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鬼和尚天空

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実修1 八正道
 お釈迦様は苦を滅する法を、四つの真理として説かれた。
 四聖諦と呼ばれるものじゃ。
 しかし、時代が重なるうちに真理が埋もれてしまい、本当の方法が判らなくなっておるようじゃ。
 
 観察というものはあまりに微妙であり、実践が難しく、伝えにくいという理由もあるじゃろう。
 12因縁や念処なども観察の結果であり、それを得ることが目的ではないというのに、それだけを丸暗記して法であると思うのは、例えば水泳のマニュアルを覚えて、泳げる気になっているようなものじゃ。
 水泳のマニュアルを幾ら覚えても、実際に水の中で泳いで見なければ、決して泳げるようにはならないものじゃ。
 同じように文字を覚えてこれが12因縁じゃ、四聖諦じゃと言っても、実践出来なければマニュアルをただ暗記しているのと同じなのじゃ。

 四聖諦のうち八正道においては、始めに正見をせよと書いてある。
 ここから説かねばならん。
 正見とは正しく見る、観察する事なのじゃ。
 あまりに明白であり、結果だけを文字にしたために、多くの者が勘違いしているようじゃが、正しく伝えられ、翻訳されたお釈迦様の教えは多くが観察せよと教えておる。

 何を観察するのかと言えば、苦、苦の集まり、起こり、苦の滅、苦滅の道を観察せよと教えておる。
 苦などはともかく八正道すらも観察せよという。
 正見を正見せよという。
 観察すらも観察するのが、正しいお釈迦様の教えなのじゃ。

 正しい観察によって、その元に正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定がある。
 正しく観察する事によって正しく考え、正しい言葉を使い、正しく業を行い、正しく生活し、正しく精進し、正しい念が生じ、正しい定に入る。
 そして、正しい定によって、正しい観察が力を増す。
 これが止観の道なのじゃ。

 正しい観察を行い、正しい定が出来、正しい定によって強くなった集中力で、より正しい観察が出来るようになる。
 このように止観の道を修めて、始めて苦を滅する基礎が出来上がる。
 苦を滅せんとする者は、先ず正しい観察と正しい定によって、集中力と観察力を養うのじゃ。
 
 


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苦滅の道実修 | 21:13:54 | Trackback(0) | Comments(4)
実修2  苦の観察
 止観を実践して集中力と観察力がついた者は、苦を観察する道に入るのじゃ。
 苦を観察するというのは簡単なようで実際には、こきが難しいものじゃ。
 何故なら多くの者は苦を恐れ、逃避し続けた為に、自分に苦があるという事すら認めないようになっていたりするものじゃ。
 苦から逃避するという習慣が出来ている者は、苦を認め、滅しようと決意する事すら難しいじゃろう。

 しかし、最初の一歩が肝心なのじゃ。
 自分に苦がある、苦しんでいるという事をはっきり認め、その苦を滅しようと決意すれば、もはや苦は半分は滅したも同然じゃ。
 全ては己の決意にかかっておる。
 苦があると認め、それを滅するという決意から全てが始まるのじゃ。


 苦があると判ったなら、それを正しく観察するのじゃ。
 それはどのようなものなのか、始めて観るような気持ちで観察する。
 それは目や耳や鼻や舌や体や心にどのような影響を及ぼしているのか。
 見る事、聞く事、匂う事、味わう事、感じる事、考える事にどのように関わっているのか、観察する。

 それがどのようなものであるか、子供のように観察するのじゃ。
 観察にはあらかじめ結果があってはいかんのじゃ。
 結果が判っているなら、それは観察ではない。
 経典に書かれているのは、例であり、マニュアルなのじゃ。
 心から沸いてくるものがどのようなものであろうとも、それを認め、肯定も否定もせずに観察し続けるのじゃ。

 本当の観察とはただひたすらに今、ここにあるものを観ていく事じゃ。
 例えば子供が目の前に見知らぬ物を出されたら、どうするじゃろう?
 子供はただひたすらに見つめるじゃろう。
 我を忘れ、己も無く、ただ無心にそれが何なのか見つめる。 
 それこそが観察なのじゃ。

 心の中から湧き上がる感情に、名前を付ける事すら観察の妨げになる。
 例えば誰かと離れた時の苦が悲しみとは限らない。
 それは怒りかもしれん。
 
 感情を限定する事無く、初めてそれを見つけた子供のように、驚きと新鮮さをもって心の中から湧き上がるなにものかを観るのじゃ。
 どんな言葉が浮かんでも雑念として処理するのじゃ。
 涙が出るなら泣いていい。
 そして眼から水を出していると観察する。
 耐えられないと感じるなら、そのように感じていると観察するのじゃ。

 それがどこから沸いてくるのか判らないなら、それから逃げているからかもしれん。
 その時も逃げていると観察する。
 逃げるのは恐れがあるからかもしれん。
 それも恐れから逃げていると観察する。
 なにものが表れようとも、それを観察し続けるなら原因が観えてくる。
 そして、苦の集を観る事に繋がっていくのじゃ。  


苦滅の道実修 | 21:12:50 | Trackback(0) | Comments(0)
実修3 苦の集の観察。
 お釈迦様が教えられた縁起は、人の心の中に起こるものが、ただ一つであるのではなく、関連していると示している。
 苦もただそれだけであるのではなく、原因から関連し、関連する事から連想や想起があると教えられている。
 それを観察するのが、苦の集の段階である。

 苦が確かにあり、それが原因から生じていると判ったなら、苦を滅する観察が本格的に始まる。
 原因から苦があり、それが縁によって想起されると、全体を観察したならば、早くも苦は客観化され、厭離していくのが判るじゃろう。

 ここで注意しなければならんのは、前にも書いた通り、観察が知識を得るためではないという事じゃ。
 原因を探り出し、原因が判ったからといって、それで終わりではない。
 苦が無くなるまで、繰り返し、原因から苦が生じ、苦から逃避が起こっていると、観察し続けなければならん。
 
 例えばキサーゴータミーのように、子を亡くしたのなら、子供への執着から苦が生じ、
それから逃避しようとして、生き返らせたいと願っていると、観察し続けるのじゃ。
 何かの事故にあい、その経験から恐怖症に陥っているなら、己の肉体への執着から死への恐怖が起こり、そこから逃避しようとして思い出すことを避けていると観察する。

 多くの苦は執着が原因になっておる。
 しかし、あらかじめ結果が判っていては、むしろ観察の妨げじゃ。
 経典などに書いてあるのは観察例の一つであり、参考にしても囚われてはならん。
 例えば人によっては愛する者と離れた苦も、原因は怒りかもしれん。
 あるいは別に二つも三つも原因があって、苦が成立している事もある。
 一つの苦が執着を生み、別の苦の原因になつているという事も珍しくは無い。
 人の心は千人居れば、千の違いがある故に、一人一人が真摯に己の心を観る努力をしなければならない。
 そして、観察によってどのような事が判ろうと、それを受け入れ、苦が無くなるまでその連鎖を観続けるのが大事なのじゃ。

 苦は人の認識の上に成立し、記憶によって思考や感情をともなう回路を作り上げる。
 それに自我を投射し、己の苦である、己が苦しんでいると誤認する故に、苦は人にとりついてはなれないのじゃ。
 観察によってそれらが己ではなく、ただ記憶によって成立した回路である事が了解された時、自我の投射は止み、苦は厭離される。
 
 そのような縁って起こる苦の集が観られたなら、次の苦の滅によって更に厭離を促進するのじゃ。
 


苦滅の道実修 | 21:11:57 | Trackback(0) | Comments(2)
実修4 苦の滅の観察
 苦が縁起していると判ったなら、今度は苦の滅を観察するのじゃ。
 これによって苦の縁起は更に客観化が進み、厭離が容易になる。

 苦が原因から生じるという事は、原因が滅すれば苦も滅するという事になる。
 苦が滅すればそからの逃避も無くなる。

 苦の集によって感得した縁起の段階を、そのまま逆にたどって苦の滅するさまを観察するのじゃ。
 執着が滅すれば、苦が滅する。
 苦が滅すれば、逃避も滅すると観察する。

 これを逆観という。
 普通のが順観じゃな。
 順観と逆観をおこなっていくと、苦の縁起はより速やかに厭離されていくものじゃ。
 観想であり、観想しながら観察するのじゃ。
 苦の縁起が滅していく過程を考えながら、己の反応を観ていればそこに必ず変化は訪れる。
 
 例えば子を亡くしたキサーゴータミーの場合なら、子に対する執着が滅すれば苦が無くなり、苦が滅すれば、逃避も滅すると観想し、観察する。
 恐怖症ならば、己に対する執着が無くなれば、苦が滅し、苦が滅すれば、逃避も滅すると観想し、観察する。

 逆観によって苦の無い状態の心が観想されると、それに対する投射が無くなり、自然に縁起する苦の回路が浮かび上がり、かんたんにに観られるじゃろう。
 苦の縁起を離れた己の心が、苦を客観的な存在として観る。
 そして、更に厭離は進むのじゃ。

 このように己の心を観察し、苦を観る修行をしていけば、どのような苦であろうと、全ての苦は必ず滅する。
 苦が滅すれば生き方さえも変わる。
 苦を滅する道は強く生きる道にもなるのじゃ。

 しかし、一つ注意しなければならんのは、苦を滅すれば今まで逃げていた恐怖や不安と対する故に、強いストレスがかかる事じゃ。
 ストレスが溜まってきたと感じたなら、少し休んで上を向いて、ため息をつくような漢字で大きく息を吐きながら、体の力を抜くのじゃ。
 そうすればストレスは抜けていく。
 この時、体が自然に動く事も在るが、自然な反応であり、気にしないで良い。
 それでもストレスが抜けない時は一時中断し、ストレスが無くなってから又再開するも良い。
 自らの心身を調えながら、修行を進めるのじゃ。

 多くの苦があれば防衛反応により、自我を滅する事も難しいものじゃ。
 それ故に悟りを得る修行の為に、苦を滅する事も説かれたのじゃ。
 このように縁起として成立する心の仕組みを、観る事に慣れれば、その仕組みによって成立する自我を観る事も容易になるじゃろう。
 そして、苦の元になる己というものが観られたなら、全ての苦を滅し、二度と生じなくする悟りが訪れるじゃろう。 


苦滅の道実修 | 21:10:41 | Trackback(0) | Comments(4)
苦滅の理論Ⅱ
 観察と知識は違うものじゃ。
 観察とは、知識を得るためにするものではない。
 知識を得ても苦が滅しない限り、観察を続けなければならんのじゃ。

 例えば昔、お釈迦様が居た頃にキサーゴータミーという母親が息子を無くしたそうじゃ。
 キサーゴータミーはお釈迦様に生き返らせてくれと頼んだ。
 するとお釈迦様は、
 「この子を生き返らせるには、今まで死者の出た事の無い家から貰った水が必要だ」
 と、言われた。
 そこでキサーゴータミーは家々を周って、聞いてみたが、どの家も死んだ人が居ると答えるばかりじゃった。
 とうとう死者の無い家は見つからなかった。
 しかし、キサーゴータミーの苦は消えておったという。
 やがてキサーゴータミーは、出家して尼になったそうじゃ。

 キサーゴータミーも人は死ぬものであり、死んだ者は生き返らないと知ってはいたじゃろう。
 どのように苦しんでも無駄とわかっていても、知識では苦は去らない。
 繰り返し観察する事によって、苦は始めて滅するのじゃ。

 この話は観察によって苦が無くなる過程を良く表しておる。
 お釈迦様は子供が生き返らないと知って居ったが、キサーゴータミーの苦を無くすために死者の無い家を探し回らせ、他人の苦を観察させたのじゃ。
 修行者ならば修行によって得た集中力で、己の苦を観察できたじゃろう。
 しかし、そのような力の無いキサーゴータミーの為に、方便を使って他人の苦を観察させるようにしたのじゃ。

 このように愛する者を無くした苦は、愛別離苦と呼ばれるものじゃ。
 愛する者を無くし、その悲しみが何度も繰り返し起こり、自分では止められない、恐ろしい苦じゃ。
  

 現代でも癌やうつ病などの病気になる者は、近親者が死んだりした者に多いと言う。
 無くなった愛する者の残した着物を見たり、同じような年頃の者を見たりするたびに、苦しみは繰り返し起こったじゃろう。
 そして過去にこのようにして置けば良かったとか、今ここに居ればどんなに良いだろうかとか、思うたびに苦は増大していく。
 悲しみ自体は自然な反応であり、苦ではないが、それが記憶による認識の不備により、何度も繰り返し起こり、止められず、増大していく事が苦になるのじゃ。
 
 そのような苦も、縁によって起こり、苦に終わる結果を観察されれば消え行く。
 キサーゴータミーが家々を廻り、死者はないかと聞けば、それによって家の者に苦が起こる事もあったじゃろう。
 そのように聞くと言う縁によって、悲しみが起こり、苦しむ家の人の姿を見る事によって、己の苦もこのようなものであると、全体を観察する事が出来た。
 そして苦は客観化され、己との同一化が解消され、滅して行ったのじゃ。

 このように他人の苦を観察する事によっても、苦は無くなる。
 しかし、そう都合よく己と同じ苦を抱える者が近くに居るはずもない故に、己を観察する以外に無いものじゃ。
 

 苦が縁によって起こる所を、因によって生じる事を、結果として苦がはびこり、逃避や隠すという行為が起こる事を、全て観察すれば、必ず苦は消える。
 そして全ての苦が拠って起こる因である、己と言うものが観察できたならば、全ての苦が消える悟りを得る事も出来る。
 それまで実践あるのみじゃ。


苦滅の道理論 | 20:57:29 | Trackback(0) | Comments(0)
苦滅の理論
 今回は苦と観察について話すのじゃ。

 人を苦しめるものの本体は何かと言えば、それは阿頼耶識による繰り返し起こる一連の連鎖反応と言えるかもしれん。
 苦は因により、縁によって、何度も繰り返し起こり、止めることが出来ず、増大していくものなのじゃ。
 それは今、ここにある現実を見る事が出来ず、過去の記憶による認識がそうさせておるのじゃ。
 
 例えば死の苦、死苦というものがある。
 死というものは現実にあるものであるが、生きている限りは誰もまだ経験した事がない。
 経験したことが無いにも関わらず、人は死を慮り、それを苦にしておる。
 死苦の本体は死そのものではなく、過去の記憶から構成された、死に対する不安や恐怖を伴う言葉とイメージに過ぎないものじゃ。
 それが繰り返し起こり、止められず、増大する故に死は苦となる。

 人が何らかのきっかけで個我の消滅という推測や、他人からの情報などによって死に対する恐怖や不安を抱くと、それが記憶され、関連性のあるものを見たり聞いたりする事で、なんどもその不安や恐怖が甦る。
 認識そのものが記憶に依存している故に、人はそれを止められない。
 止められないから何かに逃避し執着する事で忘れようとする。
 すると執着するものを得られないという苦や他者との争いという苦が、次々に起こる事になる。
 このようにして人は苦を繰り返し味わい、止められず、苦が増大して行く人生を送る事になるのじゃ。

 病や貧困による苦も世の中にはある。
 それらは今、ここにおいてあるものと思う者もいるかもしれん。
 しかし、それらも又、個我というものに執着し、その消滅する不安や恐怖と結びついているのじゃ。

 例えば病による痛みは今、ここにあるものじゃが、それは本来体に備わった、警報に過ぎないものじゃ。
 体のどこかに不具合があれば、体は痛みという警報装置で教えてくれる。
 痛みはただの警報であり、それが体を傷めるものではない。
 意志によって気にならなくする事も出来る。
 しかし、痛みが起こる度に、肉体が壊れるのではないかとか、昔は痛まなかったとか、 早くもとのようになりたいとか、何度も繰り返し思い、それを止められぬ故に、病による痛みは苦になるのじゃ。

 貧困も腹が空き、餓えるものじゃが個我に囚われなければ、苦になるものではない。
 もっと金が欲しいとか、恥だとか、金があればと思う心が苦を作り出す。

 そのような心の仕組みは全て記憶による認識である、阿頼耶識によって成り立っておる故に、繰り返し表れ、止められず、増大する性質をもっているのじゃ。
 そしてそのような苦に自分のイメージである自我を投射している。
 苦が我であると想い、執着し、離れようとしない事が更に苦を増しているのじゃ。
 
 例えば人が自動車事故などに会い、恐怖を味わったとしよう。
 その記憶は心に残り、自動車とか車に関係するものを見たり聞いたりする度に、表れ出る。
 その記憶の連鎖は止められず、恐怖そのものを恐れ始める。
 恐怖から逃れる為に車を見ないように外出を避けたり、思い出すものを目に付かないようにしたりと、さまざまに苦を増やしつづける。
 そして、そのような苦を己だと想い、執着し、離れず、苦であると認めようともしない。
 これが多くの人間の陥っている現状なのじゃ。

 このような苦の連鎖を止めるには、観察をするのじゃ。
 観察によって記憶の連鎖は止まり、客観視する事で自己同一化が解消される。
 このような過程は厭離と呼ばれる。

 観察によって観察するものと観察されるものとの間に、狭間ができるのじゃ。
 観察されたものは外部のものとして認識され、自己同一化が終わる。
 そしてその仕組みが全体として把握される時、あたかも種のわかってしまった手品のように、もはやそれは苦として恐怖や不安の対象ではなくなり、いらないものとして処理されるのじゃ。

 このように今、ここにある苦の表れと、原因と、逃避する行程を全て観察する事で、苦は止める事が出来るのじゃ。
 観察は今、ここにあるものを観る行為であるから、過去の記憶に惑わされず、干渉を受けないのじゃ。
 とは言っても最初のうちはやはり観察をしていても、つい記憶に釣られてしまうとう事もあるじゃろう。
 しかし、集中と共に修行していく事で、観察は上達し、記憶に煩される事が無くなる。
 十分に修行した者なら、個我の成り立ちを観察し、あらゆる苦を消す、観照が起こる事もあるじゃろう。
 全ての苦を消すまで、みんな精進するのじゃ。


苦滅の道理論 | 19:58:40 | Trackback(0) | Comments(5)

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