする主体の観念であるから観察対象からは外れてしまうのじゃ。
 自我は観察対象外の働きとして見過ごされているのじゃ。

 しかし、常日頃から観察領域を広げていれば、それも観察対象のうちに入れることが出来るのじゃ。
 常に全てに観察を加え、注意深く全てを観ようとすれば、主体の観念が働くところも観られるようになるのじゃ。
 全てを観ようとすれば主体も全ての内であるから観られるのじゃ。

 観察によって何を観るのかと、思い煩うことは無いのじゃ。
 全てをありのままに観るのじゃ。
 それでこそ悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 

 


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悟りを得るための修行法 | 21:53:25 | Trackback(0) | Comments(0)
逃避を滅するのじゃ。
 大抵の者は恐れや不安等から日常的に逃避しているものじゃ。
 何か恐れや不安の対象があれば、それから目を逸らし、別の対象に耽溺することで観ないようにしているのじゃ。
 数々の娯楽や時には薬やギャンブルや犯罪などもその逃避の対象となるのじゃ。

 人がそのような悪習をなかなかやめられないのも、それが恐れや不安等からの逃避であるからなのじゃ。
 例えば道に蛇が居てそれを恐れて逃避していれば、いつまでも目的地には着かないのじゃ。
 蛇を恐れて逃避して娯楽に耽溺していれば、そのまま一生目的地にはつかないで終えるじゃろう。

 更に逃避していることを認めないで、朝は眠いからとか、夜は日が暮れたからとか逃避したことをも逃避して認めないならば、どんどん欺瞞が心に積もっていくのじゃ。
 そのように自分を誤魔化していれば、本心を観ることも出来ないのじゃ。

 修行者にもそのような逃避はあるものじゃ。
 自分の心の中の恐れから逃避して、修行が進めなくなるのじゃ。
 自分が無くなる恐れや常識から外れるのではないかという恐れ等、さまざまな恐れからの逃避が障害となるのじゃ。

 恐れから本心を観ることから逃避し、逃避したことも誤魔化してしまうのじゃ。
 終には自己欺瞞と傲慢の故に修業もやめてしまうのじゃ。
 多くの修行者がそのようにして悟りへの道から脱落して行ったのじゃ。

 そのような恐れも観察によって無くすことができるのじゃ。
 逃避しないでいようとか、逃避はやめようとか思わないでよいのじゃ。

 ただ自分が逃避している事に気付き、恐れが原因であることを観察できればよいのじゃ。
 逃避はその瞬間に消滅するのじゃ。
 人が不要になった荷物を手放すように、恐れと逃避は自然に消えるじゃろう。

 勇気を持って自分の逃避を観察しようとする以外に何も必要は無いのじゃ。
 今まで逃避し続けてきた習慣を変えようとするのは、勇気がいるものじゃ。
 しかし修行者は勇気を奮い起こして恐れに目をむけ、逃避を観察するのじゃ。
 そうすれば障害はなくなり、悟りへの道を進んでいくことも出来るのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 21:23:59 | Trackback(0) | Comments(2)
集中法
  最近はマインドフルネスとか、気付きの瞑想について書かれた本などを善く見るようになったのじゃ。
 自分に気付くのはよいことであるが、それを実行しようとしても大抵の者が失敗するじゃろう。
 本に書かれている通りに自分を見ようとしても、五分後には別のことを考えていたりするものじゃ。

 それも集中力が無いからなのじゃ。
 集中力が無ければ観察も上手くいかず、心は雑念に巻き込まれてしまうのじゃ。
 集中力を養う修行も必要なのじゃ。

 数息観などはこのブログの記事にも書いてあるが、それが苦手という者も居るじゃろう。
 そのような者は心臓や眉間などに集中するとよいのじや。
 今回はそれを詳しく書くのじゃ。

 先ずは眉間に集中する方法なのじゃ。
 両目の間、少し上のほうに眉間はあるのじゃ。
 文字通り、眉と眉の間なのじゃ。

 そこに意識を集中するのじゃ。
 しかし、集中する時に注意しなければならないのは、視線を眉間に強く向けないことなのじゃ。
 眉間に視線を向けるとより目になり、普段使っていない筋肉や神経が疲れて頭痛がしたりするのじや。
 それを避けるために視線は一メートル位先を見るようにして、意識だけ眉間に集中するのじゃ。
 
 なかなか難しいが慣れれば出来るようになるのじゃ。
 五分ぐらいするとよいのじゃ。

 次は胸に集中する方法なのじゃ。
 胸の真ん中のみぞおちより少し上に心臓はあるのじゃ。
 そこに意識を集中するのじゃ。
 
 この集中にもあまり視線を向けてはいかんのじゃ。
 人間は自分が意識を向けたところに視線を向ける習慣があるからなかなか難しいが、日々続けていれば出来るようになるのじゃ。

 胸に集中していると安心感が出てくるじゃろう。
 人によっては体が熱くなったり、手が熱くなったりする者も居るじゃろう。
 それらの反応に囚われずに、ただひたすら集中するのじゃ。

 集中が強くなれば自分がそこにいるような感覚にもなるのじゃ。
 今まで体全体が自分であり、眉間や胸に集中していたが、自分が小さくなって集中している所に居て、体全体をみているような感覚なのじゃ。
 それは集中によって対象と一体になった感覚なのじゃ。
 それにも囚われずに続けるのじゃ。

 更に集中すれば集中と集中するものを見ている意識に気付くじゃろう。
 自分が自分の体から離れて見ているような感覚なのじゃ。
 それは感情や思考が無い無念夢想の意識なのじゃ。

 そのような意識に到達して初めて何の動揺も無く、自分の心が完全に観察できるのじゃ。
 そこまで集中が高くなってから自分の心を見るようにするのじゃ。
 そうすれば心の葛藤や逃避などもありのままに受け入れ、観察することが出来るのじゃ。
 そして自分を変えることも容易に出来るようになるのじゃ。

 ただ単に自分を観察するより、余計に手間がかかるように思えるかも知れんが、実はこのように集中力を身につけてから行うほうがより近道なのじゃ。
 マインドフルネスとか気付きの瞑想で何の効果も無かったという者も、ちゃんと集中力を見につけてから行えば、効果もでるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 15:39:52 | Trackback(0) | Comments(4)
一法専念
 悟りへの道はただ一つではなく、かなり多くあるものじゃ。
 お釈迦様が直接説いた止観でさえ、集中と観察にそれぞれ幾つもの方法があるのじゃ。

 観察の方法には、四諦があり、それに関連して因縁を観る方法があり、他にも五蘊を観る方法や、感覚とその世界を観る方法などもあるのじゃ。
 集中にも数息観の他に、色彩を周囲に観想する方法や、胸や眉間に集中する方法などがあるのじゃ。

 お釈迦様が説かなかった方法にも空を観想する方法や、真言を用いる方法や、神仏との一体化を観想する方法もあるのじゃ。
 マハリシが説いたような自分とは何か、直接に追求する方法も悟りへの道と言えるのじゃ。

 しかし、多くの方法があっても全て行う必要は無いのじゃ。
 それらの方法は修行者が自らに合ったものを選び、その一つを続けていくことが大事なのじゃ。
 自分に合った方法がわかり、一つの方法に決めたならばそれに専念し、他の方法には心を移さないようにするのじゃ。
 ただ一つの自分に合った方法を続けた方が、進歩は早く、高い境地にいけるのじゃ。

 例えば山に登るのにいろいろな道があるが、一つの道をひたすら辿って行けばやがて頂上に着けるようなものじゃ。
 途中でその道を外れて他の道に行けば、一番下から上り直すことにもなるのじゃ。
 今まで上ってきた事は帳消しになり、また最初から上らなくてはならないのじゃ。
 
 修行者が今まで行ってきた法を止めて、別の方法を行ったりするのも同じ事なのじゃ。
 今までやってきたことは帳消しになり、最初からやり直すことになるのじゃ。

 一つの方法に専念すれば、次第にそれに習熟し、技も上達して、自らの心も知り尽くすことが出来るのじゃ。
 いつまでもあれこれと別の方法ばかり探していれば、技も上達せず、心も観えないのじゃ。

 例え才能は無くとも一つの方法を根気よく日々続けることで、悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 昔、シュリハンドクというあまり頭のよくない僧がおったのじゃ。
 あまりに物覚えが悪く、兄にも見捨てられるような者であったが、お釈迦様が教えたただ一つの方法を続けることで、悟りを得て十六羅漢の一人にも数えられる目覚めた者となったのじゃ。
 そのように物覚えが悪く、才能も無くとも日々一つの方法を続けることで、悟りも得られるのじゃ。

 そして一つの方法に通暁すれば、他の全ての方法にも通じるようになるものじゃ。
 一法は万法に通じ、万法は一法に帰すというのじゃ。
 一つの道から登って山の頂上に立てば、全ての道が見渡せるようなものじゃ。
 一つの道によって悟りを得れば、全ての法を説く事もできるのじゃ。

 修行者は自分に合う方法を決めたならば、その道を一筋に精進することで最も速やかに悟りを得られるのじゃ。
 そのように一つの道を辿って日々精進あるのみなのじゃ。
  


悟りを得るための修行法 | 12:09:06 | Trackback(0) | Comments(4)
更に徹底した観察をするのじゃ。
 お釈迦様の説いた法は集中の他には多くが観察の法なのじゃ。
 あらゆる方法で徹底した観察をすることこそ悟りに向かう方法なのじゃ。

 縁によって起こる心の働きを観る縁起の法だけではなく、さまざまな方法をお釈迦様は教えているのじゃ。
 五蘊によって心身を観察するのもその方法の一つなのじゃ。
 別に身受心法の四つに区別して観察する方法もあるのじゃ。
 特に明確にこれらの法に名を付けているのではないが、それぞれ別の方式によるのは確かなのじゃ。

 或いは又目などの感覚器官と視覚などの感覚を十二の処にわけて観察するものもあるのじゃ。
 更に感覚の世界を足して十八処の観察をするのもあるのじゃ。

 それら全てに共通するのはとにかく徹底した観察をするという事なのじゃ。
 心身を徹底して観察することで自我も完全に観察され、厭離が起こるのじゃ。

 その観察も難しいものではないのじゃ。
 人が生きて行く上で、度々観察は行っているものじゃ。

 医者が患者の顔色などを観て診断している時、観察を行っているのじゃ。
 或いはパン屋がパン生地を捏ねて混ざり物がないか観ている時も観察を行っているのじゃ。
 
 母親が子供の服を選ぶ時、観察をしているのじゃ。
 道を渡る時に車が来ないか見渡しているのも観察なのじゃ。

 それらの観察を自らの心の中に向ける時、変容は起こるのじゃ。
 ただ集中力が無ければ、観察は続かないのじゃ。

 そのように観察は誰にでも出来る方法であり、自分に向いた方法を探すのが続ける原動力となるのじゃ。
 悟りを目指す修行者は自らに合った観察を日々実践し、進んでいくがよいのじゃ。

 


悟りを得るための修行法 | 20:29:58 | Trackback(0) | Comments(0)
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