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無我
 お釈迦様が説いた経には、諸法無我とある。
無我とは自我が無い事と思われているが、実はそうではない。
これは真我、つまりアートマンが無という事なのじゃ。
永遠普遍の実体というものは、何処にも無いと観る、それが無我という事なのじゃ。

では、お釈迦様は真我を否定したのかといえば、それも早計じゃ。
お釈迦様がこのような事を言ったのは当時、真我の本当の意味を知らず、それに囚われている者がおったからなのじゃ。
真我ももともとは、修行の為の手法であった。
しかし、年月を経るにしたがってそれに言葉とイメージがつきまとい、却って真我に囚われ、それに自我を投射する者も居た故に、お釈迦様は諸法無我と説いたのじゃ。

言わばお釈迦様は、真我を否定したのではなく、真我の誤った使い方を否定したのじゃ。
諸法は無我であると言えば、アートマンにとりつかれた者も、目が覚める。
そこに言葉とイメージを投射していた者も、囚われなくなる。
その為に説かれたのじゃ。
真我とは良く誤解されておるが、それも又悟りへと導く技術であったのじゃ。
聖典などには真我が無で定義されるものとして、表されておる。
お釈迦様はそれを正しく理解し、解き明かしたに過ぎないのじゃ。
諸法は無我とは、諸法に自我が無いという意味ではなく、アートマンが無いという意味ですらもない。
正しくは、諸法の根源として追求してきたアートマンすらも、無と観よ、という教えなのじゃ。

本来は悟りへの手段であったものも、時が経てば言葉やイメージが投射され、概念として設定されてしまう。
それは阿頼耶識しか認識手段を持たない人間の、習慣でもある。

当時の修行者は、多くが真我を追求しておった。
しかし、アートマンという名前がつけられてしまうと、どうしてもそこに概念が生じてしまう。
その概念に自我を投射し、却って囚われの元になってしまうのじゃ。
それ故に、お釈迦様は、無我と言われたのじゃ。

それはアートマンが無いという事ではなく、アートマンすらも無であると観る事により、アートマンを追求してきた者の心を、無にする効果があったのじゃ。
全てがアートマンであり、そのアートマンすらも無であるとした時、修行者の心は、寄る辺となるなるものを無くし、無念無想に没入する。
そこでは思念も概念も起こる事が無く、夢想のサマーディーが続く。
そして観照が始まるのじゃ。

これはその意味では、真我にとりつかれた者に対する教えと言えよう。
真我に囚われている者には有効な教えと言えよう。

 


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

わしの考え | 21:25:03 | Trackback(0) | Comments(9)

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