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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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観察の行
 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。


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悟りを得るための修行法Ⅱ | 21:25:36 | Trackback(0) | Comments(0)
わしを疑え。
 このブログを読む者の中には未だ疑いを離れてはいない者もおるじゃろう。
 しかし、それでいいのじゃ。

 お釈迦様は「なにものも信じるな、疑え」と、言われた。
 お釈迦様の教えは信じることが全てというような、脆弱な教えではない。
 わしの書く事も疑うがいい。

 疑い、自ら試してみるがいいのじゃ。
 信じようと信じまいと、数息観を行えば意識は集中し、不動の心を得られる。
 それが本当かどうか、一つ一つ試して見るのじゃ。
 試して、己の体で本当だと知ることが重要なのじゃ。

 仏教は実践が全てじゃ。
 実践によって真実と妄想を区別することが出来る。
 知識だけを追うものは、疑いと妄想の網に落ち込み、なにものも得ることがない。

 偽りの認識に囚われている人間は、真実を知ることすら出来ないのじゃ。
 認識の転換を果たして、漸く真実を知る事の出来る体質になるのじゃ。
 そのような者が目覚めた人、仏陀と呼ばれる。



わしの考え | 12:33:39 | Trackback(0) | Comments(2)
本物の悟りを得た者の見分け方
 本物の悟りを得た者と、そうではないニセモノの見分け方はどうすればいいのか。

 一般の人でも簡単に判るのは、次の三つの違いによるものである。

 悟りを得た者は権力に執着しない。ニセモノはそうではない。

 悟りを得た者は金銭に執着しない。ニセモノはそうではない。

 悟りを得た者は名声に執着しない。ニセモノはそうではない。

 このような誰にでも判るような、明白な違いがある。
 お釈迦様は釈迦族の王子としての権力の座を捨て、金銭を身につけず乞食行をして、身を養っていた。バラモンの者が論争を仕掛けても沈黙を保ち、名声に傷がつくと弟子達が狼狽するのも気にかけなかった。
 そのような態度こそ真に悟った者の態度と言えるじゃろう。

 



 


わしの考え | 21:22:25 | Trackback(0) | Comments(6)
わしが悟りを得たと言う訳
 従来の仏教の導師達は、悟りを得ても自分が悟りを得たとは言明しなかった。
 その理由は、悟りを一つの固定した観念として扱われる事を嫌った為であり、言葉では表現出来ない境地を、言葉にする事の無意味を避ける為でもあった。
 故に禅では悟りは文字を使わない不立文字であるとし、悟りなどはない、何もないのが悟りであると、告げてきた。

 しかし、近年になってオウムなどのカルト宗教が、インドに行って悟ったなどと称して若者達を騙し、テロを起こすという事件が起こってしまった。
 宗教を金儲けの道具としているカルト宗教は、未だにこのような、インドに行って悟ったなどと称する詐欺を行っている。

 このような詐欺が横行するのは、我々仏教徒が悟りというものが、どのようなものであるのか、明確にして来なかった事にも一因がある。
 我々悟りを得た導師は、自ら悟りを得たと宣言して、彼らカルトの詐欺師が明らかに悟っていないと言明し、喩え最後の境地は言葉に出来なかろうと、理解し得る限界までは、言葉を以って説明すべきであったのじゃ。
 それをしてこなかった為に、インドで悟りを得たと称するニセ導師が、金や権力を求めて純真な若者達を騙せる状況を作ってしまったのじゃ。
 そして今、オウムは未だ存続し、インドで悟りを得たと称するニセ導師達も、何人も居る。

 もはや伝統の上に胡座をかき、怠惰の言い訳として文字を使えない境地などと言っているべきではないのじゃ。
 悟りを得た者はそう宣言し、限界まで言葉による説明をしなければ、法慳貪の罪は逃れられぬ所じゃ。
 それ故にわしは悟りを得たと宣言し、悟りの境地を言葉にして説くのじゃ。  


わしの考え | 23:11:37 | Trackback(0) | Comments(2)
わしは何故ネットで法を説くのか。
 わしがここで説教するのは、お釈迦様と同じように、悟りを求める者を導くためじゃ。
 お釈迦様は自分の足でインド中を歩き回り、人々を教えて回った。
 奴隷階級のものにも、バラモンにも分け隔てなく平等に教えを説いた。


 もし、わしが紫の衣を着て、金の座布団に座り、セレブにしか教えを説かないとしたら、お釈迦様の弟子とは言えまい。
 それ故にわしも悟りを求める者に平等に教えを説くのじゃ。

 真面目な質問には、聞かれれば答える。
 それがわしの仕事じゃ。


わしの考え | 22:34:26 | Trackback(0) | Comments(0)
雑念の処理
 座禅をしていると、集中しようとしても思考や連想が頭の中を流れ、それに囚われてしまうことがある。
 そのような思考や連想を雑念と呼ぶ。

 雑念を無理に止めようとすると、その思いが又雑念となり、再び雑念に流されてしまう。
 雑念を止めるには、一つ一つの思考を意識せず、流れるままにしておくことじゃ。
 例えば心を川に、雑念をその川に浮かぶゴミのようなものとして喩えるなら、川の流れに浮かぶゴミを見ず、川全体を見るようにするのじゃ。

 流れていくゴミをそのままに、数息観であれば呼吸に集中し直す。
 そのようにすれば、雑念は自然に消えていく。


悟りを得るための修行法 | 20:32:29 | Trackback(0) | Comments(0)
姿勢が大事じゃ2
 快とは丹田が真っ直ぐに揃った時に、上丹田より生じるこころよい感覚じゃ。
 それは例えば、良い景色などを見た時の感激にも似ておる。
 背骨を伸ばし、上下の丹田が完全に重なれば、体の中心を気が自然に上昇し、上丹田に達する。
 すると背中に電気が走ったように感じ、全身に心地よさが広がる。
 鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つような者もおる。

 この感覚と快を得るための上中下の丹田の統一は、言葉で伝えるのは難しい。
 身体の微妙な感覚であり、それを真に身に付けるには、自ら研究する他は無い物じゃ。
  初心の者は取り合えず背中を真っ直ぐにして、頭の中心と下丹田にゴルフボールくらいのボールがあり、それを上から垂直に合わせるようにイメージするのじゃ。
 ボールが重なれば自然に快が生じる故に、そこが正しい姿勢の位置であると判るであろう。


悟りを得るための修行法 | 20:13:59 | Trackback(0) | Comments(0)
仏教は哲学や思想ではない。
 世の多くの学者達はお釈迦様の教えを、哲学や思想として捉えておる。
 しかし、それは誤りなのじゃ。
 縁起も、無常も、無我も、空も悟りを得るための心理的なテクニックに過ぎないのじゃ。
 思想や一般論として捉えては、仏教というものを理解していない事になる。

 お釈迦様は洗濯屋には心の汚れを取れと説き、楽人には楽器の弦がゆる過ぎず、張り過ぎないように心を調節せよと説いた。
 お釈迦様が教えられたのは思想でも、一般論でもなく、悟りに導く手法であり、心理的なテクニックなのじゃ。

 もし縁起が無いとして人を導けるなら、そのように説いたじゃろう。
 目覚めた者の智恵は、目覚めた者にしか判らないものじゃ。
 おぬしらもお釈迦様の教えの真の意味が知りたかったら、遠くへ行って他人の教えを聞く必要は無い。
 今から数息観を初め、己の心を観よ。


悟りの真実 | 21:17:34 | Trackback(2) | Comments(0)
ダンマパダにおける名称と形態について。
 ダンマパダ(法句経)の一句じゃ。

【 第十七章 怒 り 】


221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

 ここに名称と形態と書いてあるのが判るじゃろう。
 まさにこれが悟りを得なければ見過ごしてしまうような言葉じゃ。

 人間は名前と形とで全てを認識しておる。
 今風に言えば言葉とイメージとでも言おうか。
 人が何かを認識したというのは、この 言葉とイメージを記憶し、内外に当てはめることが出来るということなのじゃ。

 それは当然、自我を認識する時も同様。
 人は言葉とイメージによって自分を認識し、この体や心の作用に当てはめているのじゃ。
 この言葉に自我からの反発を覚える者も居るだろう。
 結局、お釈迦様の言葉は悟りを得たものにしか判らないものじゃ。

 2000年前に、既に認識のメカニズムを看破していたお釈迦様の真の偉大さは、言葉に尽くせぬものがあると言えよう。

 お釈迦様は悟りを得る前には漠然と偉い人と思っていただけだが、その言葉が理解出来る程、ますます偉大さが判って来たものじゃ。


テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 21:10:16 | Trackback(0) | Comments(0)
自己否定と自己観察
 自己否定は否定する自己を肥大させる自己満足に過ぎない。
 自分を否定してみせる人格を肯定する遊戯であり、却って自我を肥大させるものじゃ。

 真の自我の解体とは、あくまで自己観察と、その延長にある観照によってのみなされるものじゃ。

 例えば日常において、道を歩いていると女子が下着などを晒していたのを見て、欲情したとしよう。
 そんな時に己をすけべいだなどと批判したり、これからは欲情しないようにと思うのは自己否定じゃ。
 自己観察は己の行為や感情を批判も肯定もせず、ただ見つめるのじゃ。

 女子の下着を見て欲情したのなら、今、自分は欲情した、もっと見たいと思っている、などと観察し、それを認め、一切の批判も否定もしない。
 ただ心の動きを黙々と観察するのみじゃ。

 或いは仕事で嘘を付かねばならなくなった時も、自分は今、仕事の為に嘘をついている、嘘を付いて金を稼いでいる、と、観察し、認めて批判も否定もしない。

 日常においてこのように己を、ただ黙々と観察するならば、瞑想に入ったとき、己の心が容易に観察出来るようになる。

 真の自己観察には否定も、批判も、称賛も、肯定も不要なのじゃ。
 ただ黙々と己の心を観察すると、自我の観照が起こる。
 見るものである筈の自我を、見ることが観照と呼ばれる現象じゃ。
 見られた自我は、認識による自己同一性を失い、解体する。

 そして、認識をも解体した時、人は目覚めた者となるのじゃ。
 その時まで精進するのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 12:02:06 | Trackback(0) | Comments(0)
座禅の心得
 座禅の心得は焦らず、恐れず、拒まず。と言う所じゃ。

 進歩がないなどと焦ることはない、続けていれば必ず不動心が身に付く。
 それを待つのじゃ。

 座禅中は色々と奇妙な感覚が起こったりするものだが、恐れる必要は無い。
 そのような時こそ一切は縁起によって起こる、空なるものであると観想せよ。

 そして、瞑想の中で何かが起こるのなら、それを拒まずに受け入れるのじゃ。
 自分が変わっていくことを受け入れ、新しい己の誕生を見守るのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 11:20:39 | Trackback(0) | Comments(4)
姿勢が大事じゃ。
 腰を据えて背筋を伸ばし、上中下の三つの丹田が垂直になっていたら、人は自然に無念無想になれるものじゃ。
 道元禅師も禅とは只管打座、ただ真っ直ぐに座ることが肝心と言うておる。

 足の組み方は、日本人には完全な結跏趺坐は、向かないものが多い。
 片足を片腿に乗せる半跏座や、あぐらなどでも背骨が真っ直ぐになれば良いのじゃ。

 そして、尻を据えて腰は伸ばす。胸を開き、肩の力を抜く。首で頭のバランスを取るようにするのじゃ。
 全体が整ったら、頭のてっぺんから糸が出て吊られているようにイメージして伸び上がり、力を抜いてもとの姿勢に戻るのじゃ。

 下半身の中心の下丹田、上半身の中心のみぞおちにある中丹田、頭の中心にある上丹田が完全に真っ直ぐになっておれば、快が生じ自然に三昧の境地に入るじゃろう。
 自分で座りながら体を少しずつ動かしてみて、頭の中心に快が生じたら、それがおぬしの正しい姿勢なのじゃ。
 そのコツを掴めれば、正しい姿勢が出来て、修行は速やかに進むじゃろう。  


悟りを得るための修行法 | 11:16:47 | Trackback(0) | Comments(0)
数息観のやり方
 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
 
 初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。

 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。


悟りを得るための修行法 | 11:38:21 | Trackback(0) | Comments(19)
鬼和尚の人生相談室
 悩みがある者はコメントに相談事を書くが良い。
 他人に知られたくないものは管理者にだけ表示を許可する という所にチェックを入れるが良かろう。
 ただし金は無い。
 スパム対策にコメント承認をしているから、直ぐには表示はされないが、承認後に表示されるのじゃ。


人生相談 | 19:30:55 | Trackback(0) | Comments(501)
あきらめてはいかん。
 悟りの道に限らず、どのような道を行く者も成功するためには一つの秘訣がある。
 それは決してあきらめないということじゃ。
 あきらめなければ成功する確率は常に50パーセントはある。
 成功するか、しないかの50パーセントずつじゃ。
 しかし、あきらめてしまえば可能性は0パーセントじゃ。

 このはげちゃびんは何をあたりまえのことを言っているのかと、おぬしらもあきれているかも知れぬ。
 しかし、このあきらめないということは、道の途中で本当に苦しくて、つらくてもう止めてしまいたくなった時にこそ判るのじゃ。
 世の中には、本当に大事な願いが、簡単にかなうということは滅多にない。
 大抵は苦労に苦労を重ねて、なおもうまく行かないということが多い。

 自分の考えた事がうまくいかず、自分自身を否定され、打ちのめされ、叩きのめされたとしても、あきらめず、未だ可能性は50パーセントあると己に言うがいい。
 そうすればどんなに否定され、打ちのめされ、叩きのめされても、もう一度、立ち向かう勇気が湧いてくる。

そして、不可能を可能にし、勝利を手に入れるための最後の力を与えてくれるだろう。


テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

元気が出る説法 | 12:29:21 | Trackback(0) | Comments(0)
謙虚とは何か
 謙虚とは何か、或いは何に対して謙虚であらねばならぬかということになれば、それは真実に対して謙虚であらねばならないということになろう。
 真実に対して謙虚であれば、真実の表れを見出すことが出来よう。

 しかし、人に謙虚であることにより、認められようと思うのであればそれは揚棄に他ならない。
 謙虚であると言うことだけで、人を判別しようとするものは、謙虚なる詐欺師にだまされ続けることにもなろう。
 詐欺師というものは実に巧妙に謙虚な者を装うものじゃ。

 謙虚であらねばならぬのは、真実を見出すためであり、それは心の在り様を顕わすものならば外に現れることもあるまい。
 己の内にある真実を見出すことに勤める者こそ、真に謙虚な者と言えようか。




悟りの真実 | 12:17:35 | Trackback(0) | Comments(2)
悟りと超能力
 悟りを得たものがいきなり筋肉モリモリになり、体力が倍になるということがあり得ないように、悟りを得たからといって神通力などは身につかない。
 悟りを得た者が身につけるのは智恵なのじゃ。
 正智、妙観察智などの智恵が身につくのじゃ。
 それらの智恵も又、おぬし等の中に眠っておる。

 人間はそれらの智恵の力で空を飛ぶことも出来、海にもぐり、宇宙にまで行く事が出来た。
 神通力などは必要ないのじゃ。
 智恵こそが人を偉大にするもの。
 ただ妙な力があるだけで智恵がないなら、ゴリラやチンパンジーと変わりはあるまい。

 おぬし等も智恵を磨いて偉大な者になるがよい。
 わしが許す。


テーマ: - ジャンル:

悟りの真実 | 12:10:26 | Trackback(0) | Comments(6)
鬼和尚が出来るまで。
 昭和の中頃、東京に生まれるが如く生まれる。
 子供の頃、九死に一生を得て、死について考えるようになる。
 10代の頃から仏教の経典を読み、独学で修行する。
 20代の頃、悟りを得る。
 人々に教える為に、勉強と修行を続ける。

 2007年の春頃から2ちゃんねるで教える。
 最近、ブログで教え始める。


テーマ:はじめまして - ジャンル:その他

わしの履歴 | 12:01:07 | Trackback(0) | Comments(11)
無限の力を引き出す法
 もしおぬし等が100の力を持っているのに、自分には10の力しかないと思っているとしよう。
 そうすると一生10の力しか出せないで終わってしまうだろう。
 もしおぬし等が自分には100の力があると知っていれば100の力を出せる。
 そして、1000の力があると思えば1000の力を出せる。
 さらには自分には最高の力があると知れば、無限の力を出せるであろう。

 無限。

 無限の力がおぬし等の心に宿っている。
 だからして己の力に限界を作ってはならん。
 おぬしがもしも総理大臣であったとしても、自分にはさらにそれ以上の力があると知るのだ。

 信じるのでも、考えるのでもない。
 知るのだ。
 自分には無限の力があると知る。

 その事実を受け入れるのだ。
 そして、無限の力をこの世界に叩きつけよ。
 世界はおぬしのものになるだろう。


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元気が出る説法 | 11:51:26 | Trackback(0) | Comments(4)
おぬしは無限の価値がある。
 みんなは自分というものの価値をどのように考えておるかな?
 両親や兄弟、友人、社会から貼られたレッテルを真に受けて、自分はそこそこの奴だなどと思ってはいないかな。

 そのような奴はわしの一喝を聞け。

 おぬしは最高の存在なのだっ!。

 おぬしにとって自分とは、常に最高の価値と、計り知れない重要性を持っているのじゃ。
 この地上にある全てのものを合わせたものより、おぬしにとって尊いのが、自分という存在なのじゃ。
 それを事実として受けとめよ。
 私は最高だと声に出して言ってみよ。
 誰かに笑われたら、笑い返してやれ。
 事実を知らない愚か者だと。

 自分を無価値なものだとは、ただの一瞬も思ってはならん。

 私は最高であると信じるのだ。
 私は最高であると感じるのだ。
 私は最高であると認めるのだ。
 まず何よりも先に己が最高の価値があるという事実から、全てを始めるのだ。

 最高の価値がある自分を生かす道は何か。
 最高の価値がある自分を更に素晴らしくする方法はないか。
 最高の価値がある自分をどのようにすればいいのか。
 ただそれだけを考えよ。


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元気が出る説法 | 11:47:02 | Trackback(0) | Comments(2)

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