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鬼和尚天空

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縁起による空の法
 龍樹などの提唱する縁起と組み合わせた空の法じゃ。
 肉体は食べ物や飲み物などによって存在し、それらが無ければ無くなってしまう。 体は食べ物などの縁によって起こり、縁が無くなれば消えてしまうものじゃ。
 縁に依って起こるものであるから、そこに実体は無く、本性も無い、空なるものであると見なす。

 心も感覚は感覚の対象を縁として起こり、実体が無く、本性も無く、空であり、幻のようなものであると見なす。
 以下、感情と感情の対象、思考と思考の対象、分別と分別の対象、認識と認識の対象について、それらが縁によって起こり、実体が無く、本性も無く、空であり幻のようなものとして観るのじゃ。

 このように心と体に対して、縁によって起こり、実態が無く、本性も無く、空であり幻のようなものと見なすのが、縁起による空の法である。
 これは仏教の縁起を深く信じ、縁起を良く学んだ者にとって、有効なる修行法と言えるだろう。
 しかし、これは縁起と空について、深く知らねばならぬ故に、初学者にとっては少し難しいものがあるかもしれぬ。


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 21:04:39 | Trackback(0) | Comments(0)
解体による空の法
 次は解体による空の法じゃ。
 例えば車はタイヤ、車体、エンジン、ハンドルなどで出来ておる。
 それらの一つ一つが車ではなく、それらの他に車がある訳でもない。
 車と言う物の本質はどこにも無く、本性も無く空である。

 同じように自らの肉体も、手が自分ではなく、足が自分ではなく、頭や腹、胸、腰などの一つ一つが自分ではなく、本性や本質が無く、しかもそれらを離れて自分は無い空なるものと観る。
 心も感覚、感情、思考、分別、認識などの一つ一つが自分ではなく、本性や本質が無く、しかもそれらを離れて自分は無い空なるものと観る。

 このように自らを構成する部品の一つ一つ解体し、それらを本質が無く、本性が無い、空なるものと観じていくのが解体による空の法である。
 自分というものに執り付かれ、即物的な価値観を持っている者には、有効なる修行と言えよう。

 他の空の法でも同様であるが、これらの空の法は、集中力を以って繰り返し念じていれば、確実に作用する。
 そのように作られているのが空の法なのじゃ。
 少しやってみて何も起こらないと投げ出してしまうものには、何も起こらない。
 確たる信念を持って修行を続けるのじゃ。


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悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 21:08:17 | Trackback(0) | Comments(0)
空の法 実践
 空の法には幾つか種類があるが、代表的なものをやってみるのじゃ。

 一つは般若心経にあるように、全てに無を持って観るものじゃ。
 全ては在るでも無く、無いでもない。 汚れているものでは無く、清いものでもない。増えもせず減りもしない。特徴があるのでも無く、無いのでも無い。
 このようにおよそ考えたり、言葉やイメージとして認識している全てが無であると観るのじゃ。
 疑問が浮かべば、その疑問さえも無であると観る。

 そのようにして修行すれば、空を感得するに至る。
 空を感得するとは、例えばりんごを見ても、それがりんごであるという言葉が浮かばない。
 逆にりんごという言葉を聞いても、りんごのイメージが湧かなくなる。
 そのようであれば、りんごというものの概念が壊れ、阿頼耶識の作用を止めたと言う事になる。
 それが空を感得したと言う事じゃ。

 空を感得したなら、次にはそれを自らの肉体と心に向けるのじゃ。
 肉体が空である、そして心を形成する感覚、感情、思考、分別、認識の全てが空であると観るのじゃ。
 それらのうちのいずれに自我を投射していようと、それが空であり、阿頼耶識の作用を受けつけないが故に、自我は観照され、無に消え行く。
 更に消えた自我を観る認識をも空であると観た時、阿頼耶識は観られたものとして落ちていき、完全なる悟りが得られるであろう。

 これが無による空の実践法である。


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悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 21:41:20 | Trackback(0) | Comments(0)
空の法Ⅰ
 空の法を説く前に注意しておかねばならないのは、空とは概念や思想、哲学、世界観ではなく、悟りを得る為の技術であると言う事じゃ。
 多くの学者や知識人などが空の思想や哲学などと称しているが、それらはことごとく間違いであると言えよう。
 お釈迦様が空を悟ったとか、空を知ったら悟りだとか、勘違いしてはならない。

 「物事が空であるという概念を持ってはならない。概念を破壊するのが空なのだから」
 と、言う言葉は経にも論にも、何度も語られている。
 空は概念に執りつかれている者の概念を破壊して執着を無くさせ、更には自我を解体し、阿頼耶識をも止める作用がある、悟りを得る為には有効な心の技術なのじゃ。
 それによって観照を起こりやすくさせるが、それ自身が悟りなのではない。

 物事を論理的に考えすぎて、一つの概念から離れられない者には適した技術であると言えよう。

 しかし、悟りを得る為の技術の一つに過ぎない故に、無用と思う者には無用である。
 観察する事が出来る者は、そのまま観察だけで悟りを得られる。
 前述のような論理にしがみ付いている者に、有効なる技術なのじゃ。

 一口に空と言ってもいろいろな定義ややり方がある。
 お釈迦様が説いた空はそれほど複雑ではなく、幻や幻術、陽炎のようなものと観よ。と、言う位であったが、龍樹のように縁起と結びつけた者もおる。
 他にも解体により、本性が空であると観るものや、金剛経のように、空という言葉を使わず、ただ概念を破壊する論理を駆使するものもある。

 これらは全て技術であるが故に、各々が自らの経験や各自の性格によって使い分けられてきたから、種類が増えたのじゃ。
 例えば薬が用いる医者や患者の体質によって、違ってくるようなものじゃ。
 肝心なのは、効果がある事だけじゃ。

 それ故にこれから空の法を修行しようという者も、自分に合ったやり方を選択したらいいのじゃ。



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悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 21:49:29 | Trackback(0) | Comments(4)
大悟徹底せよ。
 自我が解体され、観照によって無くなった後、それを観ている阿頼耶識をも厭離した時、完全なる真の悟りが得られた事になる。
 自我が無くなっただけでは、完全な悟りとは言えないのじゃ。

 この辺の研究は禅の方が進んでいる。
 禅ではそのような者を生悟りと呼んでおる。
 白陰なども一度の観照では生悟りに陥っていたのを、師によって直されておる。

 禅で言う大悟徹底という言葉は、裏を返せば、不徹底に陥ってしまう者もおるから、気をつけなさいという意味も含まれておる。
 なまじ自我を観たり、落とした者が、その境地に驕り昂ぶり、俺は悟った、これが悟りだなどと言って修行を止めてしまえば、悟りは不完全なままに終わってしまう。
 それを戒めておるのじゃ。

 自我を落としただけでも、安心、寂静、平等性智などの一部は味わう事が出来る。
 無学な者はそれをもって本当の悟りだと思ってしまうのも、無理は無い。
 しかし、それだけでは未だ阿頼耶識に種子が残っている故に、その後も自我は形成され、再び概念に執り付かれてしまうものじゃ。

 自我が無くなっても、未だそれを観るものがある。

 自我によって認識があるのではなく、認識によって作られていたものが自我なのだから、自我が無くなっても未だ認識はある。

 その自我を作っていたものこそ、阿頼耶識に他ならないのじゃ。

 
 自我が消えた後も、未だそれを観ている阿頼耶識を厭離しなければ、大悟徹底とは言えないのじゃ。
 大悟徹底すれば更なる無為、平等、大円鏡智、 妙観察智などの智恵や境地が輝き現れる。
 それは自我を落としただけの境地とは、比べ物にならないものじゃ。
 その境地に辿り着くまで、決して修行を止めてはならんのじゃ。


悟りの真実 | 21:00:56 | Trackback(0) | Comments(4)
選択が大事じゃ。
 さて、今日は選択の事について話をしておこうかのう。

 多くの人間には、自ら考えて己の道を意志選択する能力がついておる。
 これは昆虫や動物には殆ど無い、人間だけが持っている能力じゃ。 
 昆虫は己の意志などは無く、ただ本能の命じるままに動き、それが死に繋がろうとも本能のままに行動する。
 例えば蛾が誘蛾灯に誘われ、死に行くように、目の前で仲間が死んでいても、本能のままに行動し、何も知らずに死に行く。
 動物には多少の学習と思考能力があるが、やはり大方は本能に任せて動く他は無いものじゃ。

 人間だけが己の置かれた状況を観察し、考えて、自ら選択し、決めた道を歩むことが出来るのじゃ。
 この偉大な能力によって、人間は他の動物には無い、多くの実りを手にする事も出来るようになったのじゃ。
 その一方で、悲惨な状況を招く事もあったのも事実じゃ。
 社会を発展させた意志の力も、ひとたび戦争や紛争に使われれば、恐るべき悲惨な結果をも招くものじゃ。

 人は自らの選択によって幸福になり、不幸にもなり得る。
 他を慈しみ、憐れむ事を選択した者は幸福になり、他人と争い、傷つける事を選択した者は不幸を選択した事になろう。
 みんなが今、この場、状況に居るのは選択によって居ると言えよう。
 それ故に今、自分を不幸であると感じる者は、自分が何を選択したのか、何の選択が間違っていたのか、考えてみる必要があるじゃろう。

 良い事を選択する事によって人は自らを幸福にし、逆に幸福に選ばれた者となる。
 自らが幸福の道を選ばなければ、幸福はみんなを選んではくれないじゃろう。
 選ぶ事によって、選ばれた者となるのじゃ。

 故に真の悟りを得ようと選択した者は、真の悟りに選ばれた者ともなるのじゃ。
 みんなも、真の悟りを選び、選ばれた者となるがいい。
 真の悟りを選び、選ばれた者にこそ真の悟りは訪れるじゃろう。


元気が出る説法 | 21:19:41 | Trackback(0) | Comments(4)

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