FC2ブログ
 
■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
悟りとは何か。
 
 悟りとは何か、何故悟った者は悟りを人に教えようとするのか、疑問に思っている者も多いじゃろう。
 人類はどんどん発展して、悟りが無くとも上手くやっているように見える。
 余計なことを教えなくとも全て良くなっているようにも見える。

 そのように世間が見えていれば悟りも必要ではなく、それを教えるのも無意味に見えるものじゃ。
 しかし、それも一時の状態に過ぎないものじゃ。
 人には個人個人に老病死の苦があり、社会もまたいつかは滅びることを免れないものじゃ。
 永遠に個人や社会が繁栄することは無いからのう。

 やがては全ては滅び、その時には大いなる苦があるものじゃ。
 そのような苦を永遠に免れる道を悟りと呼び、それを教えることが悟った者の役割なのじゃ。

 例えば一つの村から外に出る道に朽ち縄があったとしよう。
 村人はその朽ち縄を蛇だと思って村から外に出られず、苦労しているのじゃ。
 道に蛇が居ると思うから外に食べ物を買うことも出来ず、村の外に何が在るのかも知れないのじゃ。
 
 一人の者が近づいて行ってそれが蛇ではなく、ただの朽ちた縄であったと気付いたならば、他の村人にも大声で知らせて、苦難を逃れさせるじゃろう。
 それが蛇ではないとわかれば、苦難は無くなり、皆外に出かけて何が在るのかも知れたのじゃ。

 そのようにただの誤認による大きな苦を無くす事が悟りであり、そのための方法がお釈迦様の教えなのじゃ。
 衆生は観念により、自分というものが肉体や精神としてあるという誤認をしているのじゃ。
 その誤認がある限り、苦も免れないのじゃ。

 蛇に近づくように勇気を持ってその誤認を確かめてみれば、自分というものは無いと気付いくのじゃ。
 そして苦もなくなるのじゃ。

 自分が無いとはどのようなことであろうかと、皆は不思議に思うかもしれん。
 自分が無いといっても、自分はここにちゃんとあるではないかと、肉体や精神の働きを見て言うじゃろう。
 肉体や精神は確かにあるものじゃ。
 しかし、それに自分であるという観念を重ね合わせることが誤認なのじゃ。

 朽ち縄を蛇と思うのと同じなのじゃ。
 肉体や精神が朽ち縄なのじゃ。
 自分という観念が蛇なのじゃ。
 まだ悟りを得ていない者は、村人が朽ち縄を蛇と誤認していたように、肉体や精神が自分と誤認しているのじゃ。
 そのために村人が幻想の蛇によって行いが制限されていたように、苦を受けているのじゃ。

 このように悟りとは間違って認識されていた自分という観念から解放されることなのじゃ。
 そして正しい認識に還る事で苦からも解放されるのじゃ。
 何か別のものに変化するのではなく、認識の過ちを正すだけなのじゃ。
 ただそれだけで人は苦から解放されるのであるから、悟った者は皆に悟りへの道を教えるのじゃ。
 それを理解した者は正しく実践して、恐れをも滅して、悟りの道を進むが善いのじゃ。
 


スポンサーサイト



悟りの真実 | 20:11:20 | Trackback(0) | Comments(12)
悟りとは死を超える道。
  悟りとは何かと多くの者が疑問に思っているじゃろう。
 お釈迦様が悟りという優れた境地に到達したと、2500年前から知れ渡っているが、一体それがなんの役に立つのかとか、なんのためにあるのかと、未だに人の中には知らない者が多いじゃろう。
 この娑婆世界の人間の半数以上は、未だ悟りというものがあるということすらしらないのじゃ。
 悟りというものがあると知っているものでさえ、それがなにであるかと聞かれればあまり良くわかっていなかったりするじゃろう。
 お釈迦様は悟りへの方法だけを説いて、それが何であるか詳しく説くことはなかったために、そのような疑問も起こるじゃろう。

 そのように悟りとは何か知らなくては、求めることも困難なのじゃ。
 自分が何を求めているのか、知らなくては求めることも出来ないのじゃ。
 悟りとは何かはっきりと知れば、求めることも出来るのじゃ。
 
 真の悟りとは死を超える道なのじゃ。
 お釈迦様が得た悟りは、死というものを克服できる境地なのじゃ。
 その悟りに拠ってお釈迦様や阿羅漢達や諸々の先達は、死を克服して永遠の意識に没入したのじゃ。
 人が死を超えて永遠に安楽な境地に入ることを、悟りと呼ぶのじゃ。

 それこそが真の悟りなのじゃ。
 死を克服できない境地は悟りではないのじゃ。
 悟ったと思う者は自らを省みて死を克服したか、確かめるのじゃ。

 お釈迦様が語っていなくとも、師弟の行状を見れば悟りは死を超える道とわかるのじゃ。
 お釈迦様は王子だった時に四門を出て、老病死を免れぬ人の定めを知ってそれらを超える道を探したのじゃ。
 そして得たのが真の悟りであったのじゃ。
 更にその境地を弟子にも伝えたのじゃ。

 お釈迦様の弟子で阿羅漢と成った舎利弗がまだ、お釈迦様に会ってもいないころに、目連と互いに死を超える道を探し、もしどちらかが得ることがあれば教えあおうと、誓ったことがあったのじゃ。
 後に舎利弗がお釈迦様に逢い、修行して悟りを得た後に目連に逢ったのじゃ。
 目連は舎利弗を一目見て忽ち彼が死を超えた境地にいるとわかったのじゃ。
 それで目連もお釈迦様の下で修行して悟りを得ることが出来たのじゃ。

 このように師弟の行いを見ればお釈迦様が目指した境地とは、死を超えた境地であり、それは他人にも伝えることが出来るものであるともわかるじゃろう。
 お釈迦様が言い残したことは、その境地を得ることが出来る方法のみであるためにわかり難いが、このように師弟の行状を見ればよくわかるのじゃ。
 
 では人はどのようにして死を克服するのかといえば、それは誤まった認識を排除することで可能になるのじゃ。
 誤まった認識とは記憶による認識なのじゃ。
 その認識に拠って自分という謬見も起こるのじゃ。

 自分という個我がある、他からはなれた実体としての個体がある、独立した主体があるというのが、謬見なのじゃ。
 その謬見から老病死や他の一切の苦も起こるのじゃ。
 
 この謬見と認識の誤りから抜けることが出来れば、死を克服できるのじゃ。
 それらのためにこの肉体だけが自分であり、自分の全てであると誤認していたから死もあったのじゃ。
 それらが無ければもはや死も無いのじゃ。

 例えば大樹が自分を末端の木の葉の一枚と誤認すれば、それが落ちる時に自分全体がなくなる死と死の恐れもあると誤認するのじゃ。
 大樹の全てが自分であると知れば、一枚の木の葉が落ちても樹の自然な働きの一つであると理解して、自分が無くなる死も死の恐れも無くなるのじゃ。
 そのように人も肉体が自分であり、自分の全てであると誤認していれば死があるが、全てが自分であるという正しい認識を感得すれば死も無くなるのじゃ。
 
 以上の如き死の克服は、自己とは何かという認識を観察する事で可能になるのじゃ。
 自分を何度も何度も観察してその不在に気付くことが出来れば、自己の謬見はなくなるのじゃ。
 更に自己の観念を生み出す認識さえも滅すれば、真の悟りも訪れるのじゃ。
 それがお釈迦様の示した方法なのじゃ。

 死を克服するために修行者は精進あるのみなのじゃ。


悟りの真実 | 21:21:42 | Trackback(0) | Comments(12)
苦が増加する仕組み
 お釈迦様はこの世の一切は皆苦として、人が苦から離れられない事を説いたのじゃ。
 悟りを得ていない者は正にその通り、苦から苦へと苛まれて生きるしかないものじゃ。
 生きて苦しみ、死んでも又苦しむのじゃ。
 
 そのように苦しむのも悟りを得ていない者には、無明である自分が存在するという観念の原因があるからなのじゃ。
 他のものから完全に独立した主体的な自分があるという観念から苦は起こり、離れられないのじゃ。
 間違った観念を正さなければ苦しみは続くのじゃ。

 例えば頭のおかしい者が自分は飛べるという間違った観念を持って高い所から飛び降りれば、死んだり怪我をしたりするのじゃ。
 そのように現実とは離れた間違った観念を持っていては苦しみは尽きないのじゃ。
 
 悟っていない者が自分は主体がある、自分は思考や感情の主体であると思うことが苦を増す間違った観念なのじゃ。
 自我が思考や感情の主体であるならば、それらをコントロール出来る筈であるが、実際は出来ないのじゃ。
 自我は思考や感情の主体ではなく、それらに隷属しているものなのじゃ。

 自我は思考や感情が勝手に反応することを止められず、それらの奴隷となっているだけなのじゃ。
 思考や感情を満足させるために、無駄な行いに時間と心身を費やしているだけなのじゃ。
 自我が思考や感情の主体ではなく、思考や感情をコントロールできないことが苦を生み増加させる原因の一つなのじゃ。

 例えば異性に強く執着しながら離れてしまう愛別離苦があれば、何度もそれを考えてしまうじゃろう。
 思考をコントロールできないのであるから、苦しくても何度も考えてしまうのじゃ。
 そして考える度に悲しみの感情を起こしてしまい、苦しむのじゃ。
 それも感情をコントロールできない故に、考える度に悲しみの反応が自動的に起きて苦しむのじゃ。

 このように一つの苦があれば、それを何度も何度も繰り返して苦しむことになるのじゃ。
 それも自我が思考や感情の主体ではなく、それらをコントロールできないからなのじゃ。
 更にそれが新たな苦を引き起こすのじゃ。

 一度、苦を味わった心はそれを未来に起こるかもしれない事と認識するのじゃ。
 そして、それを避けようとするのじゃ。
 それが不安と呼ばれる心の働きなのじゃ。

 それは本来は苦を避けるための心の働きであるが、却って苦を増加させることになるのじゃ。
 不安は心を苛み、更に行動を制限するようにするのじゃ。
 この先そのような苦しみを味わう事がないようにと、消極的に行動してしまうのじゃ。
 それも思考や感情を制御出来ないことから来る苦の増加なのじゃ。
 
 そのように激しく増加する苦も、原因から観察されれば滅するのじゃ。
 未だ悟りを得なくとも、苦を完全に観察できれば消すことが出来るのじゃ。
 何度も苦が起こっても、その度に観察できれば消えていくのじゃ。

 やがて苦が完全に滅して心が鎮まる安心の境地に入れるのじゃ。
 苦から逃れたいと思う者は、実践によって確かめるのじゃ。
 


悟りの真実 | 22:32:17 | Trackback(0) | Comments(6)
不死の境地
 悟りを得られれば不死の境地に入れるとお釈迦様は説いたのじゃ。
 不死の境地とは死を超越した境地なのじゃ。
 苦の最たるものである死を超越することがお釈迦様の教えの真髄なのじゃ。
 仏教の全てはそのためにあるのじゃ。

 死を超越したならばもはや他の苦も一切なくなるのじゃ。
 死以上の苦はないからのう。

 それでは人はどのようにして死を超越することが出来るのじゃろうか。
 死とは肉体の働きが停止することなのじゃ。
 それに伴って肉体に拠っていた全ての能力もなくなるのじゃ。
 感覚とか思考とか感情とか認識などもなくなるのじゃ。
 それらが自分であると思っていたならば死は自分の消滅であり、絶望しかない現象なのじゃ。

 しかし、肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。
 そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

 実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
 人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
 それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

 例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということもないじゃろう。
 自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
 自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

 瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
 自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
 自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
 境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

 そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
 自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

 更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
 天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
 膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

 全てであるならば二重の意味で死は無いのじゃ。
 死という観念はなく、死という実際も無いのじゃ。
 全てである意識が存在するだけであれば、肉体の消滅はその一部が変質するだけとわかるからなのじゃ。
 それが不死の境地なのじゃ。
 もはや永遠に意識があるだけなのじゃ。
 人は誰でも死の瞬間まで自らを知る努力を続けることで、その境地に到達することもできるのじゃ。
 


悟りの真実 | 13:59:58 | Trackback(0) | Comments(4)
見られただけならば自我は無いのじゃ。


続きを読む >>
悟りの真実 | 17:52:43 | Trackback(0) | Comments(11)
次のページ