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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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原因が無いと観想するのは、原因を無くすためではないのじゃ。
 苦を滅するための瞑想で、原因が無いと観想しても原因が無くならないと、思う者が居るようじゃ。

 苦を滅するために、原因が無いと観想するのは、その原因を無くすためではないのじゃ。
 それは苦を滅するために、原因が無いと想うだけなのじゃ。
 その原因が無かったらどのようになるかと、心の中で想い、心の反応を観察するのじゃ。

 例えば手にりんごを持っていたとして、それが無ければどうなるかとか想うとする。
 りんごが無ければ、手にかかる重みが無いじゃろう。
 冷たい感触とか、匂いも無いじゃろう。
 そのようにもし無かったらどのようであるかと想い、その反応を観察するだけでよいのじゃ。

 原因がその観想により無くなるのではないのじゃ。
 原因の記憶はありつづけるじゃろう。
 しかし、そこから次々に起こる苦の反応が滅するのじゃ。

 例えば親にぶたれたとかの記憶から他人への過度の依存が起こり、満たされぬと、そこからの逃避として酒や薬にまで依存するようになると言うような反応があるとしよう。
 原因から観想して反応が完全に観察されれば、原因となった記憶は残っていても、その原因から起こる他人への依存や満たされぬ苦や、そこからの逃避としての更なる依存などが起こらなくなるのじゃ。

 そのように順逆から観想する事で、苦の反応がよく観えて来るのじゃ。
 観察された苦の反応が、自我の投射を離れ、その苦が己ではなく、己のものでもないと気づきが起こり、厭離に至るのじゃ。
 何度も実践すれば、その微妙な働きがわかって来るじゃろう。
 修行者は良く実践し、速やかにあらゆる苦を滅して進むのじゃ。
 

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テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

苦滅の道理論 | 19:51:27 | Trackback(0) | Comments(15)

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