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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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賢者となるのじゃ。
 お釈迦様はこのように言っておる。

 63、もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
 愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。

 賢者とは自らを愚と知る者であるという。
 なぜならば人がこの世で最もよく知らなければならない事は、自分自身についてなのであるからなのじゃ。

 例えどれほど多くの知識を持っていたとしても、自分自身について正確な事を知らなければ、賢いとはいえないのじゃ。
 自らが愚であると知れば、それが即ち自らについて知り、賢者ともなるのじゃ。

 自らの愚から眼をそむけ、自分が賢いという偽りの言葉とイメージによる観念をもって自分を騙しているならば、どれほど多くの知識が在っても賢者ではないのじゃ。
 自分を偽ってる限り進歩は無く、何処にもいけないのじゃ。

 例えば旅行に出ようとする者が、資金も目的も持たないようなものじゃ。
 そのような者は結局何処にもいけないのじゃ。

 同様に自分を偽っている者は、自らの今の状況を判っていないために、進歩できないのじゃ。
 自分の今の状況を知り、どのようになりたいのかはっきり知ってこそ進歩はあるのじゃ。

 今の自分が愚かな者ならば、愚かであると認め、受け入れて自覚する事で、もはや自分について知る賢者となり、進歩もすることが出来るのじゃ。
 今の自分が弱い者ならば、弱い者と認め、受け入れて自覚する事で強き者ともなるのじゃ。

 今の自分が嘘をつく者であるならば、嘘をつく者であると認め、受け入れて自覚する事で正直な者にもなれるのじゃ。
 今の自分が悪事をする悪人ならば、悪事をする悪人と認め、受け入れて自覚する事で善事をする前人にもなれるのじゃ。

 最初に今の自分の状況を受け入れて自覚する事が大事なのじゃ。
 それは苦を滅する道にも通じるのじゃ。

 今まで劣等感や他人との比較などの観念が原因で、自分を過大に偽っていた者には苦しい事かも知れん。
 しかし、勇気を持ってひとたび自分を受け入れれば、大きな喜びが待っているのじゃ。

 多年にわたり原因がわからず苦しんでいた事も、それで無くなるかもしれん。
 自分を率直に認める効果は、それほどに大きいものじゃ。

 そうであるからお釈迦様も自らの愚を認める者は賢者であると言うのじゃ。
 修行に励む者は、自らを認めて賢者となるのじゃ。


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ダンマパダ(法句経)解説 | 19:31:57 | Trackback(0) | Comments(20)
家屋の作者を観るのじゃ。
  お釈迦様はこのように言っておる。

 153 、わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
  家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。
  あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

 154 、 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
  汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
  汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
  心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

 これはお釈迦様が何度も個我の観念を持って生まれ変わり、その元となったのが分別の作用であることを著しているのじゃ。
 
 家屋とは自我であり、個我の観念なのじゃ。
 それを作るのは作り手があり、それが観られればもはや家屋である自我は作られる事もないというのじゃ。

 その家屋の作り手は五蘊では色受想行識の行であり、唯識では末那識にあたるものなのじゃ。
 物事を分別する心の働きであり、りんごとかみかんとかの見分けをする認識の一部なのじゃ。

 この物事を分別し、見分ける働きがある限り自我は生成されつづけ、輪廻も止まることなく続くのじゃ。
 元々輪廻とは個我の観念のある者が、その個我が生死を越えてありつづけると思う故に起こるものなのじゃ。

 個我の観念の無い者には輪廻もまた無くなるのじゃ。
 誤った観念が無ければ個我は消え、真実である意識に回帰して不死の境地にもなるのじゃ。

 個我の観念を成り立たせ、認識させるものが分別と言う心の働きなのじゃ。
 我と他を分け、他と我の間に好悪の感情をもって順列をつける分別が自我の原因なのじゃ。

 分別は肉体があるからそれが我であり、感覚や思考も我のものであるとか我であると認識させるのじゃ。
 そして自分ではないものは他であり、その他の物も自分との好悪とか遠近によって分別されて個人の世界を形作るのじゃ。
 
 それが人の心の作る世界なのじゃ。 

 禅宗三祖僧璨禅師も信心銘に書いておる。

 「至道無難、唯だ揀択を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。毫釐も差有れば、天地懸に隔たる」

 「至上の道は難しいものではない、ただ分別を嫌い、愛するものとか憎むものとかの分別がなければ明白である。
 ほんの僅かでも分別を用いれば、天地も別れるほどの差になる」
 
 このように分別の心を用いればそこに我が起こり、世界もまた生じる事を表しているのじゃ。

 その分別する心を止めるには、ただそれを観察するだけで良いのじゃ。
 「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
  汝はもはや家屋を作ることはないであろう。」
 
 と、お釈迦様も言うとおり、その作用はただ観られるだけで、もはや二度とは起こらなくなるのじゃ。
 自己同一化が観察によって消えるからなのじゃ。
 目覚めた者本人が仮に使用する場合は使う事も可能であるがのう。

 その作用は素早く観難い故に、一切は空であるとして分別の作用を止める方法も存在するのじゃ。
 一切を空として僅かでもその作用が止まるか、動きが鈍くなれば観察も多少は容易になるのじゃ。

 素早く観難い分別の働きも、日々の修行によって滅する事もできるじゃろう。
 修行者は分別をも観るために日々精進し、実践に励むのじゃ。
  


ダンマパダ(法句経)解説 | 17:43:06 | Trackback(0) | Comments(18)
暴力によって生きものを害せぬようにするのじゃ。
 お釈迦様はこのように言っておる。

 129、すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

130、すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

131、生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132、生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

 これこそ不変の真理と言うべき言葉なのじゃ。

 暴力によって衆生を害する事は常に悪であり、非難されるべき事なのじゃ。
 暴力によって衆生を害しない事は常に善い事であり、称えられるべき事なのじゃ。

 しかし、何人かの世の者はこの真理を知らず、互いに害しあっているのじゃ。
 カルトとか過激派とか暴力によって人々を支配しようとする者達はいつでも居るじ'
ろう。

 そのような者達は様々な理屈を述べて暴力を正当化し、人を騙そうともしてくるじゃろう。
 洗脳された者はそれが自らを苦しめる道である事さえ知らないのじゃ。
 

 これから暴力的なカルトとか過激思想の団体などが、身近に現れるかも知れん。
 賢い者はこの真理の言葉を知り、悪しき行いと善き行いを見分け、騙されないようにするのじゃ。


テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 21:14:15 | Trackback(0) | Comments(14)
自分を頼るのじゃ。
  お釈迦様はこのように言っておる。

 379 、みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。
 修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

 380 、実に自己は自分の主(あるじ)である。
 自己は自分の帰趨(よるべ)である。
  故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

 本来、修行とは自分が自分のためにやるものじゃ。
 安楽になるために、死を超えるために、自ら行い、他人に対して何も言うべきではないのじゃ。
 故に自分で自分を励まし、自分で自分を反省せよとお釈迦様は言うのじゃ。

 修行すればその結果は自らの心に返ってくるじゃろう。
 人によって気づきがあったり、サマーディに達したり、或いは真の悟りに達する事もあるじゃろう。
 それは他人に分ける事は出来ず、自分一人にしか齎されないものじゃ。

 ここで自分と言われるのは、肉体や感覚や思考等なのじゃ。
 それらは人によっては頼りなく、それを主とするより、頼りがいのある他人や社会や金や権力や神などを頼りにしたくなるものじゃ。
 しかし、そのようなものは存在しない観念であったり、虚偽によるものであったり、この世から移り変わり消えてしまったりするじゃろう。

 そのようなものより、修行によって整えられた自らの体や感覚や思考が、主として頼れるものになるのじゃ。
 止観を修行すれば心は不動になり、苦を滅して安楽になるじゃろう。
 そのように修行によって整えられた心身は、生きている限り主として役に立つものじゃ。

 自分で行い、自分に結果が返る修行が、この世で人が得られる唯一のものともいえるじゃろう。
 金も権力も名声も死によって消えてしまうが、修行によって得た境地は、空しくはならないものじゃ。
 自分の主である自分を、修行によって整えれば、堅固なより所になり、永遠の安楽が得られるのじゃ。
 お釈迦様の言葉を読んで更に精進するのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 20:02:06 | Trackback(0) | Comments(10)
感覚を制するのじゃ。
 今回はダンマパダに記された修行法について書くのじゃ。

 360 、 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361 、身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。
心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。
修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。


 このように目や鼻などの感覚器官を慎むというのは、ヨーガでは制感法と呼ばれるのものじゃ。
 この法は感覚を制する事で、深い瞑想の境地に入る方法なのじゃ。
 感覚を制すれば深い瞑想に入り、安楽が生じるのじゃ。

 瞑想が深くなれば、自然に感覚が無くなり、安楽の境地になるものであるが、制感の法は、感覚を制する事でその境地を再現し、深い瞑想に入る方法なのじゃ。

 瞑想をしていても物音などがすると、一々それに気を散らされたりする事があるじゃろう。
 自我のイメージを持っている人間は、普通の生活をしていても、瞑想中でも不安や恐怖から、周りの情報を求めているものじゃ。

 それ故に僅かな物音にも反応してしまうのじゃ。
 予め感覚を制しておれば、そのような事もなくなるのじゃ。


 制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
 目を閉じただけでは未だ見ようという意志が残っているじゃろう。
 見ようとする意志も放棄しなければならない。

 丁度寝る時のように、何か見ようとする意志を捨てるのじゃ。
 目に向けていた注意力を引き上げ、心に向けるように感じる者も居るじゃろう。

 それが出来れば目を開いても、見える物に反応しなくなるのじゃ。
 そうすれば目の感覚を制するのは完成なのじゃ。

 同じように耳に向けていた注意力を止め、何かを聞こうとする意志を捨てるのじゃ。
 耳から音が入ってきても、心に反応が起きないようになれば完成じゃ。
 耳の次は鼻からの嗅覚、舌からの味覚、全身の触感も制していくのじゃ。

 そのようにして次々に感覚を制御していくと、恐れが生じる者も居るじゃろう。
 人は不安や恐れから周囲の情報を求めている故に、それがなくなると恐れが露になるのじゃ。
 そのような恐れを観察し、滅して行けばさらに深い境地に行くのじゃ。

 肉体の感覚が全て消えれば、そこに安らぎが感じられるじゃろう。
 肉体の感覚を超えた、周囲の空間を感じ、そこに意識も感じられるじゃろう。

 それは空無辺処定とか識無辺処定と呼ばれる境地じゃ。
 肉体の感覚という仮設された刺激が消えれば、自然に本来の感覚が蘇るのじゃ。

 さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や何ものかを分別する働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。
 言葉も分別も無い境地に、心は安らぐ。
 
 サマーディの中で自らを認識する仕組みに気づく事が出来たならば、己があり、己のものがあるという謬見は永遠に滅する。
 そして認識をも滅した時、悟りは訪れるのじゃ。

 瞑想をしていても周囲の物音に反応してしまう者や、更なる深い瞑想の境地を求める者はこの制感の行を修行してみると良いのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 20:33:22 | Trackback(0) | Comments(6)
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