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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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感覚を制するのじゃ。
 今回はダンマパダに記された修行法について書くのじゃ。

 360 、 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361 、身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。
心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。
修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。


 このように目や鼻などの感覚器官を慎むというのは、ヨーガでは制感法と呼ばれるのものじゃ。
 この法は感覚を制する事で、深い瞑想の境地に入る方法なのじゃ。
 感覚を制すれば深い瞑想に入り、安楽が生じるのじゃ。

 瞑想が深くなれば、自然に感覚が無くなり、安楽の境地になるものであるが、制感の法は、感覚を制する事でその境地を再現し、深い瞑想に入る方法なのじゃ。

 瞑想をしていても物音などがすると、一々それに気を散らされたりする事があるじゃろう。
 自我のイメージを持っている人間は、普通の生活をしていても、瞑想中でも不安や恐怖から、周りの情報を求めているものじゃ。

 それ故に僅かな物音にも反応してしまうのじゃ。
 予め感覚を制しておれば、そのような事もなくなるのじゃ。


 制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
 目を閉じただけでは未だ見ようという意志が残っているじゃろう。
 見ようとする意志も放棄しなければならない。

 丁度寝る時のように、何か見ようとする意志を捨てるのじゃ。
 目に向けていた注意力を引き上げ、心に向けるように感じる者も居るじゃろう。

 それが出来れば目を開いても、見える物に反応しなくなるのじゃ。
 そうすれば目の感覚を制するのは完成なのじゃ。

 同じように耳に向けていた注意力を止め、何かを聞こうとする意志を捨てるのじゃ。
 耳から音が入ってきても、心に反応が起きないようになれば完成じゃ。
 耳の次は鼻からの嗅覚、舌からの味覚、全身の触感も制していくのじゃ。

 そのようにして次々に感覚を制御していくと、恐れが生じる者も居るじゃろう。
 人は不安や恐れから周囲の情報を求めている故に、それがなくなると恐れが露になるのじゃ。
 そのような恐れを観察し、滅して行けばさらに深い境地に行くのじゃ。

 肉体の感覚が全て消えれば、そこに安らぎが感じられるじゃろう。
 肉体の感覚を超えた、周囲の空間を感じ、そこに意識も感じられるじゃろう。

 それは空無辺処定とか識無辺処定と呼ばれる境地じゃ。
 肉体の感覚という仮設された刺激が消えれば、自然に本来の感覚が蘇るのじゃ。

 さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や何ものかを分別する働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。
 言葉も分別も無い境地に、心は安らぐ。
 
 サマーディの中で自らを認識する仕組みに気づく事が出来たならば、己があり、己のものがあるという謬見は永遠に滅する。
 そして認識をも滅した時、悟りは訪れるのじゃ。

 瞑想をしていても周囲の物音に反応してしまう者や、更なる深い瞑想の境地を求める者はこの制感の行を修行してみると良いのじゃ。


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

ダンマパダ(法句経)解説 | 20:33:22 | Trackback(0) | Comments(6)

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