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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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神を知るために悟りを開くのじゃ。
  神を知るために悟りを開くのじゃ。

 仏教とは無神論であるとか、言われたりしておる。
 しかし、お釈迦様が悟りを得た時、創造神であるブラフマンが法を説くように勧請したとか、神を信じる者の為に、神は居ると言った事が記されておる。

 お釈迦様の教えとは全ての者の宝であり、神を信じる者達にも開かれているものじゃ。
 どのような思想や信仰をもっていようと、修行は出来るものじゃ。
 それが神を信じる者には、神を知り、神に近付く道にもなるのじゃ。

 例えば子供が総理大臣に会いたいとか言っても、何処にいてどのようにすれば会えるのかも知らず、自分では会う事は出来ないじゃろう。
 大人になれば総理と同じ政党に入ったり、有力者に近付いて伝手を辿って会えるようにしたりと、いろいろな手段で会えたりする。

 そのように修行しない者は智慧が無く、自らの心も観られず、心も乱れて神が何処に居るかもわからないものじゃ。
 修行すれば心は静まり、智慧が生じ、自らの心も見られるのじゃ。
 そこに神を求める事も出来るじゃろう。

 心を静め、謙虚に自らを省みる修行は、多くの神を信じる教えにも背かないものじゃろう。
 それこそが真に神を求める道とさえ言えるのじゃ。

 人が己の心の中に神を求める時、間違ってはならないのは、自我やその反映を神と思う事じゃ。
 己の為に神を求めれば、そのような間違いも起こるじゃろう。
 己を無くし、虚心に求めれば感じるじゃろう。
 その肉体にも全てと同じ本質がある事を。

 それは全てを作るものと同じ意識なのじゃ。
 それを感じれば神と呼べない神を知るじゃろう。
 


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テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

未分類 | 20:23:39 | Trackback(0) | Comments(14)

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