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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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今、ここに在るのじゃ。
 未だ悟りを得ていない者でも、そのかけら位ならを味わう事が出来る。
 それが今、目の前に在るものを五感で観察する事じゃ。
 今、目の前に在る何でも良い。
 キーボードやマウスの色や形、感触などを、味わい観察する。
 今まで見慣れた物でも、改めて観察すれば、それが記憶から生じたイメージと、違う事に気付くじゃろう。
 マウスにはこんなキズがあったのかとか、キーボードも知らないうちに汚れてきたなとと、記憶にはない物の、形に気づいたなら、それが今、ここに在るという悟りのかけらを味わったと言えよう。

 外に居るなら、空や雲、星や月などを観てみると良い。
 見慣れた空も日ごとに違い、雲も一つとして同じ形の物は無い。
 星のまたたきも、月の姿も観るたびに違った美しさが、あると判るじゃろう。
 そのありさまを何もかも忘れて、子供の頃のようにただ見つめるのじゃ。
 そして体を吹き抜ける風の感触や、足に伝わる大地の固さも、同時に味わえば、確かに自分は今、ここに居るという、安心を感じるじゃろう。
 不安や恐怖とは、結局の所、記憶から出ていたに過ぎない故に、記憶の連鎖を止めて、今、ここに在る時、心は安らぎを感じるのじゃ。

 この方法は孤独などの感情や過去の嫌な記憶などが蘇ってきた時にも、対処法として使える。
 孤独の感情や過去の嫌な記憶などが蘇ってきたら、それに巻きこまれない様に、急いで目の前の物を見つめたり、触ったりする。
 記憶などが次々に蘇ってきても、それに意識を向けず、ただ目の前に在る物の観察に集中すれば、それらは雑念と同じように、流れて消えていくじゃろう。
 どうしてもそれらの記憶や感情に巻きこまれてしまうという者は、それらが起こるたびに、それは記憶に過ぎないと、レッテルを貼り、客観的に見つめるようにする。
 このようにして何度も対処していれば、やがて習慣になって、上手く対処出来るようになる。

 もともと人間は、自分の心を上手くコントロールする力を、持っておる。
 感情や記憶に引き回され、その奴隷となって生きるのは、人生の貴重な時間を無駄にする事になるじゃろう。
 みんなも己の心をコントロールして、楽しく生きるのじゃ。


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元気が出る説法 | 11:15:17 | Trackback(0) | Comments(8)
山の喩え。
 さて、今回は修行の道について話をしよう。
 みんな長らく修行しているが、全然悟りなどは得られないと、そろそろ飽きてはいないかな。
 もう半年はやっているが、一向に観照などは起こらないと。

 焦るのはわかるが、修行などは何もしていなかった者が、半年ばかりの修行ではやはり真の悟りは得られないものじゃ。
 石の上にも三年と言うことわざ通り、最低でも三年は修行すべきじゃろう。
 もちろん、お釈迦さまのように、悟りを得られなければ死んでもいいと決意して、七日七晩も坐り続けたなら、直ぐにも悟りを得られるかもしれん。
 しかし、普通の日常を送っている者には、やはりそれほどの決意や時間はとれるものではなかろう。
 普通の者は長い目で見て毎日の修行で、少しずつ進歩していくしかないものじゃ。

 悟りへの道は例えば高い山に登るようなものとも言えよう。
 一日や二日ではとても登りきれない、高い高い山。
 そのような山に登ろうと言う者は、始めに固い決心が必要じゃろう。
 どうしてもてっぺんまで登ってやるという、強い決心が無ければ、とても登りきれるものではない。

 そのような決意は悟りを求める者にとっては、発菩提心と呼ばれる悟りを求めるための心に喩えられよう。
 死の恐怖やもろもろの苦を逃れる為に、正しい悟りを得ようという固い決心が、修行の最初に必要なのじゃ。
 真の悟りを得ようとする者は、正しい悟りを得るまでは決して修行を止めないと、最初に固く決心すべきなのじゃ。

 さて、決意が出来たなら、いよいよ登るのじゃが、山の麓には川が流れていたり、珍しい獣などいて、気を取られるかもしれぬ。そのようなものに一々気を取られていたら、早く登る事は出来ない。
 それらは不要なものとして目もくれないで、登る事に集中すべきじゃろう。

 そのような目を奪われる景色などは修行者にとっては、世間の雑多な知識や心のうちの雑念に当るじゃろう。
 こっちのカルトが良さそうだとか、あっちの修行はくんだりにーが早くあがる、などと比較したり、心の中の雑念に気を取られていては、修行は進まない。
 修行者はそのようなものに囚われず、ただもくもくと己の努めを果たすべきじゃろう。

 麓から中腹まで登ってくると、今度はいろいろなものが見えてくるようになる。下からは見えなかった深い谷間や、奇妙な洞窟など下界では見られない珍しいものが、たくさん見られるようになる。
 面白いからと言ってそのようなものに近づけば、たちまち谷に落っこちたり、洞窟に迷いこんで出られなくなってしまう。

 修行者も修行が進んである程度、集中力がついてくると、いろいろなものが見えたり、珍しい力がついてくるようになる。
 しかし、それらに囚われると慢心の谷や妄想の洞窟に迷い込み、行者病になって、修行の正しい道には戻れなくなってしまうのじゃ。
 古来から力のある多くの修行者が、この行者病に落ちこみ、修行の道から外れていった。
 そのような罠には気をつけなければならんのじゃ。

 そのようなものにも気を取られずに、更に登って行くと、やがて開けた所にでる。
 そこは日の光が多く当り、全てが輝くように見える。  
 そこからは広い景色が見渡せ、何もかもが明らかになったようにも見える。
 とても気分が良く、自分が無くなったかのようにさえ感じる。
 もしかするとここが頂上かと、間違う者が居るかもしれないが、冷静に良く見てみれば、半分位しか来ておらず、まだまだ先があると知れる。

 修行も深くなって来ると、やがて心が統一したサマーディーの状態に入る者もいるじゃろう。
 知らない者にはそれが悟りのようにも思えるじゃろう。
 しかし、サマーディーを得ただけでは、まだまだ半分の行が上手くなったというところに過ぎない。
 そこから自己の探求を経なければ、真の悟りは得られないものじゃ。
 
 開けた丘を後にして、夜中でも暗い森林を手探りで歩いていくと、やがて登る者は大きな石にぶつかるじゃろう。
 とても大きな石じゃ。
 避けようとしても避けられず、常に目の前に広がる石。
 それを越えるにはひたすら自分というものを無くし、ただ登るという事に集中しなければならない。
 今まで行ってきた事の全てが試される、真の正念場である。

 修行者が自己を手探りで観察し続ければ、やがて大きな石のような障害に当るじゃろう。
 それが自我と言うものじゃ。
 それは真に大きく、修行者の全ての世界を覆っている。逃げようにも逃げられず、さけようにもさけられない、どこにでもあって、どこまでも続く巨大な石のようなものじゃ。
 それを超えるには、ただひたすら己を虚しくし、観察が無意識の観察に変化するまで、修行し続けるしか方法は無いのじゃ。
 ここでは、もはや何のテクニックもちっぽけなエネルギーも役に立たない。
 己の心に嘘をつかず、己の心に陰の無い者だけが、その石を超える事が出来るじゃろう。

 そして行者はいつか自分がその石を超えたと判る。
 その石はただ言葉とイメージに過ぎなかったと、観照によって破壊する時、頂上は既に目の前に在る。
 そこからは既に目の前に頂上が見えるじゃろう。
 必要なのはただ今、観ているものも、又捨てるべきものと気付く事だけじゃ。
 それが大悟徹底なのじゃ。
 頂上につけば、もはやなにも恐れるものも無い。

 全てがそこにあり、全ての意識が連なっていると、感じるじゃろう。
 山も、風も、空間さえも意識であり、形の違いは意識の大海に漂う波のようなものと、知れるじゃろう。

 そして、頂上では永遠すらも無と観る大いなる意識が、帰ってきた小さな波の一つを迎えるじゃろう。


元気が出る説法 | 13:35:09 | Trackback(0) | Comments(0)

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