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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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怒った時こそ許すのじゃ。
 自我のある者は自分を守るために、命が危ういと思った時や正当な権利を侵害されたと思った時、怒りが起こるものじゃ。
 それは自分を守るための心の働きであるから、意志によって起こさないようにしようとすることはできないのじゃ。
 実践を重ねて心が不動になった時から、怒らないことも出来るようになるじゃろう。
 
 それまでには怒りも起こり、それが正当であるとさえ感じられるものじゃ。
 正当な怒りであるから他人を責めたり、二度としないようにと痛めつけようとするじゃろう。
 正当であるからそれも正しいと感じるのじゃ。

 しかし、それは自らを獣以下の存在に陥らせることなのじゃ。
 獣は自分の命が危険になるような事態には怒り狂って戦うのじゃ。
 餌をとられたり、縄張りに入ってこられるという身の危険が感じられれば激しく戦うのじゃ。
 
 それは獣の習俗であるから怒りに任せた行動をしていると、獣と同じ所に生まれるようになるのじゃ。
 怒った時にこそ用心して、注意深く自らの心を観て、寛容を心がけるのじゃ。
 そうすれば自らも許されるのじゃ。

 自分も他人も心の奥深い所では同一と認識される故に、他人にしたことは全て自分に返るのじゃ。
 他人が許せなければ自分も許せないのじゃ。
 他人に辛く当たれば自分にも辛いことをするようになるのじゃ。

 他人を許せば自分も許せるようになるのじゃ。
 そうであるから先ず他人を許すようにするのじゃ。
 他人に優しくすれば、自分にも優しく出来るようになるのじゃ。
 他人を愛すれば、自分を愛して、他人にも愛されるのじゃ。

 そのように他人を許し、常に慈悲をかける者は常に福楽に見舞われ、人の世界以上にも行くことになるのじゃ。
 福楽を求める者は怒った時にこそ、寛容を心がけるのじゃ。
 ただ一時の感情によって獣に落ちるようなことがないようにするのじゃ。
 
 正当な権利を侵害されたと思った時に、自らに怒ってよい、これは怒ってよいてことであると、思う者も居るじゃろう。
 それは攻撃欲を誤魔化す為の隠蔽に過ぎないのじゃ。
 自分は攻撃的な者ではなく、正当な権利のために怒っていると欲を隠蔽しているのじゃ。
 それに気付かず他人を攻撃すれば自らの心に嘘をつき、攻撃欲をも満たす二重の悪を為すことにもなるじゃろう。

 そうであるから怒った時にこそ自らの心を観て、寛容を心がけるべきなのじゃ。
 未だ心を制御できない者が怒りを生じてもそれは仕方のない事じゃ。
 それでも心の中の怒りを観て、寛容を心がければ悪事を避ける事も出来るじゃろう。

 心に怒りを覚えない境地には至らなくとも、怒りを寛容に換えることは意志によって出来ることじゃ。
 正当に思える怒りが起こっても、怒りに正当なものなどないことを思い出すのじゃ。
 怒りは自我から起こるただの心の反応であるだけなのじゃ。
 福楽を求め、苦を避ける者は怒った時にこそ、他人を許すことを心がけるのじゃ。 



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運気向上法 | 12:45:54 | Trackback(0) | Comments(12)
真の幸運を招く法
 人は誰でも幸福と安楽を求めているものじゃろう。
 そのためにさまざまな行いをしているじゃろう。
 しかし、自分では幸福や安楽のためと思いながら、実は幸福や安楽をもたらさない行いをしていることもあるのじゃ。

 例えば真面目に規則を守っていれば、胡福や安楽が来ると思っていたりするのじゃ。
 そしてそのために規則を破るものを弾劾していたりするのじゃ。
 それは自らの幸福と安楽をもたらさないばかりか、破滅の道でさえあるのじゃ。

 実際に真面目に規則を守って暮らしていたのに、不幸になったと言う者も多いじゃろう。 
 それで今まで教わってきたことは嘘だったと知れるならば、それも教訓になるがのう。
 それでも真の幸福の道を知ることの出来ない者も多いじゃろう。

 そもそも真面目に規則を守ることは、社会や組織のためになるから喧伝されていることに過ぎないのじゃ。
 民衆が真面目に規則を守る者だけであれば、社会も秩序が守られると思うから為政者によって教育され、広められているのじゃ。
 それは実際には個人には幸福をもたらさず、社会のためにもならない愚かな洗脳なのじゃ。

 民衆が上から押し付けられた規則を真面目に守るだけであると、為政者のおかしな命令を誰も止められず、ナチスがユダヤ民族を虐殺したようなことも起こってしまうのじゃ。
 ナチスの者達も真面目に規則を守って虐殺を実行して行ったのじゃ。
 それは社会と民衆の全てを破壊してしまったのじゃ。
 ただひたすら真面目に規則を守るという行いは、個人も社会もいずれは破滅に導くだけの愚かな行いなのじゃ。

 規則を守るだけならば、虫にもできることじゃ。
 蟻などは社会を持ち、全て規則に従っているものじゃ。
 規則を守ることで他人に苦を与えていた者が虫に生まれかわっても何の不思議も無いものじゃ。

 昔の中国に過酷な法律を作っていた大臣がいたのじゃ。
 旅人には水をあげてもいかんとか、厳しい法で民を苦しめていたのじゃ。
 後に大臣は没落して無一文で村をさまよいあるいていたのじゃ。
 一軒の家で水を頼んだが、法律があるからと水もくれなかったのじゃ。
 大臣は飢えて死んでしまったのじゃ。
 厳しい規則を他人に課していたものが、自分もその規則で苦しんだのは当然なのじゃ。
 
 とはいえ全ての規則を破って出鱈目に生きるのがよいということもないのじゃ。
 人が行動の基準とすべき真の法がある。
 それに従えば個人は幸福と安楽がもたらされ、社会や国家も繁栄するものじゃ。
 それは一人一人の心の中にあるものじゃ。
 
 それが慈悲なのじゃ。
 慈悲の心に従って行いをすれば、人には幸運がつき従い、組織は繁栄するものなのじゃ。
 慈悲に従って全てを行う人や組織は、周りの者や組織もありがたいと思うから、周囲に支えられて繁栄するのじゃ。
 規則ばかりを押し付ける人や組織は周りも無い方が善いと思うから、衰退していくしかないのじゃ。

 本来は社会の規則も人の利益を図るものであったはずなのじゃ。
 しかし、ただ規則を守ればよいとだけ思えば、人を苦しめるものともなるのじゃ。
 お釈迦様も多くの戒律を作ったが、迦葉が年をとって戒律を厳格に守るのも苦しかろうと、少しは戒を破ってもよいとよいと勧めたのじゃ。
 
 規則に従って人の苦を増す者は、いずれ自分が苦しむ時になれば規則によって更に苦が増すことになるじゃろう。
 時には規則を破っても人の利益を図るものは、自分が苦境に陥った時に他人が規則を破ってでも助けることがあるじゃろう。
 慈悲に従って全てを行うことが、自他の繁栄を図る最も賢いやり方なのじゃ。

 人が未だ修行が足りなくて智慧が無くとも、慈悲という基準に従うことで真の繁栄の法を実践できるのじゃ。
 自らと組織の繁栄を願う者は、慈悲を自らの行いの基準として実践に励むのじゃ。
 


運気向上法 | 11:55:08 | Trackback(0) | Comments(12)
善悪は心によって成されるのじゃ。
  お釈迦様は福楽を求めるならば、悪いことをせずに善い事をするのじゃ、と教えておる。
 そのような善悪も、心によって成されることをも教えているのじゃ。
 行為とその結果がどうであろうと、心に悪意があれば悪であり、善意があれば善いことなのじゃ。

 例えば道の真ん中にでかい石が転がっていたとしよう。
 このでかい石を悪意のある者が、
 「道の真ん中に転がっていてもみんな気付いて避けてしまうから、道の端に転がして誰かを転ばそう」などと考えて道の端に転がせば、悪となるのじゃ。

 善意を持つ者が、
 「このような石が道の真ん中にあれば、道行く人が躓くかも知れんから道の端に転がしておこう」と、考えて道の端に石を転がせば、善となるのじゃ。

 このように道の真ん中にあった石を道の端に転がすという、行為はまったく同じでも、心に悪意があれば悪となり、善意があれば善となるのじゃ。
 そしてそれぞれに相応しい報いを、心がもたらすのじゃ。

 このような基準を知らなければ、善い事をしているつもりで善くない事をしている事もあるものじゃ。
 そのような例は多くあるじゃろう。

 本来は善い事として始めた事が、次第にただの習慣となり、やがては欲や見栄のために行うようになれば、もはや善ではなくなるものじゃ。
 或いは常日頃から人のためにと掃除などをしていたが、ある日心に怒りがあるまま習慣として掃除をしていれば、善いことではなくなるのじゃ。

 そのように善事とは心で成される故に、自らの心の持ちようで善も悪になってしまう事があるのじゃ。
 他の人のためにと慈悲の心から行うのが、本当の善事なのじゃ。

 例え莫大な金銭を施そうとも、見栄や何かの得をするために行うならば善ではないのじゃ。
 僅かな施しでも哀れみの心で行えば善事となるのじゃ。

 善を成そうとする行いが、善ではなくなってしまわないように、常日頃から自らの本心をかえりみて、何事かを成すときにこれは慈悲からの行いなのか、悪意や怒りや欲から行おうとしているのか吟味すべきなのじゃ。
 そうすれば心も整えられ、善事を間違わずに行う善人となり、福楽も付き従うようになるのじゃ。
 自らの本心を観察しながら、実践あるのみなのじゃ。


運気向上法 | 12:37:30 | Trackback(0) | Comments(10)
価値基準を自ら創るのじゃ。
 人間は大抵の場合、誰かに教え込まれた価値基準を持っているものじゃ。
 両親とか、保護者とか、友人などに教えられた価値基準を、そのまま死ぬまで持っていたりするのじゃ。

 それは必ずしも善いものであるとは限らないのじゃ。
 環境や状況によっては生きるのにも困難になるものもあるのじゃ。
 例えば犯罪を行うように奨励するものすらあるのじゃ。
 そのような価値基準があったならば、人は正しい道を歩もうとしても、どうしても犯罪を行ってしまったりもするのじゃ。

 人々が知識では悪い事と判っていながら、つい犯罪を行ってしまうのもそのせいなのじゃ。
 お釈迦様が善い友とだけ付き合い、悪い友とは付き合わないようにせよ、というのもそのためなのじゃ。
 悪い価値基準を持つものと付き合っていれば、その価値基準をいつの間にか受け入れてしまい、自分も悪い行いをするようにもなってしまうのじゃ。

 悪い環境に育った者は、窃盗などの軽い犯罪より、強盗のような重い犯罪のほうが勇気があって偉い、というような価値基準を受け入れて持ってしまったりするのじゃ。
 友人達の中でも、重い犯罪のほうがえらいとか誉められたりすると、それがやっぱりえらいのだと思ってしまうのじゃ。

 そのような価値基準が出来てしまう故に、お釈迦様は友を選ぶようにというのじゃ。
 両親などは選べない故に、無条件にその価値基準を受け入れてしまうのじゃ。

 そのように無条件に受け入れた価値基準により、自分でやりたいことも出来なかったりするのじゃ。
 勉強が出来るものだけが偉いとか、競争に勝つものが偉いとか、医者とか政治家になることだけが偉いとかの価値基準を植えつけられ、一生逃れられなかったりするのじゃ。
 そのために好きな事も出来ずに一生を棒に振ったりするのじゃ。

 そのような無意味な価値基準も、観察する事によって滅する事が出来るのじゃ。
 自分が苦に思っている事や、やめたいのにやってしまう行いや、出来るのにやれない行いなどがあれば、その原因となる価値基準を自分の心の中に探すのじゃ。
 それがどのように植えつけられたかも、探してみるのじゃ。

 親とか親戚などから植え付けられた価値基準は、長い間に渡って経験したものであるから、幾つも原因となる記憶があったりするのじゃ。
 その場合も原意から価値基準が起こり、行いも起こると観察するのじゃ。
 そしてそれが無ければ誤った価値基準も無く、行いも無いと観察するのじゃ。
 そうすれば誤った価値基準も消えるじゃろう。

 そして真に福楽をもたらす価値基準を自ら作り出し、受け入れるのじゃ。
 人として生まれたならば多くの衆生に慈悲を施して行く事が最も尊い、真に福楽をもたらす価値基準なのじゃ。
 そして自らの心を整え、清める事も尊い事と受け入れるのじゃ。

 日々その基準を元に行いを考え、時にはその基準通りに行いが出来たか省みる事で、そのような基準を自らの心の内に確立する事が出来るじゃろう。
 そのようにすれば行いも日々改められ、福楽も付き従うようになるじゃろう。
 善い報いは増え、悪い報いは消えていくようになるのじゃ。
 修行者はそのようにして自らの内にある価値基準をも整え、福楽を楽しむ者となるのじゃ。


運気向上法 | 23:16:14 | Trackback(0) | Comments(10)
競争によって滅び、慈悲によって栄えるのじゃ。
  人々が集まって暮らす社会では、競争と慈悲による助け合いの、二つの原理があるものじゃ。
 競争は人の心を捉えやすく、行いも熱中し易いものじゃ。
 慈悲は人の心の奥にあり、日常では中々現れにくく、行いもつい忘れ勝ちじゃろう。

 社会は競争によって強い者、賢い者だけが得をすると考え、弱き者、劣った者を押しのけ、貶めればいずれは滅ぶじゃろう。
 何故ならば競争する者は一時は強く、賢く立ち回って勝者になったとしても、いずれは弱く、頭脳も衰えるのが無常の法則であるからなのじゃ。

 そのような法則も知らずに、一時の隆盛を鼻に掛けて驕り高ぶり他人を酷く扱えば、やがて力が劣って敗者になる時、他者に同じように扱われるじゃろう。
 競争のみを原理として生きれば、いずれ誰もが敗者になるのは免れないのじゃ。

 最近は人工知能の研究も進んできて、コンピューターに任せれば人よりも上手く出来るような仕事さえあるというからのう。
 人が自らの力で幾ら競争に勝とうと、もはや及ばなくなる事にもなるじゃろう。

 しかし、人の世界も競争のみによって成り立っているのではないのじゃ。
 人々が互いに慈悲を以って助け合う事もまた、人の世のあり方なのじゃ。
 
 慈悲を以って助け合えば勝者も敗者も無く、皆が福楽を得るのじゃ。
 力のあるものが力によって助け合う事が無ければ、力は永遠に失われるのじゃ。
 力によって助け合えば、力は永久にあるじゃろう。

 富める者が富によって助け合う事が無ければ、富は永遠に失われるじゃろう。
 富によって助け合えば、富は永久に無くなる事も無いのじゃ。 

 智慧のある者が智慧によって助け合う事が無ければ、智慧も永遠になくなるのじゃ。
 智慧によって助け合えば、智慧は永久に無くなる事も無いのじゃ。

 今、どれほどの力や富や智慧があっても、それは何時までもあるものではないのじゃ。
 他人を助けるために使ってこそ、それらを永久のものにする事が出来るのじゃ。

 今世にあって力や富や智慧を持っている者は、それらに奢ってつい助け合い、分かち合う事を忘れ勝ちになるかもしれんが、そのような道理があることを知って慈悲を以って他人に尽くすが良いのじゃ。
 そうすれば力や富や智慧も己の身を離れる事は無く、福楽も常に得る事が出来るじゃろう。


運気向上法 | 12:39:02 | Trackback(0) | Comments(8)
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