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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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献身の道
  献身の道とは大体神仏の観想を行いそれと一体化する修行じゃ。
 神と仏は本来違うものじゃが、ここではイメージとして同等に扱う故に一緒にしていうのじゃ。
 浄土宗や密教などが主に行っているものじゃ。
 神仏を観想するのは極楽へ行くためとか、その力を借りるために行われると思われているが、ちゃんとやればそれもまた悟りへの道になるものじゃ。
 神仏を心底敬愛している者には呼吸を数えるよりも早くサマーディにまで至れるものじゃ。
 呼吸を愛する者はおらんが、神仏を敬愛する者は多い故に。
 そのような者が神仏と一体化すると観想すれば、無念夢想の境地が速やかに現れるのじゃ。

 大体の道筋は神仏をイメージして一体化し、サマーディに入る。
 そして、その状態で自我の成り立ちを観る。
 自我が落ちるとその状態を観ている認識も無くす。
 そのように進む。

 神仏と一体になったサマーディによって、自我を観る事が容易になる。
 サマーディに到達し、神仏のイメージ無しでその状態になれるならば、神仏のイメージは捨ててよいのじゃ。
 それは集中力を増すためのイメージに過ぎないものなのじゃ。
 用がなくなった後も神仏のイメージに囚われるならば、それより先には行けないものじゃ。

 献身を行う者は先ずは自分が最も敬愛する神仏、菩薩などを選ばなければならない。
 浄土教だから阿弥陀如来を、真言だから大日如来を乾燥しなければならないという事はない。
 本当は観音菩薩が一番好きじゃとか、宗旨とは違うが不動明王がいいという者もいるじゃろう。
 そのような時は自分の心に素直になり、最も敬愛する神仏を選ぶのじゃ。
 
 それは自分の心を見てこなかった者には難しい事かもしれん。
 何が本当に好きなのか、心を誤魔化してばかりいれば判らなくなったりするものじゃ。
 献身の道は神仏を敬愛する心情を発揮するものであるから、己の感情に素直に従うのが原則といえるのじゃ。


 観想をするにはイメージが大事じゃ。
 神仏がイメージ出来るように修行が必要じゃ。
 観無量寿経にはイメージを訓練する過程が載せられておる。
 最初は夕日とかイメージしやすいものを思い浮かべる。
 それが心の中にありありと見えるようになったら、川とか大地とか木などをイメージする。
 それも見えるようになったら、神仏の降りる座席をイメージするのじゃ。
 阿弥陀如来や観世音菩薩なら巨大な蓮の座席とかを最初に思い浮かべる。
 そして、神仏の本体をイメージするのじゃ。

 イメージする神仏の姿は、自分の最高の理想とするものでなければならんのじゃ。
 観無量寿経では何キロも身長のある巨大な阿弥陀如来や、観音菩薩が説かれておる。
 必ずしも巨大である必要はないが、そのように想像を絶するほどの神仏のイメージを心に浮かべる必要がある。
 理想的な神仏の姿は人によって違うじゃろう。
 それはある者には両親の姿に似ていたり、あるいは現世の敬愛する者の姿に似ているかもしれん。
 そのような神仏のイメージは極めて個人的な物であり、他人に告げるものではない故に、心置きなく己の理想をイメージを作り出すのじゃ。

 神仏のイメージが出来たら一体化をするのじゃ。
 一体化にはさまざまな方法がある。

 自分が小さくなって神仏の胸に入り、神仏が小さくなって自分の胸に入るというイメージをする。
 
 神仏の眉間から光が出て自分の眉間に入り、その光が自分の胸に回って胸から出て神仏の胸に入る。
 その光が神仏の眉間に回ってまた自分に入り、ぐるぐる回る。
 光がどんどん大きくなって光の中で一つになる。

 自分が大きな神仏の中に入り、同時に小さな神仏が自分の中に入る。
 大きなものは小さくなり、小さいものは大きくなって自分と同じ大きさになる。

 ただ単に神仏のイメージを強く思い浮かべて集中する。

 などの方法がある。
 どれがいいという事はなく、自分に合った方法を見つけるのが大事じゃ。

  神仏との合一が果たされたならば、思考や認識の働きは緩くなり、忘我の状態になるじゃろう。
 一度でならなくとも修行を続けていけば、その時はくる。
 我という物の認識が一時的に止まった状態、それがサマーディなのじゃ。
 その状態ならば自我の生起を、自己同一化せずに観る事ができる。
 
 思考や感覚などの同じ繰り返しによっていつも感じる自分というもの。
 いつもと同じように感じ、反応する同じ自分という偽りの自己認識。

 そのようなものが合一した神仏の視点から、無になった心から観る事ができる。
 それらを残す事無くくまなく観察し、滅し尽くさなくてはならない。

 我というものが完全に滅すれば神仏もまた生じる事がなくなる。
為す者と為される物が消えたそこにおいても、未だそれを認識するものがあると気づくじゃろう。
 その認識をも滅した時、悟りは完全に徹底されるのじゃ。
 そこにおいてはもはや語るものも、語られるものもない。

 どのような行も最後には我を滅し、それを認識するものをも滅さなければ完全とは言えない。
 我という者に執着すればそこへは辿り着けない。
 この献身の道によっても我に執着する者は、神仏に執着し、捨てられないじゃろう。
 それは神仏に囚われるのではなく、神仏に認められる我に執着する故なのじゃ。

 神仏を敬愛する者には献身の道は速やかにサマーディまで導くじゃろう。
 しかし、悟るためには我も神仏も捨てて行かねばならん。
  例えば賢く、慈悲のある親がいたならば、子供がいつまでも自分の下にいればいいとは思わないじゃろう。
 子供が自分以上に成長し、いつか独り立ちするのをむしろ喜ぶじゃろう。
 そのように神仏も真に智恵があり、慈悲深い親のようなものならば、自らを敬愛する修行者がいつまでも我が下に居るより、むしろ自分よりも成長し、自らを灯明とする事を喜ぶじゃろう。
 子供が親の糧を利用して育ってもむしろそれを喜びとするように、神仏もまた自らを利用して成長する修行者を喜ぶ。
 自らのためでなく、全ての衆生の利益をもたらすのが目覚めた者なのじゃから。

 修行者達よ、全てを捨てて完全なる不死の境地に行くのじゃ。


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りを得るための修行法 | 10:39:54 | Trackback(0) | Comments(2)

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