■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
役割を超えるのじゃ。
 人は誰でもいろいろな役割を抱えているものじゃ。
 家庭では父親とか母親とか兄弟姉妹とか子とかの役割があり、社会に出れば学校の生徒とか会社の社員とかの役割があるじゃろう。
 
 そのような役割があれば、人は心の中にその役割に適した反応の習慣を創り上げるのじゃ。
 それによって外にさまざまな性格を持つ個人として認識されるのじゃ。

 そのような反応の習慣を心理学では仮面とかペルソナとか言ったりするのじゃ。
 そのような習慣が長年たつと人は仮面と自分の本来の性格がわからなくなったりするのじゃ。

 本当は暗い性格なのに社会での必要上明るい性格を演じていたりすれば、無理が生じてストレスも溜まったりするのじゃ。
 役割を演じる上で必要なものと、自分が本来必要とするものが判別しがたくなる者も居る。
 そのようであると自分が何をしたいのか、何をするべきなのかも判らなくなるのじゃ。

 時には全ての役割を離れ、本来の性格がどのようなものであるか、自ら知る事が肝心なのじゃ。
 それが本当に自らを知る事なのじゃ。

 役割の性質を知った所で、それは自分を知った事にはならないのじゃ。
 それは幾らでも変えることが出来るものであるからのう。

 日頃から自分に役割があることを知り、それを観察していればその反応にも気づくようになるのじゃ。
 会社の社員としての反応であるとか、親としての反応であるとか、理解していればそれを超えることも出来るのじゃ。

 一つの役割はそれによる一方からの視点しかもたらさないものであるから、一つの役割に深く囚われてしまうと自分の事も、他人の事も判らなくなったりするのじゃ。
 本来ならある筈の他人に対する慈悲心も役割によって隠されてしまい、人の心も判らなくなるのじゃ。

 そうすると記憶と反応による機械のような者になってしまうじゃろう。
 多くの者がそのような機械的な反応によって、世を過ごしているのじゃ。
 そして何をすれば善いのかも判らなくなるのじゃ。
 
 日々の観察によって役割があることに気づき、その反応を注視すれば、役割を超えることも出来るのじゃ。
 そして与えられた役割の仮面の奥にある、本当の性格を知るように勤めれば、本当の生き甲斐も知れるじゃろう。


スポンサーサイト

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

元気が出る説法 | 22:07:17 | Trackback(0) | Comments(14)
思考に囚われてはいかんのじゃ。
  頭を使うのが好きな者は思考に自分を投射し、思考が自分であると思ったりするものじゃ。
 思考が自分であると思えば、常に思考し続ける事を好み、思考に囚われてしまうじゃろう。

 そのようであれば身心は消耗し、ノイローゼや心神が衰弱してしまう事もあるのじゃ。
 何事もやりすぎれば心身に悪影響が出るように、思考し続けることも身心に悪いのじゃ。

 思考し続けていると、何か新しい事がわかったような気になり、進歩したように思う事もあるじゃろう。
 しかし、直ぐに新しい思考が始まり、前にわかったと思う事も否定して、もっともっと新しい事が判った気になる。
 そのように進歩したような気になっても、実は同じ事を同じ思考回路で何度も繰り返しているだけであり、少しも進歩はしていないのじゃ。

 思考を自分と思うという事は、自分を意識するためには思考し続けるしかない故に、新しい事が判っても判らなくても、思考し続けるのじゃ。
 思考する事そのものが目的になってしまっているのじゃ。
 本来は真実を知るための思考が、目的になってしまっては本末転倒なのじゃ。

 そして延々と続けられた思考は止める事が出来なくなり、休もうと思っても頭が勝手に思考を続けてしまうじゃろう。
 そうなれば本当にノイローゼ等になってしまうのじゃ。

 思考には対象があり、対象が無ければ思考は無くなるじゃろう。
 例えばりんごについて考えた時に思考はあり、りんごについて考えなければ思考も無いのじゃ。
 そのように対象に依存して思考は存在するのじゃ。

 対象に依存し、対象が無ければ存在しない思考は、実は己ではなく、己のものですらないのじゃ。

 そのような思考を制御するために、集中の行はあるのじゃ。
 数息観を行ったり、阿弥陀経等を読んで仏陀の姿をイメージしていれば、やがて思考は静かになり、消えていくものじゃ。
 自ら消そうと思わなくとも、集中によって思考は静まるのじゃ。

 思考は無くなってもそこに意識は在るじゃろう。
 思考の無い安らぎの意識に達すれば、もはや思考が己であるという囚われは無くなるじゃろう。
 そのようであれば正しい見解に達したといえるのじゃ。



テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 20:56:39 | Trackback(0) | Comments(15)

FC2Ad