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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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出離の楽しみを味わうのじゃ。
 ダンマパダにはこのような句がある。


 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。
 それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。
 修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

 出離の楽しみとは悟りそのものの事じゃ。
 それは戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないと書いておる。
 戒律や誓い、知識を多く知ること、瞑想、孤独によっても得られない。

 それらはただ悟りを得る助けになるもの、手段に過ぎないものじゃ。
 それをどんなに上手く、また長期間にやったと言っても、それだけでは悟りは得られないのじゃ。

 戒律は日常生活を正しくすることで、自らを追及する環境を作り出すものじゃ。
 誓いは道を歩む意志を確立させる。
 それらは助けにはなるが、それだけでは悟りを得る事にはならない。

 博学、知識を学び、多く知る事もまた悟りを得る事にはならない。
 良くある誤解が、世にある科学と言うものが法則を知る事を目的にしている故に、仏教も法を知るという事が悟りではないかと思われておる。
 しかし、なにものかについて知識を得たとしても、苦は無くならず、智恵が生じる事も無い。
 それ故にそのような知識や思想、ものの考え方などは悟りを得るものとはならないのじゃ。
 多く知ることによって、修行する上で助けになり、不安が無くなるという事はあるじゃろう。
 しかし、知識を悟りだと思い、それに囚われれば悟りは遠ざかる。

 瞑想もまた手段であり、それで悟りを得るということはない。
 瞑想の中で己を無くすサマーディなどの深い瞑想も、悟りではない。
 瞑想は心を観る手段として有効であるから、行うものに過ぎないのじゃ。

 孤独であることも、修行の役には立つ。
 独りでいれば他人からの反応で生きる事無く、自らを偽る必要も無い。
 己の心を観るには良い環境となるものじゃ。
 しかし、ただ独りでいるだけで、悟りが得られるものではない。

 それらの環境や方法は、全て助けにはなっても、直接悟りを得るためのものではないのじゃ。
 悟りは人が何の方法も無く、ただ己の本心を真摯に観た時に起こる。
 己と言うものが起こる時、完全に注意して見守れば、それが実は己ではなかった事が判る。
 心の中の習慣として己が起こる。
 観るべきものはそれのみなのじゃ。
 そして己が無くなり、認識をも実体が無いものと観る時、完全な悟りはやってくる。

 言葉にすればこのようになるが、言葉を超越した悟りが実際にこのように起こるわけではない。
 そのような悟りによって煩悩の汚れは全て消え去る。
 その時まで、油断無く精進するべきであると経典は語っている。
 
 この句によって、悟りを得るためには、戒律や誓いや知識や瞑想や孤独などに囚われ、時間をとられるのは間違いと判るじゃろう。
 手段や知識や環境はは、己の本心を観るためでなければ、却って回り道となるものなのじゃ。
 手段や知識を捨て、己の本心が観られたならば、出離の楽しみを味わうじゃろう。
 その時にはすでに必要としない楽しみを、自ら味わうのじゃ。


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ダンマパダ(法句経)解説 | 19:59:24 | Trackback(0) | Comments(15)

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