■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
気付きとは真実のあり方を見出す事なのじゃ。
  観察を行う目的は気づきを得るためなのじゃ。
 気付く事で人は苦を厭離し、自由になるのじゃ。

 例えば道の真ん中にでかい蛇が居ると見た時、人は恐れて道を行く事が出来なくなるじゃろう。
 しかしよく観察して、それがへびではなく縄であったと気づいたならば、もはや恐れは無く、自由に道を行く事が出来るじゃろう。

 そのように気付きとは、対象を良く観察して真実を見出す事なのじゃ。
 観察して真実に気づいたとしても、何か外部の世界が変化する訳ではない。

 蛇がどこかに行き、縄が現れたのではない。
 蛇がどこかに行ったから恐れが消えて、道を行けるようになったのでもない。

 縄は元から縄であり、自分が知らなかっただけなのじゃ。
 元々縄であったものを、蛇と間違えていた自分の認識が正されるのじゃ。
 
 そして恐れが無くなり、道を自由に行く事が出来るのじゃ。
 気付きによって変わったのは、自分の認識なのじゃ。

 認識が変わった故に、恐れが無くなり、自由に道を行けるようにもなったのじゃ。
 それが気付く事による解放なのじゃ。

 同じようにもし人が肉体が自分であり、肉体以外に自分は無いと認識していたならば、肉体がやがて無くなる恐れがあり、恐れによって苦を生じる事になるじゃろう。
 感情や思考や認識能力等もそれだけが自分であり、他に自分は無いと認識していれば、同じように恐れと苦があるじゃろう。

 しかし、観察する事によって自我を滅し、それらが己ではなく、己のものでもないと気付いたならば、恐れは消え、苦も無くなるのじゃ。
 それら肉体や肉体の作用や能力が変化したり、消えたりするのではないのじゃ。

 ただ自らの認識が変化しただけで、恐れは消え、苦は無くなり、心は自由になるのじゃ。
 それが気づく事の作用なのじゃ。

 悟りも自我の作用に気付く事で自我は無いと知り、認識の作用に気付く事で認識を滅して得られるのじゃ。
 肉体や心が変化するのではなく、自らの心の真実のあり方を見出す事で、悟りは得られるのじゃ。

 修行者はただひたすらに心を集中し、自らの本心を観察し続けるのじゃ。
 そうすれば気付きが訪れ、悟りは得られるじゃろう。


スポンサーサイト

テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 21:25:19 | Trackback(0) | Comments(0)
道の違いを知るのじゃ。
  真の悟りは一つであるが、悟りへの道は幾つもあるものじゃ。
 先ず最初には意志による道がある。

 強い意志を持って死を克服し、悟りを得ようとすれば短時間の内に悟りが得られるものじゃ。
 お釈迦様は7日間の瞑想で悟り、マハリシも一晩で悟ったと言う。

 人間の意志はこの世で最も強い力であるから、本当に決意して死を克服しようとすれば自然に短時間の内に悟りに至れるのじゃ。
 これには自分の全てを捨てても良いと思うような、強い意志が必要なのじゃ。
 
 大抵の者は自分を含めて全てを捨ててしまうと言う決意が出来ない故に、悟りもなかなか訪れないのじゃ。
 そのような者のために様々な法があるのじゃ。

 次には数息観などの集中の瞑想による道があるのじゃ。
 集中力を養い、忘我によるサマーディに到達し、更には対象の無いサマーディにまで至れば無我となり、悟りに至れるのじゃ。

 しかし無我で止まってしまったりすると小悟で終るのじゃ。
 無我になった後にその状態を観る認識をも滅して無認識に至れば真の悟りなのじゃ。

 この道は長い時間と才能が必要になる故に、限られた者しか成就できないのじゃ。
 神仏のイメージを用い、帰依する事によって無我に至るのも集中の法の一種なのじゃ。

 しかし、神仏に執着してしまうと対象を消す事が出来ずに、止まってしまうのじゃ。
 チベットのミラレパなども神仏のイメージは集中の為のものでしかないと言って居るのじゃ。

 神仏に強い信仰があれば集中力も増し、サマーディに至るのも早いが、信仰が邪魔をして行き詰まる事もある法なのじゃ。
 人によっては袋小路にもなる道なのじゃ。

 更には観察の道があるのじゃ。
 観察による道は観察できる者が行なえば早く悟りに至れるが、観察するのが人には困難なのじゃ。
 
 全ての道はいずれにしても自我を観て無我にいたるものであるから、最初から観察する修練を積めば悟りも早いのじゃ。
 しかし観察は記憶に依存した認識を持つ人間には、難しいものでもあるのじゃ。

 自分では観察している積りでも、つい記憶から生じた観念を作り出している事もあるからのう。
 今ここに生じる心の有様をそのままに観られなければ観察とはいえないのじゃ。

 例えば昨日は心にこのような感情が湧いたとか思えば、それはもう観察ではなく記憶の想起になるからのう。
 常に今ここに集中し、心を観察しつづければ観るものを観るのも近いのじゃ。

 ある程度集中力を養い、観察を行えば大抵の者には最も素早く悟りに至れる止観の道となるのじゃ。
 集中の法によって心をコントロールする力と技を身につけ、観察が出来るようになれば、悟りは素早く訪れるのじゃ。
 
 大抵の者は観察力が無く、持続力も無い故に先ずは集中の法で観察力と持続力を身につけるのじゃ。
 そのようにして観察するのであるから、合理的に悟りも近くなるのじゃ。
 止観の道こそ真のお釈迦様の教えと言えるのじゃ。

 このように種々の道があるのも人に種々の違いがあるからなのじゃ。
 止観の道は極めて合理的で近道なのであるが、人によってはどうにも出来ないという事もあるじゃろう。
 
 そのような者には集中の道こそ早かったりするかもしれんのじゃ。
 このように人には種々の性格の違いがあることを知り、修行者はそれぞれの道の優劣を知り、己にあった道を選んで進むが良いのじゃ。


テーマ:悟り。 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 19:24:12 | Trackback(0) | Comments(22)

FC2Ad