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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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難易を知るのじゃ。
 集中力が身につき修行が進めば人は瞑想中に忘我の状態に入るのじゃ。
 そのような我と言う観念の無い集中状態を三昧、サマーディと呼ぶのじゃ。

 一時的に我を忘れ、在りのままの世界の姿を垣間見えるために、昔から真の悟りと間違われてきたのじゃ。 
 それは未だ真の悟りではなく、禅では小悟と言われる段階なのじゃ。

 更に精進して自我を滅し、認識をも超えなければ真の悟りではないのじゃ。
 その段階で驕り、自らを目覚めたと思えば修行も止まり、真の悟りは訪れないのじゃ。

 サマーディを続け、その状態を極めれば悟りに至る事もあるのじゃ。
 それには対象の無いサマーディにまで到達しなければならないのじゃ。

 対象に集中する意志がある限り、心の働きも止まらず、自我は完全に観られる事は無いからなのじゃ。
 対象の無いサマーディにまで到達すれば、心は止まり、自我は観られるものとなり、厭離されるのじゃ。
 
 しかし、そこまでに至るには長い時間と才能が必要になるのじゃ。
 観察を行えば悟りはもっと早くなるのじゃ。

 対象の無いサマーディによっても最後には自我を観察する事で厭離は起こるのじゃ。
 集中と観察を二つながら行う事によって、悟りは速やかに訪れるのじゃ。

 瞑想によってサマーディにまで至ったならば、忘我の状態から、きっかけによって起こる自我を観察するようにするのじゃ。
 昔の僧も烏の声とか、鐘の音とか、セミの声を聞いて悟ったと言う者が多いのじゃ。

 忘我の状態に在る時、それらの音を聞いて、記憶から起こる自我を見る事が出来たのじゃ。
 そのようにサマーディに入ったら、油断無く注意深く観察し、自我の起こる瞬間を捉えるのじゃ。

 自我は記憶から縁によって起こるじゃろう。
 強い集中力によって、それが観られれば厭離が起こるのじゃ。
 自我が厭離され滅すれば、認識も容易く滅することが出来るのじや。

 修行者はそのように修行の道に難しいのと容易いものがある事を知り、迷うことなく進むのじゃ。


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テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 21:03:05 | Trackback(0) | Comments(6)

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