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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自己敬愛によるブラフマンの法
 自分自身を十分に認め、愛し敬えるようになったら、次はブラフマンの法に則りその感覚を全てに広げていくのじゃ。
 自分を認め敬愛した時の体の感覚を、自分の体全体に広げ、更に体の外にまで広げて行くのじゃ。
 その実践は座りながらでも、寝ながらでもやってよいのじゃ。
 
 数息観などをして心を鎮めたら、自分を認め敬愛する誓いを心の中や言葉に出して唱えるのじや。
 そうすれば肉体にもそれによる反応が出るじゃろう。
 その感覚は人に拠って違うものじゃ。
 
 在る者は胸の温かさとして感じるかもしれん。
 或いは他の者はおなかの辺りの震える感じになるかもしれん。
 それらのどれが正解で、どれが間違いということはないのじゃ。
 各々が自ら感じるままにそれを受け入れ、大きくしていくのじゃ。
 

 温かさを感じるならば、先ずは温かさを体全体に広げるのじゃ。
 震えるのを感じるならば、それをまた体に広げていくのじゃ。
 初めは難しくとも、日々実践していくうちに出来るようになるものじゃ。

 全身に広げられるようになったら、今度は体の外にまで広げていくのじゃ。
 その時、自分とは体でしかないという強い思い込みがあれば、なかなか外には広げられなかったりするじゃろう。
 そのような思い込みを捨てれば外にまで広げられるのじゃ。
 本来人の意識は肉体を超えて広がっている故に、思いもどこまでも広げられるのじゃ。
 
 自分の周りから、部屋の中一杯に広げ、更に部屋を越えて広げていくのじゃ。
 途中で感覚がなくならないように、さらにそのまま誓いの言葉を唱えるのもよいのじゃ。
 
 自分は自分を認める。
 自分は自分を愛する。
 自分は自分を尊敬する。
  
 と、唱えながら意識をすべてに広げていくのじゃ。
 もはや限界まで広がったならば、唱える言葉を変えるのじゃ。
 
 全てが自分を認めている。
 全てが自分を愛している。
 全てが自分を尊敬している。

 と、唱えればまた別の反応があるじゃろう。
 全てに認められ、敬愛される喜びがそこにはあるじゃろう。
 それはただの空想ではないのじゃ。
 本来全てである意識にブラフマンの法によって、自ら参入したからには全てである自分で自分を認め、敬愛することができるのじゃ。
 そして俗世では決して味わえない歓喜を味わうことが出来るのじゃ。
 
 その歓喜に身を委ね、自己の境界さえも忘れたならば、既にサマーディに入っているのじゃ。
 自分を忘れていながら意識はあり続けることを自覚するのじゃ。

 その境地に何度も参入し、意志によって保持し続けられたならば、その境地から自分というものの観念を見ると良いのじゃ。
 そうすれば観照が訪れ、無我にもなるのじゃ。
 無我になれば無認識も容易に訪れるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじゃ。



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悟りを得るための修行法 | 21:38:00 | Trackback(0) | Comments(4)
自己敬愛の法。
  前回の続きなのじゃ。
 
 前回の記事にあるように、他人の承認を欲して日々の修業もままならない者は、先ずは自分の心を観なければならないのじゃ。
 承認を求める心の原因は親からの条件付けなのじゃ。
 まだ他人からの承認を求める心が残っている者は、そのような原因から承認を求める心があることを観察しなければならないのじゃ。
 
 他人が自分を認めたら、自分が自分を認める。
 そのような観念遊戯が自分の心の中にあると知れば、他人からの承認を強く求めることもなくなるのじゃ。
 それがただの観念遊戯であり、心のトリックであり、もはや不要な条件付けであるとわかるからなのじゃ。

 他人からの承認を求めなくなったら、自分を自分で認めると善いのじゃ。
 それがなければ自分の行動も正しくできないからなのじゃ。

 例えば犯罪者は自分を憎み、他人をもっと憎んでおるものじゃ。
 犯罪は憎い他人を傷つけ、憎い自分をも破滅させるから、犯罪者の心の中では合理的な行動なのじゃ。
 そのように正しく自分を認め、自分を愛し、自分を尊敬するようにしなければ、最悪の場合は犯罪まで行うようになるのじゃ。
 犯罪までいかなくともギャンブルや薬や酒に依存する等、自分にも他人にも不利益な行いばかりしてしまうのじゃ。

 そのような事態を防ぐためにも自分を承認して愛敬すべきなのじゃ。
 まずは自分に最高の評価をすると誓うと善いのじゃ。
 自分を最高に愛すると誓うと善いのじゃ。
 自分を最高に尊敬すると誓うと善いのじゃ。

 自分を認めるとは自分自身に最高の評価をすることじゃ。
 自分の世界は自分の心が作ったものであり、自分とは世界の創造神なのじゃ。
 自分以外の存在は自分の創造物に過ぎないのじゃ。
 神でさえも自分の心が作り出した観念なのじゃ。

 そうであるから自分自身に最高の評価をすることが正しい心のありようなのじゃ。


 そして自分自身を最高に愛することで、他人をも愛せるのじゃ。
 誰でも自分が一番愛しいものであるから、自分を強く愛さなければ他人も愛せないのじゃ。
 数で表せば自分を100位しか愛していなければ、他人は90位しか愛せないのじゃ。
 自分を1000位愛せれば、他人も900位は愛せるのじゃ。
 
 更に自分を尊敬することで自尊心も養えるのじゃ。
 自分を尊敬できないと想う者もいるかもしれん。
 しかし、今まで生きてきたことだけでも尊敬するに値するのじゃ。
 さまざまな苦難を乗り越えて今生きているという事実だけでも自分を尊敬するべきなのじゃ。
 その上にわしの教えを聞いて信の年を抱くものは正しい法を見抜く法眼浄を得ているのであるから、正しい法の下でも尊敬すべき者であるのじゃ。

 そのように朝晩に何度も自分に誓うと善いのじゃ。
 一度や二度では潜在意識には響かないのじゃ。
 何度も何度も誓うことで、潜在意識にまで自分を敬愛する心が染み込んでくるのじゃ。
 そして自他に利益をもたらす行いも自然に出来るようになるのじゃ。

 更にそのような誓いを自分に対して最終決定とするが善いのじゃ。
 もはや永遠に変える事が無い決定とするのじゃ。

 そのようにして自分を敬愛する念をブラフマンの法に拠って全てに広げていくが善いのじゃ。
 そうすれば全てが自分を敬愛していることになるのじゃ。
 全てが自分であるから、全てが自分を敬愛しているのじゃ。
 それが感得できれば歓喜が心に起こるじゃろう。

 そのような喜びの境地こそ真のブラフマンの境地なのじゃ。
 それは実践によってのみ感得できるものじゃ。
 全ての修行者は全てを敬愛し、全てに敬愛される喜びの境地を実践に拠って確かめるのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 21:52:00 | Trackback(0) | Comments(15)
自我消失の恐れも利用して進むのじゃ。
 今多くの修行者が悟りへの道を辿っているが、修行が進むにつれて自我を無くす恐れが湧いてきた者も多いようじゃ。
 それは修行が正しく進んでいる証でもあるのじゃ。
 修行しているつもりで、観念遊戯に浸っているだけならば、そのような恐れは起こらないからのう。
 本当に自我を滅しようとすればそのような恐れも起こるのじゃ。

 その恐れは観念である自我を、本当の自分と誤まって認識しているから起こるものじゃ。
 自我が無くなる事を、本当に自分が無くなることと認識してしまうから、恐れが起こるのじゃ。
 自我消失を肉体の死と同じものとして認識することからくる恐れなのじゃ。

 そのような恐れを乗り越えるためには、やはり観察が大事なのじゃ。
 自我消失の恐れを、原因から観察する事で滅することが出来るのじゃ。
 むしろその恐れをも利用して自我を観ることすらもできるのじゃ。
 それも悟りに向かう意欲があればこそ、可能になるのじゃ。

 先ずは自我消失の恐れそのものを詳しく観察してみるのじゃ。
 それは自分が無くなるという恐れと、自分を守るものがなくなるという恐れがあることがわかるじゃろう。
 他にも自分の好みとか楽しみがなくなるとかいろいろあるが、大別してこの二つが大きな恐れの原因と言えるのじゃ。

 先ずは自分が消失するという恐れから説いていくのじゃ。
 それは人が持ち続けている死の恐れとほぼ等しいものじゃ。
 肉体が消滅する死と、自我が消滅することは同じ自分がなくなる事として捉えられているのじゃ。
 そのために悟りの道を断念する者も多いのじゃ。

 元々死を超えるために悟りを目指していたのに、自分が無くなる死と同じ状態になるならば意味がないと思うのじゃ。
 それで修行もやめてしまうのじゃ。
 観察が出来れば、それもまた誤認に基づく誤解であると気付くのであるがのう。

 観念の自分が消える恐れを観れば、それが実におかしな間違いであると気付くじゃろう。
 観念が消えるだけであるのに、肉体が消えるのと同じ恐れがあるというのじゃ。
 それは取りも直さずただの観念を自分と認識している証なのじゃ。
  
 修行をしても肉体は毛一筋の傷がつくわけでもないのじゃ。
 ただ観念を消すだけなのじゃ。
 それが肉体を失くすほどの恐れが生じるのは実におかしなことなのじゃ。
 この奇妙な事実に気付く時、自分が消える恐れはなくなるじゃろう。

 ただ観念が消えるのに、肉体が消えるのと同じ恐れを持つのはおかしいからのう。
 それが気づきによる自分がなくなる恐れの厭離なのじゃ。
 全体の関連性が俯瞰的に見えたことで矛盾に気付くのじゃ。
 
 自分を守るものがなくなるという恐れも詳しく観察すれば滅するのじゃ。
 それは自我は自分であり、自分を守るものでもあると認識しているからある恐れなのじゃ。
 自我が無ければ自分が守れないという不安が恐れの原因になっているのじゃ。

 自我が自分を実際に守っているかどうか、詳しく観ていけばそのようなことはありえないとわかるのじゃ。
 守っているという幻想があるだけなのじゃ。
 むしろ自我は自分を危険な目に合わせているのじゃ。

 自分の名前とイメージを良くする為に、肉体を危険に晒したりしているのじゃ。
 勇敢な自分という名誉とイメージのために戦争で自他を傷つける選択をしていたりするのじゃ。
 更には言葉で罵られれば、自分の名前とイメージが傷付いたと思って怒り狂い、自他を破滅させたりするのじゃ。
 怒りは本当は肉体的な危険に対して、アドレナリンが出て体の動きを活発にして守る反応なのじゃ。
 それが観念の自分を守るために作用してしまうから、言葉で罵られると怒りで肉体が活発になり自他を傷つける行動に出てしまうのじゃ。

 そのように自我の働きは自分を守るよりも、傷つける事が多いのじゃ。
 そのような反応を観察する事でも自分を守る自我が消える恐れを滅することが出来るのじゃ。
 自我を滅する恐れも実践に拠って失くすことができるのじゃ。

 それも悟りを得ようとする意欲が在れば出来ることなのじゃ。
 強い情熱があれば、自我を失う恐れもまた観察して自分を知る実践にすることができるのじゃ。
 修行者はこのように自我を失う恐れもまた利用して進むが善いのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 21:29:26 | Trackback(0) | Comments(16)
ブラフマンの法 詳解
  以前にお釈迦様が説いたブラフマンの法を書いたが、更に詳しく解説する必要があるようじゃ。
 前の記事は慈悲の感情を自分の肉体から全ての空間に広げる法と書いただけだったのじゃ。
 それだけではなかなか難しかったようじゃ。
 そこで今回の記事ではブラフマンの法を詳しく解説するのじゃ。

 ブラフマンの法を実践するには、最初に慈悲の感情を起こさなくてはならないのじゃ。
 自分が慈悲を感じるものをイメージするとよいのじゃ。
 愛する者とか、ペットとかでもよいのじゃ。

 するとその縁によって、慈悲の感情が起こるじゃろう。
 それは胸の辺りに感じるかもしれん。 
 頭の中に感じるかもしれん。
 人によっては腹に感じるという者も居るじゃろう。

 どこに感じても構わないのじゃ。
 そしてその感覚も人によって違うじゃろう。
 少し暖かい感じがするとか、むず痒いとか、少し痛いとかいろいろあって構わないのじゃ。
 その感覚を全身に広げていくようにするのじゃ。

 その感じが肉体に広がると念じたり、広がっていくことをイメージすることで少しずつ広げていくのじゃ。
 頭に感じるものは頭から下に広げ、胸や腹に感じるものは頭や手足にまで広げていくのじゃ。
 そのようにして全身に慈悲の想いから起こる感覚を広げていくのじゃ。

 どうしても広げられないという者は、慈悲を起こす縁となるものを手足にイメージすると善いのじゃ。
 手で猫を撫でるとか、そのようなイメージによって手に感じる慈悲の感覚を広げるのじゃ。
 広げている途中で感覚がなくなってしまったら、また感じるところにまで戻ってやり直すのじゃ。

 そのようにして慈悲の感覚が全身に広がって感じられるようになったならば、それを肉体の外に広げるのじゃ。
 最初は頭からとか、胸から丸く広がっていくとか、少しずつ広げていくのじゃ。
 それも途中で感覚が感じられなくなったら、感じられるところからやり直すのじゃ。

 それが出来ない者は、常識で考えて感情が肉体の外にある筈はないとかの観念に囚われているからかもしれん。
 或いは全ては脳で感じるのであるから、肉体の外に感情は無いと、唯脳論から離れられないからかもしれん。
 実際には全ては意識であるから肉体の外にも感情は在るものじゃ。
 観察と実践によって囚われを打破するのじゃ。

 肉体の外に広げられるようになったら、その感覚を部屋の中一杯にまで広げるのじゃ。
 人によっては頭から上には広がるが横に広がらないとか、腹から横にだけ広がるとか感じる者もいるかもしれん。
 そのような者は囚われずに、上でも横でも構わないからどんどん広げていくと善いのじゃ。

 慈悲の想いが今ここにある全てに浸透して、慈悲に変っていくことをイメージするのじゃ。
 全てのものが名前と形を無くして慈悲の思いになっていくことを念じ、イメージするのじゃ。
 更に慈悲の想いが今ここに感じる全てから、認識する全てに広がることを念じ、イメージするのじゃ。

 その時、頭の中で地球とか宇宙とかをイメージして、それが慈悲に変化することを念じてはいかんのじゃ。
 それでは観念遊戯になるからなのじゃ。
 あくまでも自分が今ここで感じ、認識する全てが慈悲となることを念じ、イメージするのじゃ。
 
 全てが名前と形を無くして、慈悲の思いになることを念じ、イメージするのじゃ。
 自らの肉体と精神もまた名前と形を無くして慈悲の想いそのものであることを感じるのじゃ。

 それが出来たならば、全てのものごとはただ慈悲の想いだけになるのじゃ。
 そうすればそれはサマーディと呼ばれる境地なのじゃ。
 自分も他のものもなく、全てが一つであるから自他を忘れたサマーディなのじゃ。

 それはまだ悟りではないが、自己を見ることのできる最良の境地に入れるのじゃ。
 そのように大いに成果の在るブラフマンの法を実践するとよいのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 21:05:03 | Trackback(0) | Comments(0)
法は意を超えず。

 今までさまざま法を示してきたが、それによって必ず悟りを得られるとは限らないのじゃ。
 どんなに法を実践しても悟りを得られない者も居る。
 そのような者は悟りを得るという意志がないからなのじゃ。

 例えばこの道を真っ直ぐ行けば目的地に着けると教えられても、目的地に行く意志が無い者はどこか別の所をさまよい、目的地には着かないのじゃ。
 それと同じように悟りを得る方法を教えられても、悟りを得る意志が無い者は、実践も迷いのうちに入って悟ることも無いのじゃ。 
 人の意志はこの世で最も強いものである故に、法もそれを曲げられないのじゃ。

 この世の執着を全て捨てて悟りを求める意志がある者に、悟りは訪れるのじゃ。
 それほどの意志がない限り悟りは訪れないのじゃ。
 金は大事だから悟っても金儲けはしようとか、今の地位や権力は維持したまま悟ろうと思っても無理なのじゃ。
 そのような都合の善い悟りはどこにもないのじゃ。

 本来一切衆生は老病死の限界がある故に、全てを捨てて悟りを求めるのも正しい考えなのじゃ。
 金や地位や名声をどんなに求めても、やがては老病死によって消えてしまうのじゃ。
 自分の意志で捨てなくても、消えてしまうのが必然なのじゃ。

 やがては誰もが必然的に捨てなければならないものを、自分の意志で捨てるだけなのじゃ。
 そうすれば全てを手に入れ、永遠への道が開かれるのじゃ。
 
 死を恐れる余り、死を考えることを拒否した者はいつか自分が死なないようにさえ思うようになるものじゃ。
 それはもはや現実を見ていないことになるのじゃ。
 幻想の中で生きている狂人と同じなのじゃ。
 自分が死なない前提で金や権力や名声を求めていれば、老病死の苦が迫ってきた時に絶望するのじゃ。

 更には社会への貢献とか人類のためとかの目的さえ、幻想に他ならないのじゃ。
 それらも滅び去る性質からは免れないからなのじゃ。
 社会や人類や生物とかの集合より、個人の中にこそ永遠への道が在るのじゃ。
 
 初めから人や社会には老病死の限界があり、それを超える道があると正しく考えれば、悟りを得る意志も芽生えるのじゃ。
 人が自らの意志で老病死の苦を超えようとした時にこそ、法は役に立つのじゃ。
 悟りへの意志によって実践された法は、速やかに人を悟りに導くのじゃ。
 幻想に陥る事無く、老病死という現実について正しく考え、悟りへの意志を持つことが真の正見なのじゃ。

 強い意志があれば法など無くとも悟りに行くことも出来るのじゃ。
 法は意志を超える事は出来ないが、意志は法をも超えることができるのじゃ。
 マハリシのように法など知らなくても、強い意志によって悟りを得た者も居るのじゃ。

 法は意志を超えないという事は、法を選択する時にも心がけるべきなのじゃ。
 自分の意志に沿わない方法を、師匠に勧められたからとかの理由で続けるべきではないのじゃ。
 そのような実践は全てを捨てるという選択もできないじゃろう。

 自らの全てを捨てる意志を持つこともできる、真に自らに合った法を選ぶべきなのじゃ。
 意志とは選択の際に最も力を発揮する故に、意志による法の選択に注意を払うべきなのじゃ。
 自らの全てを捨てるに足りる信頼できる法を選ぶべきなのじゃ。
 
 自らの意志で選んだ法により、全てを捨てて実践し続ければ悟りは速やかに訪れるじゃろう。
 その時、法よりも悟りを求める強い意志が悟りへと導いたことを知るじゃろう。
 その意志をも捨て去った時、真の大悟徹底の境地が現われるじゃろう。
 それまで精進あるのみなのじや。


悟りを得るための修行法 | 22:12:16 | Trackback(0) | Comments(10)
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