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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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帰宅の喩
 悟りとは人が変じて別の何かになることではないのじゃ。
 むしろ本来の状態に戻ることなのじゃ。
 偽りの観念世界から真実の家に帰ることとも言えるのじゃ。

 例えば金持ちの子が家に飽き足らず、どこか遠くへ旅に出たとしよう。
 その子は厳しい世間で何年も暮らし、乞食に成り果ててうろつきまわっていたのじゃ。
 持っている物は汚い破れた衣と、破れた地図とけものを打つ為の折れた杖と壊れたお椀だけなのじゃ。
 
 どんどん流れて行き着いたのはかつて暮らしていた自分の家だったのじゃ。
 しかしあまりに長くよそに行っていたために自分の家ということもわからなかったのじゃ。
 金持ちの子はただ一日の糧となる食事を求めて、その家に行ったのじゃ。

 その家の門を叩くと金持ちの親が出てきたのじゃ。
 すると金持ちの親は直ぐにそれが自分の子供とわかったのじゃ。

 親は子にこう告げたのじゃ。
 「お前はわしの子じゃ。この門を入ればこの家も財産もこの地方の土地も全ておぬしのものじゃ。
  しかし、この門に入るにはその汚いものを全て捨てなければいかんのじゃ」
 すると子は直ぐに破れた衣を脱ぎ捨て、破れた地図も折れた杖も壊れたお椀も捨てたのじゃ。
 そして門に入り、家も財産も土地も全てを自分のものとすることができたのじゃ。
 
 悟りを求めるのも元からある本来の全てを取り戻すことなのじゃ。
 それには今自分のものと思っているものを悉く捨てなければいかんのじゃ。
 人が自分と思っている破れた衣のような自我。
 破れた地図のような愚かさ。
 獣を追うための折れた杖のような怒り。
 壊れたお椀のような貪欲。

 それらを捨ててようやく全てを得られる悟りの門に入れるのじゃ。

 自我は衣のように人を守り、他人から見られる自分があると言う観念なのじゃ。
 しかし、それは実は破れた衣のように心身を守れず、我執によって醜さをあらわすだけのものじゃ。
 自分の名前とイメージがその本体であり、それらのために人は自らの心身を疲弊させ、壊すのも厭わないのじゃ。
 その観念に囚われて全てを自分のものとしたいと思う醜さが現れるのじゃ。
 それは捨て去ってよい薄汚れた観念でしかないのじゃ。

 人の愚かさは破れた地図のようなものじゃ。
 我執や囚われによって人は愚かさを保ち、自らの利益を図ろうとして却って迷い、苦しんでいるのじゃ。
 それもまた必要な物ではないのじゃ。

 怒りは折れた杖のようなものじゃ。
 折れた杖でけものを打とうとしても役に立たないばかりか、自らを傷つけるものじゃ。
 恐れから逃れるために人は怒りを起こすが、それは却って自らを傷つけるのじゃ。
 そのような怒りも捨て去るべきものじゃ。

 貪欲は壊れたお椀のようなものじゃ。
 壊れたお椀に食物を入れても、こぼれてしまうからいつまでも一杯にならないのじゃ。
 そのように欲は不安に拠って起こるものであるから、限りが無いのじゃ。
 貪欲があればいつまでも満足することは無く、無駄に時間を過ごしてしまうのじゃ。
 それも捨てなければ悟りの門には入れないのじゃ。

 人がただ老病死の苦を逃れようとして悟りの道を行くのは、自分の家に一日の糧を求めて行くようなものじゃ。
 そのために今自分であり、自分のものとしている全てを捨てれば全てが得られるのじゃ。
 それは他から与えられるものではなく、自らが変ることでもなく、本来のありように回帰することなのじゃ。
 そのような悟りによって全てと本質的に繋がり、永遠の安楽に到達するのじゃ。
 修行者は実践によって確めるのじゃ。


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悟りの真実 | 00:24:15 | Trackback(0) | Comments(0)
気付くこと
 気付く事は厭離を起こす手段であり、観察の目的でもあるのじゃ。
 観察し気付くことで人は真に変ることができるのじゃ。
 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。

 気付く事はサティと呼ばれ、念と訳されるものじゃ。
 八正道も正しい観察から始まり、正しい念を以って終わるのじゃ。
 正しく観察し、正しく気付く事で苦は滅し、悟りにも至るのじゃ。

 気付く事を表すためには、よく朽ち縄の比喩が使われるのじゃ。
 道に蛇が居て、そのために道を通れなかったが、よく観察してみれば朽ちた縄であったというものじゃ。
 このような話がなぜ度々使われるのかといえば、この話こそが気付く事の重要性を物語っているからなのじゃ。

 苦を滅することも、悟りを得ることも気付くことによって達成されるのじゃ。
 気付くことがなければ苦は滅せず、悟りも得られないのじゃ。

 苦は今心の中に在る原因から起こることに気付けば、その苦は滅するのじゃ。
 例えば他人が怖い者が、その恐れが親からの虐待が原因であったと完全に気付く時、他人への恐れは無くなるじゃろう。
 環境は全く変らないが、心の中の原因に気付く事で苦は消えるのじゃ。
 
 或いは人が酒や薬やギャンブルに溺れていても、それが不安や恐れからの逃避でしかないと原因に気付けばやめられるのじゃ。
 それは道に落ちている蛇が縄と気付く過程と全く同じなのじゃ。
 気付く事で蛇が縄になるのではないように、苦の原因に気付いても環境は全く変らないが心は変容して安楽になるのじゃ。

 苦の根本原因である自分という観念に気付くのも全く同じなのじゃ。
 人は自らの名前とイメージに執着して、自ら苦を作り出しているのじゃ。
 兵士は勇敢な自分という名前とイメージを作るために自他の命も捨てるのじゃ。
 商人は金持ちの自分という名前とイメージのために金という道具を貯め続けるのじゃ。
 政治家や慈善家も立派な自分という名前とイメージのために時間や金を費やすのじゃ。

 それがかなってもかなわなくとも苦を増すばかりなのじゃ。
 観念である自分の名前とイメージは架空のものであるから幾ら求めてもきりがないからなのじゃ。
 
 そのような自分という観念も気付く事で滅するのじゃ。
 名前とイメージが自分と想っていたと気付く事で、その認識から解放されるのじゃ。
 そして無我にもなるのじゃ。
 
 更に認識をも分別している心の働きに気付けば厭離されるのじゃ。
 全てを分別する働きが消えた時、全ては一つである見識が実感されるのじゃ。

 そのように気付く事が苦を滅する法の要であり、悟りへの道なのじゃ。
 そうであるから心を極力鎮め、注意深く本心を観察し続けるのが仏法の実践なのじゃ。
 苦を滅し、悟りを求める者はただひたすらに心を鎮め、観察を重ねて気付く事を多くするのじゃ。


悟りの真実 | 20:45:18 | Trackback(0) | Comments(3)
智恵の使い方
  悟りを得れば各種の智恵は自ずから生じ、自在に使えて極まる所も知らないようになるものじゃ。
 しかし、悟りを得なくとも、智恵は本来人の心の中にあり、使おうとすれば使えるものじゃ。
 その智恵は悟りを得た者のように極まりないものではないが、限界があっても使い方を学べば人の助けになるじゃろう。

 その前に知識と智恵の違いを知らなければならんのじゃ。
 知識とは一切のものごとに対して人が持つ観念なのじゃ。
 観念は記憶によるものであり、間違いもあったりするのじゃ。
 なるべく正確な知識を持つために、日頃から観察や実験を繰り返さなければならんのじゃ。

 智恵とは必要な時と場において知識を活用するものであり、又観察によって今ここにあるものごとの真実を明らかにするものじゃ。
 例えば山に行く時は山の知識を出し、海に行く時には海の知識を出すものじゃ。
 そして観察により知識の誤りも訂正することが出来るのじゃ。

 自己の観念を離れた智恵を平等性智と呼ぶのじゃ。
 自分の贔屓目とか恐れや不安を離れている故に、ものごとを正確に判定することが出来るのじゃ。
 その智恵は普通の者にも使えるのじゃ。

 自分の観念が薄くなる寝入る前とか、睡眠から起きた直後などにはこの智恵も働きやすいのじゃ。
 大事な問題等はこのような時に考えれば、利害を離れた判断も正確に出来るのじゃ。

 或いは一度問題を全て考え抜いた後に、わざと忘れるようにするのじゃ。
 そうすれば智恵が自分という観念のない所で働き、自然によい答えが出るのじゃ。
 まだ正確な答えが出ないうちに思い出しそうになっても、忘れるようにするのじゃ。
 そうすれば十分に正確な答えが沸いてくるじゃろう。

 悟っていなければ自分を離れた智恵にはなかなか到達し難いが、それでも工夫すれば使うことは出来るのじゃ。


 更には観察智というものもあるのじゃ。
 今ここにあるものごとを観察して理解する智恵なのじゃ。
 止観を十分に練習していれば、既に観察による智恵は身についているのじゃ。  
 日頃から見慣れているものには観察もつい習慣的になって重要なものを見落とし易いものじゃ。
 
 今ここにあるものを始めて見たような心がけで、十分に観察すれば答えは自然にわかるのじゃ。
 特にいつもは見過ごしてしまうような小さなことや気にかかったことなどを深く観察することで、正確な答えに辿り着くことも多いのじゃ。
 気になることはそれ自体が心によって導かれる正答であるからこそ、目を引くのであるからのう。
  
 そのような智恵の使い方を知れば、悟りを得なくとも十分に智恵を発揮し、自らの問題を自分で解決することも可能なのじゃ。
 問題のある者は自ら実践して確かめてみるのじゃ。
 


悟りの真実 | 13:37:34 | Trackback(0) | Comments(4)
慈悲をもって生きるのじゃ。
 この世では慈悲をもって生きるのが一番よいのじゃ。
 慈悲を基準にして行いをすれば、ほぼ間違うことはないのじゃ。
 世間では真面目なことが善いとか、頭がよければよいとか言われるが、それだけではいかんのじゃ。

 慈悲の無い者が真面目であれば、悪い法令なども真面目に実行してしまうじゃろう。
 それによって虐殺なども起こるのじゃ。
 法令や規律であるからと真面目に守れば、そのような事態に対応できないのじゃ。
 慈悲をもって基準とすれば、そのような事はおかしいとわかるのじゃ。
 
 幸福を求めて真面目に生きても、慈悲が無ければ不運にもなるじゃろう。
 慈悲が無ければ真面目に生きてきたのに酷い目にあうこともあるじゃろう。
 真面目なだけでは福楽を求めても無意味なのじゃ。 

 頭がよくても慈悲が無ければ他人を追い落として自分だけが得をする事も考え、実行したりするじゃろう。
 それは一時は栄えても、いずれは自分を陥れることになる道なのじゃ。
 慈悲を持って自他の利益を図ることが出来てこそ真の智恵なのじゃ。

 世に言う情けは人のためにならずという格言も、今は人に情けをかけてはいかんというような意味になっているが、本来は人に情けをかければ自分に返ってくるという意味なのじゃ。
 常に人の為に行動する善い者には、福楽が付き従うとお釈迦様も言っているのじゃ。
 
 情けないという言葉も、慈悲の無い者のことなのじゃ。
 今ではみっともないというような意味になっているが、本来は慈悲の無い者の事なのじゃ。
 慈悲の無い者こそ世間において最も非難され、恥ずべき者であったのじゃ。

 そのように慈悲を尊ぶための言葉が本来の意味を失うのも、競争や効率のために慈悲を蔑ろにしてきたからなのじゃ。
 慈悲が無く競争や効率だけの世の中になれば、いずれは人間も要らないことになるじゃろう。
 もはや機械や人工知能に任せた方が、より競争に有利で効率が良い事になるなるからのう。

 競争や効率が一番重要である世界は、そのように最後には全ての人間が不要である世界になるのじゃ。
 人間が居ない方がよい世界になれば、いずれは人間も速やかに消えていくのみなのじゃ。

 人々が競争や効率を最も重視するのではなく、慈悲を尊ぶようになれば、そのような世界も訪れないのじゃ。
 正に情けは人のためではなく、己のためであり、全ての人のためなのじゃ。

 慈悲といっても人に金銭や物を与えたりする事ではないのじゃ。
 優しい言葉をかけたりするのも立派に慈悲の行いなのじゃ。
 そのように全ての者は慈悲の行いを実践して福楽を身に付けるのじゃ。


悟りの真実 | 19:10:58 | Trackback(0) | Comments(10)
執着の構造
 苦をもたらす執着は、ただ一つの原因から起こるとは限らないのじゃ。
 いくつもの原因から執着が起こる事もあるのじゃ。
 執着がかなえられぬことが執着を引き起こし、それが苦を大きくすることも在るものじゃ。

 例えば子供の頃におもちゃを買えなかったから、今、いろいろなものを集めているが求めても得られない苦が起こるとかなのじゃ。
 孤独感から親に執着し、その関係を維持するために自分がギャンブルなどに執着しては失敗し、無能の振りをするというのもあるのじゃ。
 そのように執着から執着が起こり、苦を深くする構造が生まれるのじゃ。

 縁起するという心の習性から、そのように次々に執着が生まれ、苦を深くする構造も出来てしまうのじゃ。

 観察によってそれらも滅することはできるのじゃ。
 しかし、執着の全てを無くすためには、そのような根本の執着の原因から観察しなくてはならないのじゃ。

 執着の根本に自分の孤独感や不安があると、薄々わかっている者もいるじゃろう。
 それを知っても何にもならないと、知る事を拒んでいたりもするのじゃ。
 そのような状況でも勇気を出して、自らの本心を観察してみれば、執着による苦は消えるのじゃ。

 今までわからなかった執着の構造を観察する時、それがやはり自分の心から起きていたこともわかるじゃろう。
 原因は常に自分の心から起こるものじゃ。
 他人や環境は根本的な原因ではないのじゃ。
 自ら生み出した苦の連鎖が人を苦しめるのじゃ。
 
 執着の原因から執着へと次々に因縁を観察し、追求していったならば、やがては苦の根本原因である自己という観念に行き着くじゃろう。
 自分があるという観念から不安や孤独、恐れが生まれ、そこから執着が起こる。
 その観念がない時、不安や孤独、恐れも無く、執着も無いと観察することが出来るじゃろう。
 そのように観察できた時、お釈迦様の説いた四諦十二因縁の法が正しく実践できたというべきなのじゃ。
 
 何度も何度もそのように観察できれば、自己という観念から離れることができるじゃろう。
 自我を厭離し、無我に至ることができるのじゃ。

 更に無我を認識するものさえも厭離できた時、大悟徹底の境地もやってくるのじゃ。
 その時まで精進あるのみなのじゃ。
 


悟りの真実 | 21:03:31 | Trackback(0) | Comments(6)
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