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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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観察によって何故、厭離が起きるのか
もともと人の受ける苦は、それ自体は無我にして起きるものじゃ。
 例えば手が傷つけば、直ぐに痛みが起こる。
 その反応は自我があろうと、無かろうと、関係の無い、体の自然な反応なのじゃ。
 自我か無くても、あっても痛みは勝手に起こる。
 しかし、自我を持っている人間は、阿頼耶識の作用で、その痛みに直ぐに自我を投射してしまうのじゃ。

 それによって痛みに「これは私の痛みである」とか「私が傷ついている」という認識を抱いてしまう。
 痛みを自分のもの、自分の苦であると、認識してしまうのじゃ。
 その他の苦も同様に、苦が起きればそこに自我を投射し、自分が苦を受けている、自分の苦であるという認識が生じる。
 言わば苦を自己同一化しているものと言えよう。

 これが人が持ってる、阿頼耶識による苦の自己同一化の成り立ちなのじゃ。

 観察はこの阿頼耶識の自己同一化の働きを、破壊する事が出来るのじゃ。
 観察をすれば、観察したものと、観察する主体との間に、距離が出来る。
 観察したもの「対象」は、観察している者「主体」ではないと、認識させる作用があるのじゃ。
 それにより、観察された苦は、もはや自分のものではなく、自分が苦を受けているのではないという、正しい気付きが生まれる。
 正しい気付きに拠り、苦は自分のものでもなく、自分が苦しんでいるのでもないという自己同一化の破壊が起こる。
 それが厭離と言うものなのじゃ。

 観察によって苦は自分との同一化を破壊され、主体から切り離された対象となる。
 その現象を厭離と呼ぶのじゃ。
 それは苦だけでなく、煩悩や執着、そして自我などの自己同一化をも、破壊する事が出来るのじゃ。
 観察によって厭離が出来れば、自己同一化を破壊された苦は、もはや苦では無くなる。
 ただの肉体や心の自然な反応であり、消えてしまうものであり、思い煩うべきものではなくなる。
 同様に煩悩や執着、自我なども観察によって、主体から切り離され、同一化を破壊され、消えて行くものとなる。

 観察にはこのように厭離を起こさせるという、大きな力がある。
 真に観察こそが王道であり、観察による厭離こそが、王道を行く者の受け取る果実であると言えよう。
 みんなも頑張って観察をするが良かろう。


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法Ⅱ | 21:23:05 | Trackback(0) | Comments(4)

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