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鬼和尚天空

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善悪は心によって成されるのじゃ。
  お釈迦様は福楽を求めるならば、悪いことをせずに善い事をするのじゃ、と教えておる。
 そのような善悪も、心によって成されることをも教えているのじゃ。
 行為とその結果がどうであろうと、心に悪意があれば悪であり、善意があれば善いことなのじゃ。

 例えば道の真ん中にでかい石が転がっていたとしよう。
 このでかい石を悪意のある者が、
 「道の真ん中に転がっていてもみんな気付いて避けてしまうから、道の端に転がして誰かを転ばそう」などと考えて道の端に転がせば、悪となるのじゃ。

 善意を持つ者が、
 「このような石が道の真ん中にあれば、道行く人が躓くかも知れんから道の端に転がしておこう」と、考えて道の端に石を転がせば、善となるのじゃ。

 このように道の真ん中にあった石を道の端に転がすという、行為はまったく同じでも、心に悪意があれば悪となり、善意があれば善となるのじゃ。
 そしてそれぞれに相応しい報いを、心がもたらすのじゃ。

 このような基準を知らなければ、善い事をしているつもりで善くない事をしている事もあるものじゃ。
 そのような例は多くあるじゃろう。

 本来は善い事として始めた事が、次第にただの習慣となり、やがては欲や見栄のために行うようになれば、もはや善ではなくなるものじゃ。
 或いは常日頃から人のためにと掃除などをしていたが、ある日心に怒りがあるまま習慣として掃除をしていれば、善いことではなくなるのじゃ。

 そのように善事とは心で成される故に、自らの心の持ちようで善も悪になってしまう事があるのじゃ。
 他の人のためにと慈悲の心から行うのが、本当の善事なのじゃ。

 例え莫大な金銭を施そうとも、見栄や何かの得をするために行うならば善ではないのじゃ。
 僅かな施しでも哀れみの心で行えば善事となるのじゃ。

 善を成そうとする行いが、善ではなくなってしまわないように、常日頃から自らの本心をかえりみて、何事かを成すときにこれは慈悲からの行いなのか、悪意や怒りや欲から行おうとしているのか吟味すべきなのじゃ。
 そうすれば心も整えられ、善事を間違わずに行う善人となり、福楽も付き従うようになるのじゃ。
 自らの本心を観察しながら、実践あるのみなのじゃ。


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運気向上法 | 12:37:30 | Trackback(0) | Comments(10)
価値基準を自ら創るのじゃ。
 人間は大抵の場合、誰かに教え込まれた価値基準を持っているものじゃ。
 両親とか、保護者とか、友人などに教えられた価値基準を、そのまま死ぬまで持っていたりするのじゃ。

 それは必ずしも善いものであるとは限らないのじゃ。
 環境や状況によっては生きるのにも困難になるものもあるのじゃ。
 例えば犯罪を行うように奨励するものすらあるのじゃ。
 そのような価値基準があったならば、人は正しい道を歩もうとしても、どうしても犯罪を行ってしまったりもするのじゃ。

 人々が知識では悪い事と判っていながら、つい犯罪を行ってしまうのもそのせいなのじゃ。
 お釈迦様が善い友とだけ付き合い、悪い友とは付き合わないようにせよ、というのもそのためなのじゃ。
 悪い価値基準を持つものと付き合っていれば、その価値基準をいつの間にか受け入れてしまい、自分も悪い行いをするようにもなってしまうのじゃ。

 悪い環境に育った者は、窃盗などの軽い犯罪より、強盗のような重い犯罪のほうが勇気があって偉い、というような価値基準を受け入れて持ってしまったりするのじゃ。
 友人達の中でも、重い犯罪のほうがえらいとか誉められたりすると、それがやっぱりえらいのだと思ってしまうのじゃ。

 そのような価値基準が出来てしまう故に、お釈迦様は友を選ぶようにというのじゃ。
 両親などは選べない故に、無条件にその価値基準を受け入れてしまうのじゃ。

 そのように無条件に受け入れた価値基準により、自分でやりたいことも出来なかったりするのじゃ。
 勉強が出来るものだけが偉いとか、競争に勝つものが偉いとか、医者とか政治家になることだけが偉いとかの価値基準を植えつけられ、一生逃れられなかったりするのじゃ。
 そのために好きな事も出来ずに一生を棒に振ったりするのじゃ。

 そのような無意味な価値基準も、観察する事によって滅する事が出来るのじゃ。
 自分が苦に思っている事や、やめたいのにやってしまう行いや、出来るのにやれない行いなどがあれば、その原因となる価値基準を自分の心の中に探すのじゃ。
 それがどのように植えつけられたかも、探してみるのじゃ。

 親とか親戚などから植え付けられた価値基準は、長い間に渡って経験したものであるから、幾つも原因となる記憶があったりするのじゃ。
 その場合も原意から価値基準が起こり、行いも起こると観察するのじゃ。
 そしてそれが無ければ誤った価値基準も無く、行いも無いと観察するのじゃ。
 そうすれば誤った価値基準も消えるじゃろう。

 そして真に福楽をもたらす価値基準を自ら作り出し、受け入れるのじゃ。
 人として生まれたならば多くの衆生に慈悲を施して行く事が最も尊い、真に福楽をもたらす価値基準なのじゃ。
 そして自らの心を整え、清める事も尊い事と受け入れるのじゃ。

 日々その基準を元に行いを考え、時にはその基準通りに行いが出来たか省みる事で、そのような基準を自らの心の内に確立する事が出来るじゃろう。
 そのようにすれば行いも日々改められ、福楽も付き従うようになるじゃろう。
 善い報いは増え、悪い報いは消えていくようになるのじゃ。
 修行者はそのようにして自らの内にある価値基準をも整え、福楽を楽しむ者となるのじゃ。


運気向上法 | 23:16:14 | Trackback(0) | Comments(10)
競争によって滅び、慈悲によって栄えるのじゃ。
  人々が集まって暮らす社会では、競争と慈悲による助け合いの、二つの原理があるものじゃ。
 競争は人の心を捉えやすく、行いも熱中し易いものじゃ。
 慈悲は人の心の奥にあり、日常では中々現れにくく、行いもつい忘れ勝ちじゃろう。

 社会は競争によって強い者、賢い者だけが得をすると考え、弱き者、劣った者を押しのけ、貶めればいずれは滅ぶじゃろう。
 何故ならば競争する者は一時は強く、賢く立ち回って勝者になったとしても、いずれは弱く、頭脳も衰えるのが無常の法則であるからなのじゃ。

 そのような法則も知らずに、一時の隆盛を鼻に掛けて驕り高ぶり他人を酷く扱えば、やがて力が劣って敗者になる時、他者に同じように扱われるじゃろう。
 競争のみを原理として生きれば、いずれ誰もが敗者になるのは免れないのじゃ。

 最近は人工知能の研究も進んできて、コンピューターに任せれば人よりも上手く出来るような仕事さえあるというからのう。
 人が自らの力で幾ら競争に勝とうと、もはや及ばなくなる事にもなるじゃろう。

 しかし、人の世界も競争のみによって成り立っているのではないのじゃ。
 人々が互いに慈悲を以って助け合う事もまた、人の世のあり方なのじゃ。
 
 慈悲を以って助け合えば勝者も敗者も無く、皆が福楽を得るのじゃ。
 力のあるものが力によって助け合う事が無ければ、力は永遠に失われるのじゃ。
 力によって助け合えば、力は永久にあるじゃろう。

 富める者が富によって助け合う事が無ければ、富は永遠に失われるじゃろう。
 富によって助け合えば、富は永久に無くなる事も無いのじゃ。 

 智慧のある者が智慧によって助け合う事が無ければ、智慧も永遠になくなるのじゃ。
 智慧によって助け合えば、智慧は永久に無くなる事も無いのじゃ。

 今、どれほどの力や富や智慧があっても、それは何時までもあるものではないのじゃ。
 他人を助けるために使ってこそ、それらを永久のものにする事が出来るのじゃ。

 今世にあって力や富や智慧を持っている者は、それらに奢ってつい助け合い、分かち合う事を忘れ勝ちになるかもしれんが、そのような道理があることを知って慈悲を以って他人に尽くすが良いのじゃ。
 そうすれば力や富や智慧も己の身を離れる事は無く、福楽も常に得る事が出来るじゃろう。


運気向上法 | 12:39:02 | Trackback(0) | Comments(8)
無財の七施
 みんなは「無財の七施」というものを知っておるかな?
 お釈迦さまが「雑宝蔵経」で教えられたお金がなくともお布施が出来る方法じゃ。

 まずは眼施 眼の施しじゃ。慈眼施ともいう人々をやさしい目で見ることじゃ。
 次に和顔施 優しい笑顔で人々に接することじゃ。
 愛語施 優しい言葉をかけることじゃ。
 身施 体を使ってボランティアなどをすることじゃ。
 心施 心配りや気遣いなどをすることじゃな。
 牀座施 席を譲ったりすることじゃ。
 房舎施 家に泊めてやったりすることじゃ。

 まとめて言えば人に優しくすることじゃな。このように人々に優しくすることで、お金を布施するのと同じ功徳があるとお釈迦さまは言われたのじゃ。
 金などよりも心が大切なのじゃ。
 心を施すことが真のお布施なのじゃ。

 このような布施を知れば、オウムや他のカルトなどのように、金ばかりを要求する者達が所詮ニセモノの詐欺集団でしかないことが判るじゃろう。
 金を要求するのは神仏を信じず、真理も知らぬ者達なのじゃ。

 お釈迦さまの真の教えは、金よりも心を大事にする事なのじゃ。善を行い、悪は為さず、心を清める事が真の修行の第一歩なのじゃ。
 例え悟りを得ようとは思わなくとも、この世に生まれた者は、「無財の七施」のような多くの善い事を行い、善い者となるのじゃ。そうすれば死んでも善い所に生まれ変わるじゃろう。
 みんな頑張るのじゃ。


運気向上法 | 21:49:21 | Trackback(0) | Comments(10)
運気を向上させる方法Ⅱ
 試練にあっても善いことを続けていれば、自然に運気は向上し、お金や欲しかったものが手に入るようになるじゃろう。
 しかし、そういう時こそ気をつけねばならない。

 お金などが入ってくるようになると、良いお金と共に、悪いお金も入ってくるようになる。
 良いお金とは労働や他人に与えられたなどの、正当な理由で手に入ったもの。
 悪いお金とは拾ったり、何かの間違いで手に入ったものじゃ。

 要するに与えられた物が良いお金じゃ。
 与えられていない物は悪いお金なのじゃ。
 与えられていない物は、決して手にしてはいかん。
 その途端に再び運気は下がり、再び試練からやり直しじゃ。
 大抵の人間はこの試練と試しの間を上下しておる。

 皆もこの試験と試しを知っていれば、繰り返す事はなくなり、次第に運気も向上していくじゃろう。

 世には多くの開運法とか、運を良くする技などが宣伝されておるが、それらが効果があったりなかったりするのも、この善い事をする事で、善根が植えられ、やがて良い報いが来るということを知らないからじゃ。
 善い事をし続ければ善い因が重なり、善い事が起きる果を受ける事が出来るのじゃ。

 茄子の種を植えれば茄子の実が出来、カボチャの種を植えればカボチャの実が出来るように、善い事の因を積み重ねれば善い果を受け、悪い事の因を積めば悪い果がやってくる。
 これが因果の法則と呼ばれるものじゃ。

 もともと善い事をしている者は開運法などをしなくとも、善い事が起きるが、悪い事ばかりしているものは、どんな開運法をしようと善い事は起きないものじゃ。
 運気を必ず向上させようと思う者は、善い事をするのが一番良いのじゃ。

 みんなもこの因果の法則を使って、運気を向上して頂きたいものじゃ。



運気向上法 | 14:35:20 | Trackback(0) | Comments(12)
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