■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
念処経について。
  観察の為の手引きとして念処経と大念処経というものがあるのじゃ。
 内容は大体同じものじゃ。
 
 観察の対象である己を、身体、感覚、心、法の四つに分けて、それぞれを詳
細に観察して行くものじゃ。
 このように全てを観察すれば、心身の何れかに自分を投射している仕組みが
観察され、厭離が起こるのを促進しているのじゃ。

 人は自我を肉体や感覚や精神の思考や感情や認識などに投射しておる。
 それがどこか探すより、心身の全てを観察してしまえば、どれかは当るであ
ろうという意図によるものなのじゃ。
 ある意味、観察や悟りのマニュアルとも言えるじゃろう。

 先ずは肉体から観察して行くのじゃ。 
 肉体をありのままに観察し、肉体への自己同一化を止めるのじゃ。

 そして感覚を観察し、感覚からの厭離を目指すのじゃ。
 特に眼や耳に対して見るものや聞いたものが己であると言う謬見を離れるの
じゃ。

 更に心を観察し、思考や感情や認識や記憶に対する自己同一化を離れるのじゃ。
 思考が観察されれば思考に対する自己同一化が消え、感情が観察されれば感情が己であるとする認識が無くなるじゃろう。

 それらを観察するものとして法もまた、正しく実践されているか観察されな
ければならんのじゃ。

 そのように経に従って、全て観察されれば、悟りは訪れるかと言えば、そう
でもないのじゃ。
 マニュアル通りにすれば、直ちに悟りが訪れると言う事はないのじゃ。

 例えば思考が己であると思う者が、わざと思考はあまり観察しないで、全て
マニュアル通りに観察したと、想ったりもするのじゃ。
 自我を己と思い、己が消えるという恐れがあれば、自我は己を守るために、

さまざまな誤魔化しをしたりするのじゃ。
 どんなマニュアルも、自我が消失する恐れから逃げる者を、悟りに導く事は
出来ないのじゃ。

 それがマニュアルの限界であるのじゃ。
 念処経も真摯に悟りを求める者には役立つじゃろう。
 しかし、悟りを求める気の無い者には無意味なのじゃ。

 そのようにこの経にも限界がある事を知り、囚われる事無く学ぶが良いのじ

ゃ。
 
 


スポンサーサイト

テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 16:06:19 | Trackback(0) | Comments(16)

FC2Ad