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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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厭離とは何か
 厭離とは観察によって阿頼耶識の影響がない、真の姿を観る事を言う。
 通常の人間は阿頼耶識により、感じられたものに、言葉とイメージを投射しておる。
 手を見れば、それが我が物であり、我の一部であるものであると、言葉やイメージを投射しておる。

 それが観察によって止められると、我が物でもなく、我の一部でもない、ただの道具としての手が、如実に観る事が出来るようになる。
 それが厭離が完全に出来た状態じゃ。

 厭離が完全に出来たなら、例えば手に痛みなどを与えても、確かに痛みは感じられるが、それによって苦しむ事は無くなる。
 手が己の物であり、我が物であれば、痛みは恐るべき物であり、苦しみに他ならないが、道具としての手に痛みと言う肉体の警告を与えても、それ自体が苦ではなくなるのじゃ。

 そのような厭離を手から始って、全身に及ばせれば、肉体が我であり、我とは肉体であるという概念から、完全に自由になれるのじゃ。

 お釈迦様は四聖諦にて、苦を観察せよと説いた。
 苦、苦の集、苦の滅、苦滅の道を説かれたが、観察を知らねばこの四聖諦によってどのようにして苦を滅するのかは、理解出来ないのじゃ。
 長らく誤解されて来たが、四聖諦をただ知識として知った所で、相変わらず苦は人を苛み続ける。
 四聖諦は知識として覚えた所で何の意味も無いものじゃ。
 四聖諦とは本来、苦しみを観察する事で、苦しみからの厭離を説いた教えなのじゃ。

 それを示すいい例があった。
 在る時、お釈迦様のもとへ、子供を無くした女がやって来た。お釈迦様に子供を行き返らせてもらおうとして来たが、お釈迦様は、
 「生き返らせるには、いままで死人が出た事の無い家から水を貰ってこなければならない」
 と、女に告げた。
 女は方々の家を回ってみたが、死人の出なかった家などはなかった。
 しかし、女は苦を脱して、お釈迦様の弟子になったという。

 この話は苦を脱する観察の過程を良く表しておる。
 女は子を無くして嘆いていたのは、愛別離苦と呼ばれる苦の一つじゃ。愛する者と死などで離れ離れになってしまう苦しみじゃ。
 女はこの苦しみに陥っていたが、お釈迦様の教えにより、方々の家を回り、様々な死別に苦しむ人々の姿を見て、己の愛別離苦の苦を客観的に観察することが出来た。そして愛別離苦から厭離する事が出来たのじゃ。
 この女が修行僧なら苦を観察せよと、お釈迦様は言ったであろうが、そうではない者に苦を観察させようと、お釈迦様は家々を回らせたのじゃ。

 普通の者は苦を受けると、それを自らのものであり、自らが苦を受けていると分別してしまうものじゃ。
 しかし、苦を観察し、厭離すれば苦は我が物ではなく、自らが苦を受けているという概念を無くし、苦を離脱する事が出来るのじゃ。
 それこそが四聖諦の真の意味じゃ。
 苦しみと、苦しみの集まり、苦しみの滅するさまを、八っつの正しい道で観る事が真の四聖諦なのじゃ。
 みんなもこの真の四聖諦によって、苦しみを離脱して、悟りを得る為に修行すれば、必ず苦の滅が起こるじゃろう。
 その時まで修行に励むのじゃ。 


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悟りを得るための修行法Ⅱ | 21:23:36 | Trackback(0) | Comments(0)
恐れを観よ。
 数息観によって必ず不動心は身につく。 
 悟りへの道は自我を解体する道である故に、未だ自我を自分だと認識している修行者は時に恐れを抱くものじゃ。

 わしも悟りを得る直前には、自我の消える不安や恐怖を味わった。しかし、自我は自分ではなく、ただのイメージに過ぎないと知ることで 恐怖は消えていった。
 それらの不安や恐怖は正しい道を歩み、自我を脱しようとしている証拠なのじゃ。

 恐れているものは何か、恐れとはどこから生じ、どのように作用するのか、詳細に観察するがよかろう。
 そうすれば恐れは消えていくじゃろう。 
 不安や恐怖は修行中には誰でも感じるものじゃ。 それから目を背けることが寧ろ後退への道と言えよう。
 恐れている自分と折り合いをつけ、僅かずつでも進んで行くのじゃ。

 一日に一センチしか進めない芋虫でも、一年間一日も休まずに歩み続ければ、3メートルも進む事が出来る。
 小さな虫でも毎日の努力を積み重ねれば、人を驚かすまでに進むことが出来るのじゃ。
 お釈迦さまが教えられた、優れた修行法である数息観を、毎日行う修行者が不動心を身に付けられぬはずは無いのじゃ。

 芋虫の如き歩みでも良い。
 毎日、数息観を続けて不動心で進むのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 16:10:01 | Trackback(0) | Comments(0)
正しい言葉による宣言
さあ、みんな聞くが良い。
今、わしを信じる者も、信じない者も、苦しんでいる者も、悲しんでいる者も、カルトにはまってしまっている者も、みんな聞くがいい。

 おぬしらはみんな、今まで正しい言葉によって評価されていなかったのじゃ。
 おぬしらの価値と、力と働きを知る者はいなかったのじゃ。
 それ故におぬしらは、この汚濁の世に生きる邪な者たちによって蔑まれ、無力で、穢れた者と評され、それを信じ込んでしまったのじゃ。

 しかし、もはやそのような己を蔑む言葉を、もはや信じたり抱え込んだりする必要は無い。
 今、この文を読む、2チャンネルの者だけでなく、将来にどこかでこの文を読むであろう全ての者達よ。
 わしは悟りを得た者、目覚めた者としておぬしらに真実を告げる。

 おぬしらは本当は僅かの穢れも無く、清純であり、無垢の心を持ち、純粋な者であり無限の力を持ち、無限の可能性を持っている者達であると宣言する。
 それが唯一の真実なのじゃ。
 今、悟りに向かい、このわしの文を目にした者は、全て心清浄にして穢れ無く、無限の力を持っている者なのじゃ。
 おぬしらはこの言葉を受け入れよ。
 そして、今まで持っていた、自らが穢れたものであるという言葉と、それらの言葉の影響力を全て捨てよ。
 これからは自らが清浄あるという言葉を受け入れ、おぬしらを汚し、無力にさせる言葉などは一切信じてはならない。
  そして、おぬしらは自らが無力であり、何も出来ず、ちっぽけな存在であると言う言葉とその影響力を捨てよ。
 おぬしらの本当の力は、無限であり、限界などは無く、この全ての世界を変えるほどの力であると宣言する。
 おぬしらの心にある本当の力は、真に無限であり、巨人の如く極め難い程なのじゃ。
 たった一人の力で歴史を変えた英雄、偉人と同じ力をおぬしらは持っている。
 おぬしらは無限の力を持っている。
 この言葉を受け入れ、己を縮こませる言葉を全て捨てよ。
 そして、二度とそのような言葉を信じてはならん。

 わしは悟りを得た者として、目覚めた者として宣言する。
 もはやおぬしらは自らを蔑むわずかの言葉さえも、受け入れてはならない。
 おぬしらは自分が僅かの罪、穢れもなく、清純にして純一無垢であり、無限の力を持つ者であるという事実を受け入れよ。
 それが真実であり、真理であるということを受け入れるのじゃ。
 おぬしは清純にして、無限の力を持っている。
 それが真実なのじゃ。 
 それが真理なのじゃ。
 その言葉を、恐れずにただ受け入れよ。

 おぬしらこそ、この世の光、最後の希望であり、正しい教えを伝える者達なのじゃ。
 これから千年、二千年の長きに渡り、人々はおぬしらのことを語り、その名を呼ぶじゃろう。
 お釈迦様とその弟子達がそうであったように。

 偉大な者達よ、わしは仏陀の智恵によっておぬしらを知っている。
 我が愛する息子、娘達よ。
 いずれわしらは一つになるだろう。
 
 永遠の喜びがわしらを待っている。


元気が出る説法 | 13:14:11 | Trackback(1) | Comments(6)
観の行
 観察の行の本行じゃ。

 花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。
 観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。
 人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。

 まず手の平を観察してみるのじゃ。
 花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。
 何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。
 自分の手が自分のものではないような感覚。

 それは厭離という感覚じゃ。
 厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。
 
 普通の人間は自分の手を、阿頼耶識で「自分の手だ」と認識している。
 しつこく観察していると、阿頼耶識による認識は止まり、自分のではない、ただの道具としての手が表れるのじゃ。

 この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。
 肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。

 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
 それは又、別に書くじゃろう。


悟りを得るための修行法Ⅱ | 23:00:42 | Trackback(0) | Comments(0)
わしは何故、鬼和尚と名乗るのか。
 わしは何故、鬼和尚なのか?
 わしは既に名声も、金も、権力も欲してはいないからじゃ。
 お釈迦様の教えを広め、出来る限り多くの者を悟りに導くのが、わしの唯一の望みなのじゃ。
 その過程でわしは名を広めたり、金や権力を得たりする事はしないのじゃ。

 例えば世界中の富を得た大金持ちが、道端に落ちている1円の金を拾おうとしないように、絶対幸福である悟りを得たわしは、もはや何一つ必要としてはいない。
 ただみんなに死を超えた最高の境地である悟りを得させる為だけに、生きているのじゃ。

 故にわしをカルト宗教の宣伝員ではないかとか、洗脳されるのではないかと、恐れる必要はない。
 このネットで教えを受ける者の多くは、最後までわしが誰かを知る事すら無い。
 わしは一銭の金も受けず、誰にも知られずに死ぬじゃろう。
 それで良いのじゃ。

 ただ全人類の宝であるお釈迦様の教えが、正しく伝わり、悟りを得たいと望む多くの人間が悟りを得られるようになる事が、わしの唯一の望みなのじゃ。   
  

 


わしの考え | 21:56:25 | Trackback(0) | Comments(4)
運気を向上させる方法Ⅱ
 試練にあっても善いことを続けていれば、自然に運気は向上し、お金や欲しかったものが手に入るようになるじゃろう。
 しかし、そういう時こそ気をつけねばならない。

 お金などが入ってくるようになると、良いお金と共に、悪いお金も入ってくるようになる。
 良いお金とは労働や他人に与えられたなどの、正当な理由で手に入ったもの。
 悪いお金とは拾ったり、何かの間違いで手に入ったものじゃ。

 要するに与えられた物が良いお金じゃ。
 与えられていない物は悪いお金なのじゃ。
 与えられていない物は、決して手にしてはいかん。
 その途端に再び運気は下がり、再び試練からやり直しじゃ。
 大抵の人間はこの試練と試しの間を上下しておる。

 皆もこの試験と試しを知っていれば、繰り返す事はなくなり、次第に運気も向上していくじゃろう。

 世には多くの開運法とか、運を良くする技などが宣伝されておるが、それらが効果があったりなかったりするのも、この善い事をする事で、善根が植えられ、やがて良い報いが来るということを知らないからじゃ。
 善い事をし続ければ善い因が重なり、善い事が起きる果を受ける事が出来るのじゃ。

 茄子の種を植えれば茄子の実が出来、カボチャの種を植えればカボチャの実が出来るように、善い事の因を積み重ねれば善い果を受け、悪い事の因を積めば悪い果がやってくる。
 これが因果の法則と呼ばれるものじゃ。

 もともと善い事をしている者は開運法などをしなくとも、善い事が起きるが、悪い事ばかりしているものは、どんな開運法をしようと善い事は起きないものじゃ。
 運気を必ず向上させようと思う者は、善い事をするのが一番良いのじゃ。

 みんなもこの因果の法則を使って、運気を向上して頂きたいものじゃ。



運気向上法 | 14:35:20 | Trackback(0) | Comments(12)
運気を向上させる方法
 仏教に限らず、サタニストやオウムなどを除いて全ての宗教は善を為すことを薦め、悪を諌める。

 善を行えば良い報いがあり、悪を為せば悪い報いがある。
 仏教では10の悪を諌め、その反対の10の善を為すように薦める。

 不殺生、生き物殺さず、傷つけず、助ける事。
 不偸盗、他人の物を盗まず、困っている者には与える事。
 不邪婬、不倫や強姦、セクハラなどをせず、正しく交際する事。
 不妄語、嘘をつかず、正しく伝える事。
 不綺語、意味のない議論やおしゃべりをせず、意義のある言葉を言う事。
 不悪口、罵詈雑言を止め、優しい言葉を使う事。
 不両舌、他人に言った言葉と違う事をする二律背反や、詐欺を止める事。
 不慳貪、欲を張らず、気前良くする事。
 不瞋恚、怒らずに、いつもきげんよくしている事。
 不邪見、誤った考えを止め、正しい考えをする事。

 これらの善を為すことで、現世では良い報いがあり、死後には天人にもなれるじゃろう。
  一言にまとめるなら、他の衆生、生き物を苦しめないで、喜ばすのが善であり、苦しめるのが悪じゃな。
 例えば泥棒を助ければ、泥棒は喜んで有難がるだろうが、物を取られた者は苦しむじゃろう。
 故にこのようなことが悪であると判る。

 オウムの者もこのように考えれば、人を傷つけることが悪であり、善い事ではないと判ったじゃろうにのう。

 食べ物を食べるなどのように、生存の上で必要な時には、あえて苦しめるのは仕方が無い。
 しかし、組織の存続や、より多くの金の為に衆生を殺すのは、悪と言わねばならぬ。
 皆はそのようなことがないようにして戴きたいものじゃ。

 さて、善を行えば善い報いがあると書いたが、具体的にはまず罪の浄化が行われる。
 わしの話を読んだりしてこれからは善を行おうという者は、罪の浄化として試練にさらされる。
 他人に罵られたり、嫌な思いをしたりするが、それは罪を浄化するための試練なのじゃ。
 それを恨まずに「この試練によって地獄に落ちるほどの罪も浄化出来た」と、喜ぶがいい。

 かつてお釈迦様のもとで帰依したアングリマーラという殺人鬼は、僧になってからも肉親や知人を殺された街の人は、彼に石を投げ憎しみをぶつけたものじゃ。
 お釈迦様は
 「耐え忍ばなくてはならない。それがおまえの犯した罪の償いなのだから。」 と諭されたのじゃ。

 改心した者には、このように罪の償いがなされるのじゃ。
 それを耐え忍び善を行い続ければ、罪は浄化され、善き報いが来るのじゃ。
 運気は向上し、次の試しがまっている。



運気向上法 | 14:17:45 | Trackback(0) | Comments(0)

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