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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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己を追及するのじゃ。
 わしはこれまで止観を教えてきたが、それらは法であり、悟るための方法に過ぎない。
 その方法をどれほど習熟したからといって、悟りは訪れないものじゃ。
 逆に方法や、それによって得た知識などに執着するなら、逆に悟りは遠ざかるばかりじゃ。

 悟りを得るにはあくまでも、己を追求しなければならないのじゃ。
 それを忘れて方法や知識に囚われ、それによって自我を補強するならば、法はもはや何の意味も無くなる。
 多くの修行者がこの落とし穴に陥った。
 そして今も多くの者が、方法や知識を誇り、悟りを遠ざけておる。
 自ら正しい法を知り、それ故に他人を排斥しなければならないと考えるなら、それは己の自我を補強するための考えに他ならない。
 そのような欺瞞が、真摯に己を追及する道となる事は在り得ない。

 正しい知識に囚われるならば、その正しさの故に知識は悟りをもたらさない、誤ったものとなる。
 例えば向こう岸に渡るために造られたイカダについて、どのように知り尽くしても向こうには渡れないように、目的のために造られた法についての知識を集める事に、時間を費やしてはならんのじゃ。

 もしも人が何の法も知らず、知識も無いが、ただ己とは何なのか、何が我であり、我があると言えるのかと、真摯に追及し続けたなら、それだけでも悟りはやってくるじゃろう。
 法とはそのような追求を、行い易くする為のものでしかないのじゃ。

 それ故に我が子達よ、真の悟りを求めるなら、どこまでも己を追及して行くのじゃ。
 例えばおぬしは手であろうか?
 手が無くなれば、自分は無くなるじゃろうか?

 或いは体の他の部分が己じゃろうか?
 体のどこかが無くなれば己は無くなるじゃろうか?

 或いは心の中の何かが自分じゃろうか?
 感情が己であり、感情が無くなれば己は無くなるじゃろうか?
 思考が己であり、思考が無くなれば己は無くなるじゃろうか?
 或いは認識する作用が己であり、それが無くなれば自分は消えるじゃろうか?

 或いは言葉が自分であり、言葉が無くなれば己は消えるじゃろうか?
 それともイメージが己であり、イメージ出来なければ自分が無くなるじゃろうか?

 このようにどこまでも己を追及し、諦める事無く続けていくならば、悟りは自ずから来るじゃろう。
 
 


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悟りの真実 | 20:47:07 | Trackback(0) | Comments(9)

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