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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自我を完成させて捨てるのじゃ。
 普通の者は誰でも自分を自分と認識する自我をもっておる。
 それは認識そのものが不完全な故に、誤った自己認識ではあるが、悟りへの道を行くには必要なものとも言える。

 自我がある故に意志が芽生え、己の行いを己の責任で結果を受ける覚悟が出来るのじゃ。
 自我さえも不完全であるならば、強い意志が無く、己の行いの結果を己で受ける覚悟も無い。
 
 未だ不完全な自我を持つ者は、自ら何かをしようと思わず、他人からの反応で生きているものじゃ。
 誰かがこのように言ったからこうするとか、あのように言っているからこれはしないとか、全ての動機が他人からの言動で決められ、自らの考えで行いを決める事が出来ない。
 そのようであれば、その結果もまた誰かのせいでこうなったとか、あのようになったとか、自分で結果を受け止める事ができなくなる。
 このような不完全な自我を持っているならば、悟りに向かう前に、自立しなければならないのじゃ。
 自分自身が考え、その結果を自ら受け止める覚悟あって始めて修行は完遂される。

 そのように他人からの反応で生きている者は、自ら自立した自我を持つ事が重要になる。
 自我を持って始めてそれを捨てる事も出来るのじゃ。
 捨てる事によって起こる結果も、全て自分で受け止める覚悟と共にのう。

 このように知れば人がこのように生まれ、自我を持つ事も又必要な事であったと判る。
 それは完成され、捨て去られるために在ったのじゃ。
 学校に行く者が一年生から二年生へと進学するように、自我は完成から放棄へと進歩して行くのじゃ。
 それは恐れる事でも不安になる事でもない。
 ただ通り過ぎていく道の一つに過ぎないものなのじゃ。

 この自我について観察が完全に行われ、厭離が出来たのなら、悟りは始めの段階に入る。
 自我が滅したのなら、それを観るものである認識をも滅する事が容易になる。
 認識をも滅した時、悟りは完成されるのじゃ。

 自我について知る事は人が進歩する上で、大きな利益がある。
 常に気をつけて己の自我を観察しているならば、気付きも訪れ易くなる。
 自我は子供の頃や思春期には体験する自己認識を元に成立しておる。
 自分が他のものとは違う、世界にたった一人の自分と認識した時、人は強い孤立感があるものじゃ。
 今までの親や周りのものと一体であった感覚は無くなり、たった一人で世界に対応している気分になる。
 その強い孤立感、孤独感の故に、人はさまざまなものに逃避する。
  
 酒や薬物に依存したり、偽りの一体感を得るために、どこかの国や共同体の一員であるとか、そのような形の逃避もある。
 宗教に依存するのもそのような逃避の一種と言えるじゃろう。

 自我を観察し難いのは、そのような逃避行動がいくつも重なり、孤立感、孤独感を思い出すからなのじゃ。
 習慣的に孤独からの逃避を行っていると、逆に孤独感を思い出させる自我の観察も難しくなるのじゃ。
 
 そのような習慣を改善する為には、獅子の如く勇猛心を奮い起こさなければならない。
 孤独から逃げず、むしろ立ち向かっていこうと言う勇猛なる心が、成長への道を示す灯りとなるのじゃ。

 お釈迦様は犀の角のように独り歩めと言われた。
 孤独によって人は確かに成長するものじゃ。
 他人に依存する不完全な自我を持つ者も、自ら独り歩むならば、己の行いが己にのみ返ると知り、依存を離れるしかなくなる。
 多くの民族が成長のための儀式として、一人での旅行を行わせるものじゃ。
 たった三日の間でもただ一人になって考えるならば、人は変わるじゃろう。
 そのようにして自我は完成し、自立した者となる。
 

 更に孤独に立ち向かう事によって、人は見難い自我の成立を観察し、それを捨てる事も出来る。
 孤独に立ち向かう力は人の中にもともとあるものじゃ。
 それは勇猛心と呼ばれる。
 勇気の事じゃ。
 知識よりも、技術よりも孤独や恐怖に立ち向かうためには、心の中にある勇気が必要なのじゃ。
 修行者達よ、勇猛心を奮い起こし、孤独や不安や恐怖を乗り越え進むのじゃ。
 

 


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テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

元気が出る説法 | 20:32:46 | Trackback(0) | Comments(11)

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