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鬼和尚天空

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思考と観察
 思考と観察は違うものじゃ。
 思考は記憶の範囲内でしか働かない、過去のもの。
 観察は過去の記憶を離れ、今、ここに気付かせるものじゃ。

 沢山の事を考えている者は、気付いているかも知れないが、思考と言うものは、いつでも堂々巡りをしているものじゃ。
 同じ考えを何時までも繰り返し、同じ壁に突き当たって囚われてしまう。
 思考に囚われている限りは、新しい考えや知見は訪れぬものじゃ。

 観察によってこそ、人は思考の網を打ち破り、新しい知見を手に入れる事が出来る。今、ここにあるものを観察出来れば、囚われていた事が判る。
 目の前に在っても気付かなかった事が、観察によって明らかになる時、人は思考の枠を超えた、新しい知的段階に進む。
 現代の科学が発展したのも、思考による理論より、観察によって得られた知見を重視した為なのじゃ。 

 自らを、そして全てを観察する事が、真の現実に気付く道なのじゃ。
 例えば子供の頃、世界は神秘と輝きに満ちた、わくわくする所だったと覚えている者も多いじゃろう。
 小さなどんぐりや石ころなども宝物の様に見えた。
 大人になると、あれほど輝いていた世界が、いつのまにか光も、色も失い、灰色の世界になってしまったように感じる。

 しかし、それは世界が変化した訳ではない。
 世界が灰色に見えるのは、思考の網に囚われてしまった者の、イメージに過ぎない。
 どこにも行けない、何度も繰り返される思考の網が、人をしてこの世界が行き詰まり、何もかも同じ事の繰り返しのような、灰色の世界に見させているのじゃ。


 今より繰り返される思考が少なかった子供の頃には、観察する事が出来ていた故に、観察によって正しい世界の姿が見えていた。
 大人になって、思考の網に囚われたから、世界は暗く灰色に見えるのじゃ。
 
 観察する者にとっては、世界は今でも神秘と輝きに満ちた、わくわくするような所なのじゃ。
 毎日、同じように立っている木も、日毎に違う。
 毎日が新しく、未知の輝きに満ちている。
 思考を離れた観察によってのみ、それを知る事が出来る。

 みんなに教えているように、わしも自分の手を観察したりする。
 右手と左手の中指を比べてみると、左手の中指が五ミリほど高いのに気付いたりする。
 みんなはどうかな。

 何十年も使っている自分の体でさえ、実際にはあまり観察しておらず、知らない事が多いのでは無かろうか。
 自分の事は自分が一番良く知っていると、人は思っているが、実はそれは記憶や思考によって作られたイメージでしかない。
 イメージを自分であると思い、見慣れた、良く知っている自分というものを、記憶の中で作り上げている。
 そしてそのイメージを、自分の肉体などの集まりに、投射しているだけなのじゃ。
 それに、気付く事が出来るのは、観察によるしかない。

 体は本当に自分であろうか。
 感覚は自分のものだろうか。
 思考が自分なのか。
 認識を自分として同一化しているのか。
 自分とは何なのか。
 自分で無いものとは何であるか。

 観察すればそれらの答えが、現れてくるじゃろう。
 思考によってではなく、観察によって人は悟りを得て、目覚めた人と呼ばれるようになるのじゃ。



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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法 | 21:49:14 | Trackback(0) | Comments(10)
瞑想を深めるこつ。
 さて、今日は瞑想をさらに深くするコツのようなものじゃ。

 みんなかなり瞑想が上手くなったことじゃろう。
 更に深く集中するには、心の中に在るブレーキを緩める事がコツなのじゃ。
 人は普段の生活では、常識や良識の範囲内で生活するために、心の中にブレーキをもっており、常に自分の心や体を制御しておる。
 心のブレーキは瞑想中でも働き、ちょつとでも常識の範囲を越えようとすると、たちまち心を引き戻してしまうのじゃ。

 例えば瞑想をしていて、とても深い集中に入ってしまうと、今までの経験には無い領域に恐れを抱き、心のブレーキが働いて、瞑想から覚めてしまう。
 そして、それからはもうそのように深い瞑想には入れなくなってしまう。というような経験をした者も居るじゃろう。
 心のブレーキは常識を外れた深い境地に入ろうとすると、自我を構築する反射作用を保つために、それ以上の瞑想の深化を止めてしまうのじゃ。

 そのような心のブレーキを外すのは、なかなか大変な事じゃ。心のブレーキは自我を保つ恐怖からの逃避にも係っている故に、自我の危機を感じると本能的に働くからなのじゃ。
 心のブレーキは一度に外そうとしては恐怖を呼び起こす故に、少しずつ外していかなければならんのじゃ。

 それには肩の力を抜いて、リラックスする事が大事じゃ。
 リラックスと恐怖は相容れないものであるから、リラックスすれば、恐怖は消えていく。
 肩や首筋、背中などにかかっている力を抜き、背中を真っ直ぐにして坐っていられるぎりぎりのところまで力を抜いていくのじゃ。

 そして、心の中では内側から出て来る、さまざまな衝動に身をゆだね、心の制御を一時休んで、預けてしまうのじゃ。
 それを恐れる心があるなら、一時的に心のブレーキを外すだけじゃと、自分に納得させるのじゃ。
 心の奥から何が出て来ようと、それに任せ切り、何もしないで己をあけわたしてしまう。
 
 風にさすらう木の葉のように、空を行く雲のように、流れる水のように、何かをするのではなく、待ったりするのでもなく、しないことをするのじゃ。
 心から来るものは来させ、消えていくものを消えるままにする。
 ほんのわずかな心の動きさえ、放棄してしまうのじゃ。
 
 そうすれば集中の中に集中を忘れてしまう、真の瞑想が自然に起こって来る。
 もはや息を数えることも、呼吸に集中することも、瞑想の妨げであると感じるならば、自然に止めて良いのじゃ。

 そのような甚深微妙なる瞑想の中では、観照は自然に起きてくるじゃろう。
 みんなその時まで頑張るのじゃ。


悟りを得るための修行法 | 22:44:00 | Trackback(0) | Comments(3)
まことであるものをまこと見なすのじゃ。
 ダンマパダにはこう書いてある。

 11 まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではなしと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。

12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(マコト)に達する。

 【真理のことば】ダンマパダ<中村 元訳> より。

 これは子供に聞かせるような教えじゃ、とみんなは思うかもしれん。
 まことであるものをまことと知るとは、当たり前ではないか、と思うじゃろう。
 しかし、現実にはまことであるものをまことであると知るのは、とても難しく、厳しく己に克つ事が必要とされるのじゃ。

 世の中には嘘が多いものじゃ。仕事の上で、あるいは対人関係で、ちょっとした調整や気配りで細かい嘘をついてしまう者も多いじゃろう。
 小さな嘘をついている内に、嘘をつくことが当然の事となってしまい、何時の間にか嘘で心が塗り固められてしまう。

 人間の心は習慣の力によって流され易いのじゃから、嘘をつくことが習慣になってしまえば、もはやまことであるものが見えなくなってしまうのじゃ。
 みんなにも経験があるじゃろう。
 例えば宣伝文句などにも、嘘臭いものだと思ってはいても、余りに繰り返されると何時の間にか受け入れてしまう。
 日頃から自分が嘘に塗れている者は、嘘に関する感受性が下がってしまい、他人の嘘にも鈍くなってしまうものじゃ。



 そのように小さな嘘を続けているうちに、次第に何が本当か判らなくなってしまう。
 このような欠陥は、己の心を観察しようとした時、大きな障害になるものじゃ。修行の時にも己の心を誤魔化そうとする習慣が働いてしまうからじや。

 それゆえに、まことであるものをまことであると、日頃から見なしておかなければならないのじゃ。
 しかし、仕事の上で調整や人間関係で嘘をつかなければならない者も居るじゃろう。
 そのような時には嘘をついてもいいが、心の中では「今、私は仕事の為に嘘をついた。人間関係を円滑にする為に嘘をついた」と、はっきり宣言するのじゃ。
 それに対して批判も肯定もしない。
 ただ、己の心にまことであるものをまことでせあると宣言する。
 それが修行なのじゃ。

 このように日常からまことであるものをまことであると見なしておれば、心の観察は容易になって来るじゃろう。
 己の心に嘘をつかなければ、心の奥に隠された秘密は、少しずつ開かれてくるじゃろう。
 その秘密が開かされるまで、みんな頑張るのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 22:16:37 | Trackback(0) | Comments(0)

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