■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
大乗六誤三利
 大乗とはお釈迦様の死後に創られたものであり、お釈迦様の真の教えとは異なり、過誤が多いものじゃ。
 真の悟りを得たお釈迦様の英知に及ばない者達が作り上げた故に、お釈迦様の教えを広めるつもりで逆に間違いを広める羽目に陥っているのじや。
 その間違いの中でも次の六つのものが最も愚かであり、人々が広めたり、従ったりしてはならないものなのじゃ。

 ① 生まれつきの身分による差別。

 これは所謂インドのカースト制度と呼ばれるものじゃ。
 お釈迦様は明確にこれを否定しておる。
 しかし、大乗ではこれを承認しておる。
 このことは明らかな誤りであり、お釈迦様の教えからも、今日の人道上の常識からも外れておる。
 大乗を作った者達が実際にはお釈迦様の教えをよく学ばず、理解せず、間違った教えを信奉していたせいじゃろう。

 元々、お釈迦様の時代の古い教えであるヴェーダでは、倒れた巨人が人の元となり僧侶の階級であるバラモンが頭から生じ、武士であるクシャトリアが手から生じ、商人のバイシャが腹から生じ、労働者階級のスードラが足から生じたとあるのじゃ。

 この暗喩はそれぞれの身分の者が社会で果たす役割を示しておるのじゃ。
 バラモンが精神的な指導をして、武士が敵を防ぎ、商人が社会を豊かにして、労働者が社会を進ませるというような意味なのじゃ。
 社会役割説なのじゃ。
 各々が役割を分担するだけで、それぞれの階級に上下の差は無いのじゃ。
 
 お釈迦様はこれを正確に理解し、役割を果たさなければバラモンもバラモンではなく、それぞれの役割に上下もないと正しく教えたのじゃ。
 しかし、後の愚かなバラモン達が新しいヴェーダを捏造し、身分は生まれつきのものであり、バラモンが一番偉いと我田引水の教えを広めたのじや。
 そのように間違った教えを広め、定着してしまった故にインド人達は今も苦しみ、嘲笑を受け、非難を浴びているのじゃ。

 その過ちを大乗は受け入れ、正しいものとしておる。
 これは明白な誤りとして退け、捨てなければならないものじゃ。
 これこそ大乗の最大の誤りと言えるのじゃ。

 ② 女子が悟れないという誤り。

 大乗では女子は悟れないというのじゃ。
 法華経では竜女が一度男になり、それから悟ったなどという無理な話を捏造しておる。
 女子でも修行すれば悟りを得られることは、尼僧の告白であるテーリーガーターにおいて証言されておる。
 女子も男子と同じく、正しく修行すれば悟りを得られるのじゃ。

 ③ 悟りを得るのに何劫もかかる。

 華厳経などでは人が悟りを目指しても、何度も何度も生まれ変わって修行しなければならんというのじゃ。
 今生きている時間では悟りを得るには足りないと書いておる。
 そのような思想も明白な誤りなのじゃ。
 
 お釈迦様が座って七日で悟ったように、本当にやる気があれば今この世で修行するだけで、十分に悟りは得られるのじゃ。

 ④ 阿羅漢の悟りの後に如来の悟りがある誤り。

 法華経では阿羅漢となり、心の悟りを得ていた聖者も後に生まれ変わって如来になるという、無理な話も展開しておる。
 これも従来の仏説より、自らの教えを高める為の嘘なのじゃ。
 一度、阿羅漢となれば真の悟りを得て、もはや生まれ変わらないのじゃ。

 ⑤ 一切空と教える誤り。

 大乗の般若経典では一切が空であると説いておる。
 これはお釈迦様の否定した外道の教えに近いものじゃ。
 外道はこの世には善悪も無く、善悪の報いも無く、修行もその成果もないと説いたのじゃ。

 お釈迦様はこれを否定して、この世には善悪があり、善悪の報いがあり、修行とその成果もあると説いたのじゃ。
 今、これを知らず善悪も修行も成果も無く一切を空と教えたのでは、外道の主張と変わりなくなってしまうのじゃ。
 一切が空ではなく自らの心身と自らの観念を空と観るべきであると、教えるのが正しいのじゃ。

 ⑥ 真のお釈迦様の教えを非難する誤り。

 大乗ではお釈迦様の真の教えを小乗として非難しておる。
 これも大きな誤りなのじゃ。
 教えを非難することは僧がしてはならない戒の一つの筈であるが、それを自ら破り、真の悟りへの道を閉ざす大罪なのじゃ。
 
 大乗にはこのような誤りがあるのじゃ。
 しかし、全てがいかんのではないのじゃ。

 悟りを得る前に行う菩薩の請願は悟った者にこの世に止まらせ、教えを説くのに役に立つものじゃ。
 空の法も適切に用いれば、執着を去り、自我を滅し、認識をも滅することができるじやろう。
 真言や陀羅尼を唱え、神仏と一体化する法も集中の方法としては優れたものじゃ。

 それらの誤りと優点を知り、果実を摘む者が善き果実と悪い果実を見わけて摘むように、修行者は大乗の法をもよく選択して実践するとよいのじゃ。


スポンサーサイト
わしの考え | 21:19:28 | Trackback(0) | Comments(2)
健康に留意するのじゃ。
 老病死という人の持つ根源的な苦の内、未だ悟りを得ず老死は防げなくとも、病は自らの努力でかなり防げるものじゃ。
 人として生まれた幸運を生かし、修行に励むならば肉体の健康にも留意するのが賢い者の執るべき道なのじゃ。

 健康について学び肉体について知ることは又、自分を知る事にも繋がるのじゃ。
 肉体が一つの機構を持って働いている事が判るじゃろう。
 肉体について学ぶ事が無く、何も知らないまま、病気になってから慌てるのは賢い者とは言えないのじゃ。
 修行に限らず人生においてやり遂げたい目的のある者は、全て健康に留意して日を送るべきなのじゃ。

 そうすれば目的を果たせないまま病に倒れるという事もなくなるのじゃ。

 健康に役立つ方法としては西式健康法とか、天真療法とか、気功法、ヨーガなどがあるのじゃ。
 いずれも合理的に考えられ、実行して効果のあるものじゃ。
 わしも自ら試して効果を検証したのじゃ。

 現代の医学も勿論、活用して良いのじゃ。
 既に現代の医学では治せないと知れば、これらの健康法を試してみるのじゃ。

 世間には疑わしい金儲けの為の健康法なども多いが、これらは実際に効果があり、無料で学ぶ事が出来るのじゃ。
 しかし、他の健康法も自ら試して効果があるならば、否定する事も無いのじゃ。
 大体少し試して快いものならば、肉体が喜んでいるから正しいものの可能性も高いのじゃ。
 病に対して効果がなければ意味は無いがのう。
 そのような事に留意して、健康法も研究してみると良いのじゃ。

 そのようにして自分の体によって試した健康法は、他人にも薦めることが出来るのじゃ。
 それも他人の利益を図る善事と言えるのじゃ。
 といっても無理に勧めるものでもないのじゃ。
 病に苦しむ者が助けを必要とした時に教えると良いのじゃ。

 そのように自らの健康に常に留意しておく事は、他人の助けにもなることじゃ。
 自他の利益を図る仏道にも叶っているのじゃ。
 そうであるから全ての者は、生きて目的を果たし、他者をも助ける為に健康に留意すると良いのじゃ。
 



わしの考え | 11:26:05 | Trackback(0) | Comments(4)
自らの責任で苦を軽減するのじゃ。
  人の苦は過去の原因によるよるが、今の選択の結果にもよるものじゃ。
 過去の原因が今も効果を及ぼすのは、今自分自身がそれを受け入れているからなのじゃ。
 それに気づけば今の苦も滅する事が出来るのじゃ。

 過去の原因から人は自分を駄目な者とか、汚い者とか、怠惰な者とか、生きる価値の無い者とか信じ込んでおる。
 それらは過去の原因からのものであるが、今それらを信じることを選択し続けているのは自分なのじゃ。

 もはやそれを信じないとするならば、それらの信念がもたらす苦は軽減されるのじゃ。
 完全に滅するには原因から観察しなければならないが、今苦しむ者には効果があるものじゃ。

 それには先ずそれらの信念が、自らの選択権によってある事を認めなければならんのじゃ。
 他人のせいにしていては、自らの選択権は発揮できないのじゃ。
 
 例えば船に乗る者が梶棒のそばに居ながら、「自分には責任がない」と船の方向を変えるのを拒否しているようなものじゃ。
 自分の責任によって船の方向を変えるのを拒否している事になるのじゃ。

 そのように何でも他人のせいにしていては、自分で信念を変える選択を拒否している事になるのじゃ。
 自分の責任による選択を拒否しているから、目の前にある信念を変える能力も気づかないのじゃ。

 今の自分の信念は、今の自分の選択によっている事を認め、どのような結果になろうと信念を変える事による責任を引き受ける覚悟をしなければ、信念を変える事は出来ないのじゃ。
 一度その覚悟が出来れば、信念を変えるのは簡単なことなのじゃ。

 先ずは「今の自分の選択によって信念はあり、それを自分で変えることが出来る。
 その結果についても自分が全ての責任を負う」
 と、言葉に出して言うか、強く念じるのじゃ。
 そうすれば信念を変える能力が自分にあることがわかるじゃろう。

 そして「自分はもう自分が駄目であるとか汚いということを二度と信じない」
 と、言葉に出して言うか、強く念じるのじゃ。
 同時に駄目な自分のイメージ、汚い自分のイメージなどを理想の自分のイメージに変えるのじゃ。
 そうすれば変わっていくのを感じるじゃろう。

 更にその駄目な自分や汚い自分に対する名前などが付いていたら、それも理想のものと変えるのじゃ。
 ため男というのならば好男にかえるとかするのじゃ。
 人は自分の名前とイメージによって自分を認識している故に、そのように名前とイメージを変える事によって変化して行くのじゃ。

 これらの行を駄目な自分の名やイメージが思い浮かぶ度に、何度も何度も行うのじゃ。
 
 そのように苦を軽減して、心が落ち着いたら観察によって完全に滅するとよいのじゃ。
 実践によって確かめるのじゃ。


わしの考え | 13:37:39 | Trackback(0) | Comments(15)
無我
 お釈迦様が説いた経には、諸法無我とある。
無我とは自我が無い事と思われているが、実はそうではない。
これは真我、つまりアートマンが無という事なのじゃ。
永遠普遍の実体というものは、何処にも無いと観る、それが無我という事なのじゃ。

では、お釈迦様は真我を否定したのかといえば、それも早計じゃ。
お釈迦様がこのような事を言ったのは当時、真我の本当の意味を知らず、それに囚われている者がおったからなのじゃ。
真我ももともとは、修行の為の手法であった。
しかし、年月を経るにしたがってそれに言葉とイメージがつきまとい、却って真我に囚われ、それに自我を投射する者も居た故に、お釈迦様は諸法無我と説いたのじゃ。

言わばお釈迦様は、真我を否定したのではなく、真我の誤った使い方を否定したのじゃ。
諸法は無我であると言えば、アートマンにとりつかれた者も、目が覚める。
そこに言葉とイメージを投射していた者も、囚われなくなる。
その為に説かれたのじゃ。
真我とは良く誤解されておるが、それも又悟りへと導く技術であったのじゃ。
聖典などには真我が無で定義されるものとして、表されておる。
お釈迦様はそれを正しく理解し、解き明かしたに過ぎないのじゃ。
諸法は無我とは、諸法に自我が無いという意味ではなく、アートマンが無いという意味ですらもない。
正しくは、諸法の根源として追求してきたアートマンすらも、無と観よ、という教えなのじゃ。

本来は悟りへの手段であったものも、時が経てば言葉やイメージが投射され、概念として設定されてしまう。
それは阿頼耶識しか認識手段を持たない人間の、習慣でもある。

当時の修行者は、多くが真我を追求しておった。
しかし、アートマンという名前がつけられてしまうと、どうしてもそこに概念が生じてしまう。
その概念に自我を投射し、却って囚われの元になってしまうのじゃ。
それ故に、お釈迦様は、無我と言われたのじゃ。

それはアートマンが無いという事ではなく、アートマンすらも無であると観る事により、アートマンを追求してきた者の心を、無にする効果があったのじゃ。
全てがアートマンであり、そのアートマンすらも無であるとした時、修行者の心は、寄る辺となるなるものを無くし、無念無想に没入する。
そこでは思念も概念も起こる事が無く、夢想のサマーディーが続く。
そして観照が始まるのじゃ。

これはその意味では、真我にとりつかれた者に対する教えと言えよう。
真我に囚われている者には有効な教えと言えよう。

 


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

わしの考え | 21:25:03 | Trackback(0) | Comments(9)
死の喩え
 死とは旅行のようなものとして喩えられよう。
 人は旅行する時には目的地や行き方など調べ、なるべく快適に過ごそうと思うものじゃろう。
 滞在が長くなるほど、沢山の情報を知ろうと思い、集めるものじゃ。
 それによって不安を無くし、事故に備え、楽しい期待も高まる。
 もし長く旅行しなければならないのに、行き先も行き方も判らないのなら、不安に苛まれ、ストレスを多く受け、不安から逃れ様として多くのものに執着するだろう。

 死とは永遠の旅路のようなものじゃ。
 永遠に行かねばならないのに、多くの者は行き先も行き方も判らない。
 ただ恐ろしいものというイメージを投射し、漠然とした不安や恐怖を抱えておる。
 それ故に人々は毎日、不安に苛まれ、金や権力や名声に執着し、互いに争い、この世を苦しみながら生きておる。
 金や権力や名声によって死を超える事など出来はしないのに、不安や恐怖によって正常な思考も無くし、無意味な競争に貴重な時間を失ってしまう。
 人生そのものを、無駄に失ってしまう者も多いものじゃ。
 死の不安が、それら煩悩の原因であるとも言える。
 
 しかし、もし、死を超える事が出来たなら、死によって消える事の無い不死の境地に辿り着いたなら、もはや死の不安に怯える事は無い。
 金や権力や名声に執着する事も無くなり、争わず、この世を楽しみながら生きていけるじゃろう。
 そして死を迎えようという時にも、お釈迦さまの様に楽しいとすら言えるじゃろう。
 死によって変化するものは何であるか、恐れていたもの何なのか、それらを観察し、厭離出来れば、死の不安は無くなり、初めてより良く生きる事が出来るのじゃ。

 死を超えると言う事は、むしろ不安を無くし、より良く生きる事であるとも言えるのじゃ。
 死の不安によって、人々にとってこの世は皆苦であるが、死の不安を超えればこの世も皆楽になる。
 それは決して不可能な事ではない。

 お釈迦様や幾多の先人が成し遂げてきた事なのじゃ。
 同じ人である者に、出来ないという事はありえないものじゃ。
 みんなも修行して、死を乗り越え、楽しく生きるのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

わしの考え | 12:29:03 | Trackback(0) | Comments(4)
次のページ

FC2Ad