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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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観察
  観察というものは、人によってはかなり難しい修行といえるじゃろう。
 多くの知識を得ている者ほど、逆に観察が困難であったりする。

 通常の学問では初めに知識が与えられる。
 地面に転がっている硬いのが石であるとか、緑のものが草であるとか、最初に知識が与えられ、それを見たものに当てはめるものじゃ。

 観察は逆に見たり、感じたりする事が先になるのじゃ。
 何かを見て白いとか緑色であると、感じたそのままを認識するのじゃ。
 それには知識は逆に邪魔になる。
 
 石が硬いと思っていると、柔らかい石があったり、水に沈むと想っていると水に浮く石もあったりする。
 知識があれば石は硬い筈だから柔らかいのは石ではないとか、浮くのは石ではないとか想ったりするじゃろう。

 初めに与えられた知識があれば、それを優先して現実を否定しようとするのが、記憶に依存した認識を持つ人間の習性であるからなのじゃ。
 記憶の中の知識が世界であり、そこから逃れられないのじゃ。

 観察も行っている積りで、実は記憶の連想や思考をしているだけになってしまう事もあるじゃろう。
 観察と連想や思考は全く違うのじゃ。
 
 観察は実際に在るものを観て、そこから特徴を見出すものじゃ。
 思考や連想は記憶にある知識や情報を、起こるままに操作しているに過ぎないのじゃ。

 観察は常に新しく、今まで知らなかった事がわかるのじゃ。
 思考や連想は過去の記憶が元であるから、新しいものは無いのじゃ。

 例えば自分の手を観察すると、関節に皺が三本あるとか気づいたりするじゃろう。
 昨日は気づかなかったのに、今日は気づいた。
 それが観察によって実際に在るもの見たという事なのじゃ。

 真の観察は常に新しい、何かに気づく事なのじゃ。
 
 それには記憶による知識や情報は邪魔になるだけなのじゃ。
 知識や情報やマニュアルや昨日観察したという意識さえ、今日の観察の妨げになるのじゃ。
 毎日、新しく初めて観るような心掛けで、観察を行わなければならないのじゃ。
 
 知識や情報によって手に皺があると、新しく気づくことは出来ないじゃろう。
 逆に手には皺がないと言う間違った知識や情報があれば、観察の妨げになったりもするのじゃ。
 通常の学問のように、初めに与えられた知識や情報によって、実際にあるものを当てはめて考えるという習慣があれば、そのように知識や情報が観察を困難にするのじゃ。

 知識や情報やマニュアルや昨日観察した記憶を捨て、知識を当てはめる学問の習慣さえも捨てて、今生まれて初めて対象を観るかのように、赤子のような眼で観察するのじゃ。
 自分自身の感覚だけを頼りに、今の苦や苦の連続する性質や苦の原因を、正しく観察するならば、苦は必ず滅するのじゃ。

 そして己という者も又、習慣による心の連想によって起こるものであると気づいたならば、それもまた滅するじゃろう。
 更に己が無い事を観るものも、記憶と記憶の対象に依存して在ると錯覚されているものであると観察できれば、悟りは向こうから訪れるのじゃ。

 


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悟りの真実 | 20:45:30 | Trackback(0) | Comments(18)
さらに自らの心を観るのじゃ。
 全ての真正なる導師達が、皆等しく説いている事が一つあるのじゃ。
 それは俗世に関わる事無く、自らの心の中を観る事なのじゃ。

 何ゆえ真正なる導師達は、自らの心を観る事のみを勧めるのか。
 それは凡そ一切の俗世間における物事は、人を満足させる事も出来ず、究極には苦をもたらすだけの夢幻の如きものであり、心の中にこそ真の満足と喜びがあると知っていたからなのじゃ。

 人が世間において金や権力や名声を求める時、それらが得られなければ苦しみ、得られても又それらを失いはしないかと苦しむものじゃ。
 得たものはやがて失われ、作られたものも壊れていくのがこの世の仕組みなのじゃ。
 それらを得ようとして苦しみ、得られても苦しむ世に真の満足と安らぎは無いのじゃ。

 怨みを心に抱く者が、世間において怨みを晴らそうとすれば、それが新たな怨みを生み出し、絶える事が無いじゃろう。
 心の中を観察する事によって怨みが無くなるのじゃ。
 そうすれば世間においても怨みを晴らそうとする事は無く、怨みは止むのじゃ。

 世の多くの者達が間違えてしまうのは、そのような事なのじゃ。
 心の中に寂しさや孤独があるから、金や名声で多くの者を身の回りに引き付けて寂しさや孤独を癒そうとする。

 しかし、心の中に寂しさや孤独があれば、どれほど身の回りに多くの者が居ても、寂しさや孤独は無くならないのじゃ。
 むしろ多くの人の中でこそ、更に強い寂しさや孤独を感じたりもする。

 先ず心にある寂しさや孤独を滅しなければ、世間においてどのような条件があろうと、寂しさや孤独は無くなる事は無いのじゃ。
 同じように心に劣等感や被害者意識やその他の苦があれば、心を整える事によってのみ、滅する事ができるのじゃ。

 人が初めて自らの心を省みた時、むしろそこに苦が多いと観えるかも知れん。
 今まで無理をして見ないようにしていた苦が、そこにあるからじゃ。

 初めて己の苦と向き合えば、恐れを抱く事もあるかも知れん。
 しかし、お釈迦様の教えた苦を滅する法によって、一つ一つの苦を恐れずに滅して行けば、そこに安楽があるものじゃ。

 更に進めば思考や感情を離れ、それをただ見つめている意識が在るのに気づくじゃろう。
 寂静であり、一切を見つめるものであるその意識に辿り着けば、肉体や感情や思考だけが己であると言う謬見を離れられるじゃろう。

 そして更に瞑想が深くなれば、もはや言葉をもって表される事の無い意識に辿り着く。
 言葉も仮設された観念も無いから一切の苦が無く、一切の本質が真の平等であり、区別が無い事を理解するのじゃ。
 一切の区別が無いからそこにもはや死は無く、永遠の安らぎがあるのじゃ。

 そこに至れば人は真正なる導師達の言葉が、本当に正しかったと自らに証明できるのじゃ。


 


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元気が出る説法 | 20:52:36 | Trackback(0) | Comments(3)

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