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分のしたこととしなかったこととだけを見よ
 「ダンマパダ」法句経には、このような言葉がある。

 50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

 なかなか味わい深い言葉じゃ。
 この言葉はどんな時にも、自分を観察する事の大切さを教えてくれる。

 殆どの人は、自分の事はさておき、他人があれをした、これをしてくれないと、他人のあら捜しばかりしておるものじゃ。
 それはわしとて例外ではない。
 ここで人があまりおかしな事を書いてあると、つい、教えてやりたくなってしまうものじゃ。
 そんな時はこの言葉を思い出すのじゃ。
 他人の過失を見るなかれ・・と。

 どんな時も、常に自分を、自分のした事を、そして、しなかった事だけを、見つめる事が正しいのだと、この言葉が教えてくれる。

 他人の過失を非難していれば、気分がいいというのは、誰にもあるじゃろう。
 しかし、それは大抵は攻撃欲を満足させる我欲であり、拳の変わりに言葉などを使っている暴力に過ぎない事も多いものじゃ。

 他人が本当に間違っている時もあるじゃろう
 そのような時も、まずそれが現在の状況で正すべきか、自分にそれを正す資格と、能力があるか、問う事が大事じゃと、言えるじゃろう。
 日常でも常に自分を、自分のした事を見つめ続けていれば、修行に入った時も、速やかに自分を観る事が出来るじゃろう。

 そして、生活する上でも常に他人への過度の干渉を止め、自らはつつしんでいれば、トラブルや憂い悩む事は少なくなるじゃろう。
 誰かの言葉や動作で頭にきた時、自分がきれてしまった時なども、この言葉を思い出すだけで、直ぐに冷静になれるじゃろう。

 常に自分を観るという事の重要さを、この言葉は教えてくれる。
 真の導師は常に人に対して、自分に眼を向けさせようとしておる。
 それが世に生きる人間には、最も重要な事だからじゃ。
 悟りを得る為にも、日常で生きる為にも、常に自分を観ていれば、間違いはなく、常に正しい道を進んでいける故に。

 この言葉はダンマパダで一番重要な言葉だと、言った者も居る。
 確かにその通りかもしれん。
わしも常に頭に入れて、置こうと思って居る。


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テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 20:50:17 | Trackback(0) | Comments(7)
知識に囚われてはいかん。
 さて、今日は知識に囚われた者達への教えじゃ。

 もともと知識人などは多くが、知識こそ自分であり、自我であると認識しておるものじゃ。
 それ故に知識を捨てろと言うと、自我が消されると思い、強く反発し、なんとか消されまいとして激しく抵抗するものじゃ。

 例えば禅の者は良師は全てを奪うと言う。 
 その全ての中に知識は入っていないと思うのじゃろうか。

 例えば空を知る者は、一切は空であると言う。
 その一切の中には知識は含まれていないのじゃろうか。

 そうではあるまい。
 真の良師なら、知識も含めて、自我を存立させる因となるものを、全てを奪うじゃろう。
 一切が空とは、知識をも含める全てが空であると言う意味しかない。

 それなのに知識を自分だと思い込んだ者は、知識だけは例外だと、思い込んで、このような矛盾にも気づかぬふりをしている。

 知識が自分だと認識している者にとっては、知識を捨てろとは、正に自分を捨てろ、己を殺せと言われるに等しい。
 それ故に捨て去られ、殺されようとする自我が、激しく抵抗をするのじゃ。
 
 全てを捨てろとか、一切が空であると聞いても、その知識をしまいこみ、却って知識を増やし、自我を強化しているのじゃ。
 知識は道具に過ぎないとか、知識と思考、分別は違うだとか、ありとあらゆる言い訳を考え出し、知識とその投射された自我を守ろうとする。

 知識が道具ならば、ペンチやスパナのように、本来捨てる事も、又拾う事もたやすい筈ではないか。
 必要なら改めて身に付ける事も出来る。
 全てを奪い、一切が空ならば、知識と思考と分別と、全てを奪い去らせ、一切を空とする以外に無い。
 

 しかし、知識が自分であるとする者は、決して手放そうとしない。
 知識だけは例外であり、手放してはならないモノと、執着するのじゃ。
 その激しく抵抗する姿こそが、知識に執着している何よりの証拠であるが、決して気づこうとはしない。
 気づいてしまえばそれを捨てなければならない。
 それは自分を捨てる事に等しい故に、恐怖を生じ、執着が生じているのじゃ。

 だが本当に真実を求め、ありのままに観察する者は観る事が出来るじゃろう。
 知識も又、他の一切のものと同じく、移り変わるものであり、陽炎のようなものであり、実体が無く、空であると。
 どんな知識も永遠には止まらない。
 記憶は薄れ、変化し、やがて消える。
 書き写したものでも、やがては消えていく。
 知識は仮想された現実の上での、仮想されたデータであり、実体は無い。
 夢や幻のようなものと変わらず、永遠にして普遍な実体は無い。

 そのようなものとして知識を観る時、知識とその執着から離れ、自我の生成を観照する準備が出来るじゃろう。
 そして、観察を続ければ知識を因として生じた自我が、観えるじゃろう。
 その時こそ恐れずに、全てを観るがいい。
 知識は己ではない、空であり、無我であり、ただ自我が投射している対象であると、完全なる了解が得られるじゃろう。
 更に進んで認識をも転換した時、完全なる悟りを得る事が出来るのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法Ⅳ自我解体 | 20:39:34 | Trackback(0) | Comments(11)

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