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鬼和尚天空

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観察例
 わしの体は今、意志と習慣の力により、擬似的自我と同一性を維持している。
 そのようにする事で、普通の人と同じ言葉と、感覚などを共有する事が出来る。

 今回はその体の一部である右手を、わしは観察してみた。
 右手を観察するのに、手という言葉や、指という言葉を忘れ、子供のように純粋な眼によって、このように観察した。

 それは平たい四角形をしたものであり、五本の突起がついている。
 表面には何本かのしわがある。
 突起のうちの一本は短く、四本は長い。
 突起には間隔をもったしわがあり、そこから曲げる事が出来る。
 突起の先端は固く薄いもので、半分だけ覆われている。
 その反対側には縞模様がある。

 このように観察していくうちに、わしは右手が、自我から離れていく感覚を生じた。
 右手は依然としてそこにあるが、その感覚や動きは、自我から離れた遠いものになり、他のものに感じられる厭離が起こった。
 試しに右手を強く握ると、痛みの感覚があると分かる。
 しかし、それは鈍く、どこか遠くで感じられるようであり、何の思いも起こしはしない。

 右手と比べてみる為に、同じように左手を強く握った。
 鋭い痛みがあり、痛みから不快があり、苦という感情が生じた。
 苦は不安をもたらした。
 このまま続ければ、自分が傷つき、さらに苦しむのではないかという不安があり、直ぐに手を緩めた。
 左手には自我との同一性があり、その習慣に結びついた反射作用が残っている故に、このような反応が起こった。

 再び右手を握り締めた。
 痛みは生じるが、それはやはり切り離されたように、遠く、鈍いものであり、何の感情も引き起こす事が無かった。
 右手は厭離されていた。
 右手は観察により、完全に厭離されている故に、何の反応も起きなかった。

 痛みとはもとより肉体の危険を知らせる、信号の一つに過ぎない。
 痛みは自然な反応であり、それ自身が苦なのではない。
 痛みに対して不快や不安があり、それを除こうとして葛藤を生じる事が苦なのである。
 観察による厭離によって、苦はこのように消えると知るのじゃ。
 
 これが観察による厭離の実験である。
 これは観察の一例に過ぎない。このように観察しなければならない、というのではなく、このように観察すべきであるというものでもない。
 人には生まれ育った環境による違いがあり、その違いに応じて、観察の仕方や言葉による表現の違いがある故に、観察の仕方や言葉による表現は、自ら行い、心に適うものにすべきなのじゃ。
 各人、観察に励み、苦を離れるが良かろう。 


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法Ⅱ | 12:08:13 | Trackback(0) | Comments(2)
観察によって何故、厭離が起きるのか
もともと人の受ける苦は、それ自体は無我にして起きるものじゃ。
 例えば手が傷つけば、直ぐに痛みが起こる。
 その反応は自我があろうと、無かろうと、関係の無い、体の自然な反応なのじゃ。
 自我か無くても、あっても痛みは勝手に起こる。
 しかし、自我を持っている人間は、阿頼耶識の作用で、その痛みに直ぐに自我を投射してしまうのじゃ。

 それによって痛みに「これは私の痛みである」とか「私が傷ついている」という認識を抱いてしまう。
 痛みを自分のもの、自分の苦であると、認識してしまうのじゃ。
 その他の苦も同様に、苦が起きればそこに自我を投射し、自分が苦を受けている、自分の苦であるという認識が生じる。
 言わば苦を自己同一化しているものと言えよう。

 これが人が持ってる、阿頼耶識による苦の自己同一化の成り立ちなのじゃ。

 観察はこの阿頼耶識の自己同一化の働きを、破壊する事が出来るのじゃ。
 観察をすれば、観察したものと、観察する主体との間に、距離が出来る。
 観察したもの「対象」は、観察している者「主体」ではないと、認識させる作用があるのじゃ。
 それにより、観察された苦は、もはや自分のものではなく、自分が苦を受けているのではないという、正しい気付きが生まれる。
 正しい気付きに拠り、苦は自分のものでもなく、自分が苦しんでいるのでもないという自己同一化の破壊が起こる。
 それが厭離と言うものなのじゃ。

 観察によって苦は自分との同一化を破壊され、主体から切り離された対象となる。
 その現象を厭離と呼ぶのじゃ。
 それは苦だけでなく、煩悩や執着、そして自我などの自己同一化をも、破壊する事が出来るのじゃ。
 観察によって厭離が出来れば、自己同一化を破壊された苦は、もはや苦では無くなる。
 ただの肉体や心の自然な反応であり、消えてしまうものであり、思い煩うべきものではなくなる。
 同様に煩悩や執着、自我なども観察によって、主体から切り離され、同一化を破壊され、消えて行くものとなる。

 観察にはこのように厭離を起こさせるという、大きな力がある。
 真に観察こそが王道であり、観察による厭離こそが、王道を行く者の受け取る果実であると言えよう。
 みんなも頑張って観察をするが良かろう。


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悟りを得るための修行法Ⅱ | 21:23:05 | Trackback(0) | Comments(4)
厭離とは何か
 厭離とは観察によって阿頼耶識の影響がない、真の姿を観る事を言う。
 通常の人間は阿頼耶識により、感じられたものに、言葉とイメージを投射しておる。
 手を見れば、それが我が物であり、我の一部であるものであると、言葉やイメージを投射しておる。

 それが観察によって止められると、我が物でもなく、我の一部でもない、ただの道具としての手が、如実に観る事が出来るようになる。
 それが厭離が完全に出来た状態じゃ。

 厭離が完全に出来たなら、例えば手に痛みなどを与えても、確かに痛みは感じられるが、それによって苦しむ事は無くなる。
 手が己の物であり、我が物であれば、痛みは恐るべき物であり、苦しみに他ならないが、道具としての手に痛みと言う肉体の警告を与えても、それ自体が苦ではなくなるのじゃ。

 そのような厭離を手から始って、全身に及ばせれば、肉体が我であり、我とは肉体であるという概念から、完全に自由になれるのじゃ。

 お釈迦様は四聖諦にて、苦を観察せよと説いた。
 苦、苦の集、苦の滅、苦滅の道を説かれたが、観察を知らねばこの四聖諦によってどのようにして苦を滅するのかは、理解出来ないのじゃ。
 長らく誤解されて来たが、四聖諦をただ知識として知った所で、相変わらず苦は人を苛み続ける。
 四聖諦は知識として覚えた所で何の意味も無いものじゃ。
 四聖諦とは本来、苦しみを観察する事で、苦しみからの厭離を説いた教えなのじゃ。

 それを示すいい例があった。
 在る時、お釈迦様のもとへ、子供を無くした女がやって来た。お釈迦様に子供を行き返らせてもらおうとして来たが、お釈迦様は、
 「生き返らせるには、いままで死人が出た事の無い家から水を貰ってこなければならない」
 と、女に告げた。
 女は方々の家を回ってみたが、死人の出なかった家などはなかった。
 しかし、女は苦を脱して、お釈迦様の弟子になったという。

 この話は苦を脱する観察の過程を良く表しておる。
 女は子を無くして嘆いていたのは、愛別離苦と呼ばれる苦の一つじゃ。愛する者と死などで離れ離れになってしまう苦しみじゃ。
 女はこの苦しみに陥っていたが、お釈迦様の教えにより、方々の家を回り、様々な死別に苦しむ人々の姿を見て、己の愛別離苦の苦を客観的に観察することが出来た。そして愛別離苦から厭離する事が出来たのじゃ。
 この女が修行僧なら苦を観察せよと、お釈迦様は言ったであろうが、そうではない者に苦を観察させようと、お釈迦様は家々を回らせたのじゃ。

 普通の者は苦を受けると、それを自らのものであり、自らが苦を受けていると分別してしまうものじゃ。
 しかし、苦を観察し、厭離すれば苦は我が物ではなく、自らが苦を受けているという概念を無くし、苦を離脱する事が出来るのじゃ。
 それこそが四聖諦の真の意味じゃ。
 苦しみと、苦しみの集まり、苦しみの滅するさまを、八っつの正しい道で観る事が真の四聖諦なのじゃ。
 みんなもこの真の四聖諦によって、苦しみを離脱して、悟りを得る為に修行すれば、必ず苦の滅が起こるじゃろう。
 その時まで修行に励むのじゃ。 


悟りを得るための修行法Ⅱ | 21:23:36 | Trackback(0) | Comments(0)
観の行
 観察の行の本行じゃ。

 花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。
 観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。
 人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。

 まず手の平を観察してみるのじゃ。
 花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。
 何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。
 自分の手が自分のものではないような感覚。

 それは厭離という感覚じゃ。
 厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。
 
 普通の人間は自分の手を、阿頼耶識で「自分の手だ」と認識している。
 しつこく観察していると、阿頼耶識による認識は止まり、自分のではない、ただの道具としての手が表れるのじゃ。

 この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。
 肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。

 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
 それは又、別に書くじゃろう。


悟りを得るための修行法Ⅱ | 23:00:42 | Trackback(0) | Comments(0)
観察の行
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。


悟りを得るための修行法Ⅱ | 21:25:36 | Trackback(0) | Comments(0)

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