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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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城の譬
 自我を観照する道はとても難しい。
 それというのも自我は人の心に大きく巣食い、固く根を張っているからじゃ。

 例えばそれは巨大な城のようなものとも言えよう。
 巨大な城には偽りという掘りが周囲を取り巻き、逃避という石垣が外壁を固め、自我を自分と思う誤った自己保存の兵が中に居て、殿様である自我の核を守っている。

 その城を落とすには先ず心の中から偽りの水を抜き、逃避の外壁を崩し、誤った自己保存の兵をなだめ、自我の核に辿りつかなければならないのじゃ。
 自分の心から偽りや逃避、誤った自己保存という自我を保存しようとするものを、解体していかなければ、例え中核に踏み込んだとしても、たちまちの内に再び偽りや逃避によって、自我は保護されてしまう。

 長い間修行してきた者は、恐らく一度や二度は、観照が起こっている筈じゃ。
 しかし、その度に恐怖を感じ、誤った自己保存の本能によって自我を破壊する観照から逃避し、隠蔽してしまうのじゃ。

 真の悟りを得ようとする者は、先ず偽りを捨て、逃避を止め、自我は真の自己ではなくイメージに過ぎないと知らなければならぬ。
 それらの障害を心から取り除く事で、始めて観察者に気付く事が出来るのじゃ。
 偽りも逃避も捨てて己の心を清める事が、真の仏道なのじゃ。 
 


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悟りを得るための修行法Ⅳ自我解体 | 21:23:00 | Trackback(0) | Comments(0)
自我を解体するのじゃ。
 今回はある程度修行をした者に与える教えじゃ。
 長く修行をしているのに悟りを得られぬ者、心当たりの有る者は聞くが良い。
 未だ数息観をしている者や、ヴィパッサナーを始めたばかりの者は読まないでも良い。将来、修行が止まってしまった時に、参考にするとよい。

 さて、今世間にはわしが教えた物も含めて、さまざまなヴィパッサナーなとのやり方が伝わっておる。しかし、それらのやり方は実はヴィパッサナーではない。
 ヴィパッサナーをしやすくする為の技に過ぎないのじゃ。

 真のヴィパッサナーとは己を観察する事。
 長く修行しても悟りを得られないのは、観察をしているようでいて、実は観察をしていないからなのじゃ。
 観察するのに必要なのは、技ではない。

 勇気なのじゃ。

 己の心を勇気を持って観察する事が、真のヴィパッサナーなのじゃ。
 それが出来なければ永遠に悟りは得られん。

 人間の心は恐ろしい事や不安、嫌悪感、劣等感などがあるとそれらの感情から逃げようとする。逃げて見ないようにしたり、蓋をして忘れ様とさえする。
 それらの逃げが、心を観察する事を困難にしているのじゃ。
 それはもともと生き物に備わった本能じゃ。ゾウリムシでもミジンコでも、炙ってやると逃げていくように、人間も心に苦痛を感じると、それから逃げようとする。
 その動きが心の観察を困難にしているのじゃ。

 この逃避の働きが人の心に深く、深く根付いて行動の全てを支配しておる。
 このように書くと自分の心には逃避などは無いと、思う者もいるじゃろう。それが完全な逃避の姿じゃ。
 自分が逃避している事さえ自分に隠す、完全なる逃避なのじゃ。
 もともと仏門に入る動機が、何らかの恐怖や不安、孤独からの逃避であった場合、悟りを得るのは更に困難になる。
 悟りを得る為には、逃避してきた自分の心を観なければならないのだから。
 そのような者は仏門に入る動機から、掘り起こして観なければならないのじゃ。

 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
 と、自分自身に強く誓うのじゃ。

 そして坐るがいい。
 もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
 そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。

 この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
 泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
 苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
 そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。

 修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
 何もかも観察するのじゃ。
 いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
 もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
 何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。

 そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、始めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
 そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
 何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
 その時が来るまで観察を続けるのじゃ。 


悟りを得るための修行法Ⅳ自我解体 | 21:20:41 | Trackback(0) | Comments(14)
最上の勝利者
  さて今日は久しぶりにダンマパダ(法句経)の講義じゃ。

103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

                   【真理のことば】ダンマパダ<中村 元訳> より

 戦場において百万の敵に勝つより、自己に克つ者の方が偉いとお釈迦様はいっておる。
 自己に克つと言う事は、修行においては自らの自我を解体し、己を虚心に観ることにも喩えられよう。

 自我を解体するのは、何故それほどまでに難しいのじゃろうか。
 人が自らの自我を自分であると認識しているうちには、決してそれを壊す事も観る事もしないものじゃ。それは自分を壊し、観ることになるのじゃから。

 他にも自我は自らを守る城壁であると、考える者もおる。
 不安や恐怖から自分を守る心の動きに、自我のイメージを投射しておるのじゃ。
 自我が無くなれば、今まで抑えてきた不安や恐怖が全て噴出してくるのでは無いかと、恐れておるのじゃ。
 今まで逃れ、眼を背けてきた恐怖や不安に始めて目を向けようとするのは、とても大きな勇気が要るものじゃ。
 それ故に百万の敵に勝つよりも、自己に克つ者が、最上の勝利者と呼べるのじゃ。

 今、自ら最上の勝利者となろうとする者は、真実の言葉を聞くがいい。
 自我は自分ではない。
 そして自我は不安や恐怖を抑える役割もしておらぬ。
 むしろ自我は不安や恐怖を生みだし、それを繰り返す役割を果たしておるに過ぎないのじゃ。
 過去の恐怖に自我を投射する事によって、恐怖は繰り返され、増大し、隠蔽されて長く不安のもととなるのじゃ。

 故に自我を解体し、観照によって無くせば、安心が訪れるのじゃ。
 不安が無い事による絶対安心の境地が、そこには訪れる。
 それはおぬしらが今まで味わった事の無い、無上の安らぎ。
 完全にして無謬な、真の安らぎなのじゃ。
 その境地は実在する。
 わしはそれを体感している。
 常にそこに居て、いかなる時も不安なく過ごしている。
 みんなも修行に励み一時も早く、安らぎを手に入れるのじゃ。


ダンマパダ(法句経)解説 | 21:51:15 | Trackback(0) | Comments(2)
観照から悟りを得るまで
 わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こった。
 観照によってわしの自我は消え去った。
 そして静寂と安心が起こった。
 もはや守るペき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。

 そして、智慧が湧いた。
 自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
 わしはその智慧に問うた。
 (ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
 この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
 この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
 そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
 自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。

 空であると観じていると、認識するものが消えた。
 そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
 そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
 言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
 全てが無かった。
 そして無でさえも無かった。

 今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
 わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
 そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。

 わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
 この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
 この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。

 そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
 無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
 わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
 わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
 死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
 わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
 世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。 

 わしは長らく坐っていたようじゃ。
 永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。 
 わしは菩薩の誓いを思い出した。
 悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
 わしは定を解き、ここに帰ってきた。
 自我は無くなっていた。 
 人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。


こうしてわしは悟りを得た | 22:59:12 | Trackback(0) | Comments(47)
不死の境地。
 さて、今回はお釈迦さまのありがたいお言葉をみんなで、お勉強しようではないか。

 ダンマパダ、法句経にはこのような言葉がある。

 114 不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

 115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。
            ブッダの真理の言葉 感興の言葉/中村元 訳より。 

 素晴らしい言葉じゃ。
 昔、中国の孔子などは、朝に真理を聞けば、夕べには死んでもよい、と言ったそうじゃが、彼も当時仏の教えが中国にあれば、それを修行したじゃろう。

 お釈迦さまの言われる不死の境地、それは確かにある。
 死を超えた境地に、人は確かにたどり着けるのじゃ。

 修行をすれば死を超越し、最上の真理を見ることが出来る。
 そうすればこの世は苦しみの世界から、全て楽しみの世界に変わるのじゃ。
 お釈迦さまは最後の旅で、楽しいと言われた。

 死を迎える事を知りながら、楽しく、喜びながら、旅をされたのじゃ。
 それも自らが不死の境地にあり、最上の真理を見たからなのじゃ。

 お釈迦さまの教えは、絶望や、諦めを目指すものではない。
 不死の境地に到達し、最上の真理を見て、喜びの人生を送り、楽しみながら死を迎えることのできる教えこそ、真のお釈迦さまの教えなのじゃ。

 みんなも不死の境地を目指して頑張るのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 20:04:06 | Trackback(0) | Comments(0)
止観の両方を修行すべし。
 禅ではなにもせずに坐れと言うものがおる。止観の止だけをやれというのじゃな。
 一方でクリシュナムルティなどは、観察だけを行えと言う。 止観の観だけをやれというのじゃ。

 それらはどちらも間違いじゃ。
 お釈迦様は止観の両方を修行せよと説いた。
 それによって速やかに悟りを得られるのじゃ。

 実際に悟りを得られるのは、観察によってだが、自我の生成を観察するには強い集中力が必要なのじゃ。 集中と観察の二つの行があって、始めて速やかに悟りを得られる。

 現に、禅の者でも悟りを得た者は観察をした者だけじゃ。
 一休禅師がカラスの鳴き声を聞いて、悟りを得たと書いたのを覚えているかな。 一休は座禅中にカラスの鳴き声によって、偶然に自我の生成するさまを観察する事が出来、観照が起こり、悟りを得られたのじゃ。
 他にも蝉の声を聞いたり、師匠に背中を叩かれたり、問答の言葉で観察が起きたりした者だけが悟りを得ておる。
 
 直ぐに判ると思うが、このような偶然に頼るやり方は、とても効率が悪いのじゃ。カラスが偶然鳴かなければ、一休はいつまでもそのままだったかもしれん。
 現に禅の者には自分から出家して、良い師匠についたというのに、45年も修行して老年に達したというのに、未だ悟りを得られない者もおる。

 お釈迦さまの時代には、教えを聞いて修行した者が500人も速やかに悟りを得られたと、経には記されておる。
 速やかに真の悟りを得たいと望むのなら、お釈迦さまの言うとおり、止観の両方を修行すべきなのじゃ。


悟りの真実 | 14:03:29 | Trackback(0) | Comments(0)
縁起の法
 縁起の法はお釈迦様が教えられた、真の仏教の修行と呼べるものじゃ。
 通常の観察では連想記憶と今、ここにあるものの観察が混在したりするが、縁起の法では今、まさに起こっている心と体の動きを観察することが出来る。
 悟りを得る前の者でも、煩悩を離脱出来る故に、煩悩を破壊し、真の悟りに導く修行法と呼べるじゃろう。

 では判り易く一つずつ教えて行く事にしよう。

 縁起の中でも一番判りやすいのは、やはり接触によって生じる感覚であろう。
 接触によって感受が起こる、という一節じゃな。

 観察で紹介した鐘の音を聞く方法であれば、鐘の音を聞く、耳から音が聞こえた、音によって聞くという感覚が起こった、と観察する。
 音に因って起こされる感覚を詳細に観察するのじゃ。
 それが大きいのか、小さいのか、丁度いいのか、澄んだ音であるか、濁った音であるか、高い音であるか、低い音であるか、詳細に観察するのじゃ。
 音を聞く、聞いた音によって起こされた感覚を観察する。
 この連鎖を何度も観察すると、次第に慣れて来る。

 そうなったら、今度は感覚によって引き起こされた感情や思考を観察するという風に、12縁起などを参考にして、少しずつ増やしていくのじゃ。
 そのプロセス、過程が自我無しで起こる所まで観察出来れば、観照が起こる可能性が非常に大きい。

 しかし、12縁起は一つの観察例に過ぎない。
 例えば12縁起は愛があるから取、執着があると説くが、執着があるから愛があると観察する者もおるかも知れない。
 その時は自分が観察した通りでいいのじゃ。
 要は今、ここにあるものを観察する事であり、12縁起はそのためのモデルの一つに過ぎないのじゃ。
 
 例えば強い情念を持っていて坐る事すら出来ず苦しんでいる者でも、縁起に従って観察する事により、情念の影響を脱する事も可能なのじゃ。
 その為には情念によって引き起こされる苦の過程を、縁起に拠って観察する。

 例えばモノや人に執着する苦を抱えている者なら、執着によって苦ありと、この位は観察出来るであろう。
 更には苦を感受する感情がある、感情が苦を逃れようとする逃避がある。逃避によって一時的な安楽があると、どこまでも観察していくのじゃ。

 人の心身の動きは次々に連なって止まる事は無い。
 一度、止まったと見えても、実は更なる逃避や忌避によって目隠しされているに過ぎないのじゃ。
 それらの過程を次々に追っていけば、全体的な観察が出来る事になる。
 全体的に観察する事で、観照はより起き易くなるのじゃ。

 真にお釈迦様の教えられた縁起の法は、煩悩を破壊し、速やかに人を悟りに導く法と言えよう。


悟りを得るための修行法Ⅲ縁起の法 | 13:59:16 | Trackback(0) | Comments(2)
生きるのじゃ。
 生きるということはもとから理屈や理論や信仰によるものではない。理論的に生きることが否定されたからといって、死んだりする愚か者も居るまい。

 生きるといことは、理論も理屈も信仰も超えた、命の躍動なのじゃ。
 命は絶望を知らず、力の限り生きようとするものじゃ。
 例えば脳みそや心臓を破壊されても、肉体は細胞を再生し、何とか生きようとする。
 絶望も限界も知らず、力の限り生きようとするのがおぬしらの命なのじゃ。

 生きるということは理論でも理屈でも信仰でもなく、ましてゲームなどではない。
 そのような頭で作り出すような、小賢しい思惑を超えて輝く炎が命なのじゃ。
 その力は人々を救い、世界を良くするためにこそ存在しているのじゃ。

 今、これを見ている者の中で自殺しようなどと思ってる者も、居るかもしれん。
 そのような者はわしの言葉を聞くがいい。
 おぬしは生きるのじゃ。
 己のためではなく、人の為に生きるのじゃ。
 生きて大勢の人を助けるが良かろう。

 助けた人々は感謝するじゃろう。
 おぬしが生きていて良かったと言うじゃろう。
 それこそがおぬしがこの世に生まれた意味なのじゃ。

 身を捨てようと言うなら、人々の助けになるように己の身を捨てるがいい。
 最後のひとかけらの力までも、人々に与えるのじゃ。
 助けを求める者には必ず力を貸し、人々の願いに背いてはならん。
 そのように勤めた者を、わしは真の菩薩であり、わしの愛しい子であると言うじゃろう。


元気が出る説法 | 21:54:23 | Trackback(0) | Comments(0)
無財の七施
 みんなは「無財の七施」というものを知っておるかな?
 お釈迦さまが「雑宝蔵経」で教えられたお金がなくともお布施が出来る方法じゃ。

 まずは眼施 眼の施しじゃ。慈眼施ともいう人々をやさしい目で見ることじゃ。
 次に和顔施 優しい笑顔で人々に接することじゃ。
 愛語施 優しい言葉をかけることじゃ。
 身施 体を使ってボランティアなどをすることじゃ。
 心施 心配りや気遣いなどをすることじゃな。
 牀座施 席を譲ったりすることじゃ。
 房舎施 家に泊めてやったりすることじゃ。

 まとめて言えば人に優しくすることじゃな。このように人々に優しくすることで、お金を布施するのと同じ功徳があるとお釈迦さまは言われたのじゃ。
 金などよりも心が大切なのじゃ。
 心を施すことが真のお布施なのじゃ。

 このような布施を知れば、オウムや他のカルトなどのように、金ばかりを要求する者達が所詮ニセモノの詐欺集団でしかないことが判るじゃろう。
 金を要求するのは神仏を信じず、真理も知らぬ者達なのじゃ。

 お釈迦さまの真の教えは、金よりも心を大事にする事なのじゃ。善を行い、悪は為さず、心を清める事が真の修行の第一歩なのじゃ。
 例え悟りを得ようとは思わなくとも、この世に生まれた者は、「無財の七施」のような多くの善い事を行い、善い者となるのじゃ。そうすれば死んでも善い所に生まれ変わるじゃろう。
 みんな頑張るのじゃ。


運気向上法 | 21:49:21 | Trackback(0) | Comments(10)

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