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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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驕りに気をつけるのじゃ。

 驕りとは自らの知識や能力を過信して現実が見えなくなることなのじゃ。
 長年学んだり修行したりしていると、それによって驕りが出てきたりするものじゃ。
 驕りにかかると進歩も止まってしまうのじゃ。

 驕りは自己イメージを肥大させて修行すらもやめてしまう原因になるのじゃ。
 自分はもう十分に知っているとか、悟ったとか思ってしまうのじゃ。
 それで修行をやめてしまえばもはや進歩することもなくなるのじゃ。

 そのような驕りも原因があるから起こるものじゃ。
 驕りの原因は大抵、劣等感なのじゃ。
 自らを劣っているという観念があるから、逆に肥大した自己イメージを設けるのじゃ。

 そのような者が謙虚に自分の本心を見て驕りに気付くのは困難なことじゃ。
 自らが劣っているという観念から逃避している故に、原因を見出せないのじゃ。
 劣等感を認めることが非常に辛いからのう。
 
 実際にはその劣等感さえも植え付けられたものであったり、ただ虚偽の観念に過ぎないのじゃ。
 虚偽の観念からの逃避から、驕りが起こり、修行も止めてしまうのは愚かなことじゃ。
 修行者は気をつけなければいかんのじゃ。

 自分はもう十分に知っているとか、修行などはもう必要ないとか思うならば、それは驕りでしかないのじゃ。
 お釈迦様でさえ、日々自ら乞食をして家々を回り、時には断られたりしていたのじゃ。
 毎日瞑想をして弟子達に模範を示していたのじゃ。

 悟っても悟らなくても日々学び修行を実践するのが真の道なのじゃ。
 未だ死を超えていないのに、実践を止めてしまうのはもはや苦から苦へと迷う虫や獣と変わりないのじゃ。
 真の道を行く修行者は驕りに気をつけて進むのじゃ。




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悟りを得るための修行法 | 21:18:59 | Trackback(0) | Comments(2)
さらに観察について学ぶのじゃ。
  観察とは本来そんなに難しいものではないのじゃ。
 例えば道を歩いている時に、道端に花が咲いていると観ればそれも観察なのじゃ。
 花びらが五枚在るとか、葉っぱが二枚とか観ればそれもまた観察なのじゃ。
 
 そのように何でもありのままに観れはそれが観察であり、誰にでも出来ることなのじゃ。
 今ここに在るものごとをありのままに観ることであるから本来は簡単なのじゃ。

 しかし、人は記憶に依存している故に、観察も一度で終わり、記憶による認識が始まってしまうのじゃ。
 先ほど観た道端の花も、少し経つとさっきの花だとか思って同じものと分別し、認識してしまうのじゃ。
 実際には時が経って花が散ってしまったり、葉が落ちているかもしれんのじゃ。

 そのような変化を観ずに、記憶によってさっきの花と同じと認識してしまうのじゃ。
 それはもう観察ではないのじゃ。
 記憶による分別になってしまうのじゃ。

 このように観察は本来、簡単なことであるが、記憶に拠ってしまえば観察は観察ではなくなってしまうのじゃ。
 そのような記憶による分別には注意しなければならないのじゃ。

 心の働きを観察する時にも、そのような記憶による分別に注意しなければいかんのじゃ。
 昨日観察した心の働きが、今日も同じく在ると思うのも記憶による分別となるのじゃ。

 観察を日々続ければ心は変化していくものじゃ。
 昨日観察できた心の働きも、今日にはなくなっているかもしれんのじゃ。
 記憶によらずそのような心の働きの変化も、よく注意して観察しなければならんのじゃ。

 毎日、自分の本心を始めて観るかのように注意深く観察していくのじゃ。
 記憶による連想や雑念が生じたら、それに構わず流していくとよいのじゃ。
 数息観等の集中の行が出来ていればそれも可能なのじゃ。

 毎日観察を続けていると、やはり習慣化して過去と同じようになってしまうものじゃ。
 昨日と同じ心の働きが在るだろうと思って集中すると、その働きを自ら作り出してしまうこともあるじゃろう。
 それは観察ではなく観念遊戯なのじゃ。
 毎日観察しているつもりでも、長く何の発見も無いというならば、そのような観念遊戯に陥っていないか、自らの状態を観察してみるのじゃ。
   
 全力を集中して今ここにある心の働きを始めて観るかのように注意深く観察すれば、新たな発見も在るものじゃ。
 そのようにして自我の働きが観られたならば、無我にもなるのじゃ。
 そして記憶に依存していたことも気づき悟りも訪れるのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 21:45:06 | Trackback(0) | Comments(2)
全てを観察するのじゃ。
 修業のために心を観察しようとする時は、体になにか動きがあればそれも観察するべきなのじゃ。
 今は心を観察しているから、体の働きは観察しないでおこうとか思わなくてよいのじゃ。
 今ここに起こる事を注意深く全て観察するのじゃ。
 それでこそ観察は完全になり、自我も観られるのじゃ。

 例えば心を観察してお腹に反応が有るとか、喉がしめられるような感じが有るとか、そのような肉体の反応も全て観察すると善いのじゃ。
 それもまた心の反応とも呼べるのじゃ。
 心と体は完全に離れている訳ではないからなのじゃ。

 心の動きはからだの反応としても現れるのじゃ。
 心身は一つのものであるからそのような反応があっても当然なのじゃ。
 それを無視していれば観察も不完全になってしまうのじゃ。

 肉体を観察していて心に反応が有る事も珍しくは無いのじゃ。
 肉体の記憶が心にも反映されるのじゃ。
 例えば昔、転んで怪我をした傷を観察すると痛い想いが蘇ってくるとかのう。
 
 そのような心の反応も肉体を観察する時に観るとよいのじゃ。
 
 つまりは今ここで起こる全ての反応を注意深く観て、受け容れ、認識することが大事なのじゃ。
 観察している時の心身の全ての反応に注意していれば、観察力も高まるのじゃ。
 
 自我も認識対象への主体の投射として現れるものであるから、そのように全てに注意して観察していれば観察できるようになるのじゃ。
 観察から余計なものを排除しようとすれば、自我も観えないのじゃ。
 それは観察しようとする主体の観念であるから観察対象からは外れてしまうのじゃ。
 自我は観察対象外の働きとして見過ごされているのじゃ。

 しかし、常日頃から観察領域を広げていれば、それも観察対象のうちに入れることが出来るのじゃ。
 常に全てに観察を加え、注意深く全てを観ようとすれば、主体の観念が働くところも観られるようになるのじゃ。
 全てを観ようとすれば主体も全ての内であるから観られるのじゃ。

 観察によって何を観るのかと、思い煩うことは無いのじゃ。
 全てをありのままに観るのじゃ。
 それでこそ悟りも向こうからやってくるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 

 


悟りを得るための修行法 | 21:53:25 | Trackback(0) | Comments(0)
逃避を滅するのじゃ。
 大抵の者は恐れや不安等から日常的に逃避しているものじゃ。
 何か恐れや不安の対象があれば、それから目を逸らし、別の対象に耽溺することで観ないようにしているのじゃ。
 数々の娯楽や時には薬やギャンブルや犯罪などもその逃避の対象となるのじゃ。

 人がそのような悪習をなかなかやめられないのも、それが恐れや不安等からの逃避であるからなのじゃ。
 例えば道に蛇が居てそれを恐れて逃避していれば、いつまでも目的地には着かないのじゃ。
 蛇を恐れて逃避して娯楽に耽溺していれば、そのまま一生目的地にはつかないで終えるじゃろう。

 更に逃避していることを認めないで、朝は眠いからとか、夜は日が暮れたからとか逃避したことをも逃避して認めないならば、どんどん欺瞞が心に積もっていくのじゃ。
 そのように自分を誤魔化していれば、本心を観ることも出来ないのじゃ。

 修行者にもそのような逃避はあるものじゃ。
 自分の心の中の恐れから逃避して、修行が進めなくなるのじゃ。
 自分が無くなる恐れや常識から外れるのではないかという恐れ等、さまざまな恐れからの逃避が障害となるのじゃ。

 恐れから本心を観ることから逃避し、逃避したことも誤魔化してしまうのじゃ。
 終には自己欺瞞と傲慢の故に修業もやめてしまうのじゃ。
 多くの修行者がそのようにして悟りへの道から脱落して行ったのじゃ。

 そのような恐れも観察によって無くすことができるのじゃ。
 逃避しないでいようとか、逃避はやめようとか思わないでよいのじゃ。

 ただ自分が逃避している事に気付き、恐れが原因であることを観察できればよいのじゃ。
 逃避はその瞬間に消滅するのじゃ。
 人が不要になった荷物を手放すように、恐れと逃避は自然に消えるじゃろう。

 勇気を持って自分の逃避を観察しようとする以外に何も必要は無いのじゃ。
 今まで逃避し続けてきた習慣を変えようとするのは、勇気がいるものじゃ。
 しかし修行者は勇気を奮い起こして恐れに目をむけ、逃避を観察するのじゃ。
 そうすれば障害はなくなり、悟りへの道を進んでいくことも出来るのじゃ。
 


悟りを得るための修行法 | 21:23:59 | Trackback(0) | Comments(2)
集中法
  最近はマインドフルネスとか、気付きの瞑想について書かれた本などを善く見るようになったのじゃ。
 自分に気付くのはよいことであるが、それを実行しようとしても大抵の者が失敗するじゃろう。
 本に書かれている通りに自分を見ようとしても、五分後には別のことを考えていたりするものじゃ。

 それも集中力が無いからなのじゃ。
 集中力が無ければ観察も上手くいかず、心は雑念に巻き込まれてしまうのじゃ。
 集中力を養う修行も必要なのじゃ。

 数息観などはこのブログの記事にも書いてあるが、それが苦手という者も居るじゃろう。
 そのような者は心臓や眉間などに集中するとよいのじや。
 今回はそれを詳しく書くのじゃ。

 先ずは眉間に集中する方法なのじゃ。
 両目の間、少し上のほうに眉間はあるのじゃ。
 文字通り、眉と眉の間なのじゃ。

 そこに意識を集中するのじゃ。
 しかし、集中する時に注意しなければならないのは、視線を眉間に強く向けないことなのじゃ。
 眉間に視線を向けるとより目になり、普段使っていない筋肉や神経が疲れて頭痛がしたりするのじや。
 それを避けるために視線は一メートル位先を見るようにして、意識だけ眉間に集中するのじゃ。
 
 なかなか難しいが慣れれば出来るようになるのじゃ。
 五分ぐらいするとよいのじゃ。

 次は胸に集中する方法なのじゃ。
 胸の真ん中のみぞおちより少し上に心臓はあるのじゃ。
 そこに意識を集中するのじゃ。
 
 この集中にもあまり視線を向けてはいかんのじゃ。
 人間は自分が意識を向けたところに視線を向ける習慣があるからなかなか難しいが、日々続けていれば出来るようになるのじゃ。

 胸に集中していると安心感が出てくるじゃろう。
 人によっては体が熱くなったり、手が熱くなったりする者も居るじゃろう。
 それらの反応に囚われずに、ただひたすら集中するのじゃ。

 集中が強くなれば自分がそこにいるような感覚にもなるのじゃ。
 今まで体全体が自分であり、眉間や胸に集中していたが、自分が小さくなって集中している所に居て、体全体をみているような感覚なのじゃ。
 それは集中によって対象と一体になった感覚なのじゃ。
 それにも囚われずに続けるのじゃ。

 更に集中すれば集中と集中するものを見ている意識に気付くじゃろう。
 自分が自分の体から離れて見ているような感覚なのじゃ。
 それは感情や思考が無い無念夢想の意識なのじゃ。

 そのような意識に到達して初めて何の動揺も無く、自分の心が完全に観察できるのじゃ。
 そこまで集中が高くなってから自分の心を見るようにするのじゃ。
 そうすれば心の葛藤や逃避などもありのままに受け入れ、観察することが出来るのじゃ。
 そして自分を変えることも容易に出来るようになるのじゃ。

 ただ単に自分を観察するより、余計に手間がかかるように思えるかも知れんが、実はこのように集中力を身につけてから行うほうがより近道なのじゃ。
 マインドフルネスとか気付きの瞑想で何の効果も無かったという者も、ちゃんと集中力を見につけてから行えば、効果もでるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 15:39:52 | Trackback(0) | Comments(4)
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