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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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不死の原理
人が死ねば肉体は無くなり、意識だけになるじゃろう。
 そうすると肉体や肉体の能力である思考や感情などがなくなり、それに依存していた者は己がなくなったと想うのじゃ。
 
 実際には全ては意識であり、肉体もその能力も意識の表れに過ぎないのじゃ。
 天も地も海も空間さえも一つの意識であるから、その中にある肉体やその能力などは小さな一部に過ぎないのじゃ。
 
 例えば爪の先がなくなっても人は己がなくなったとか、もはや何もなくなったとか想わないじゃろう。
 そのように肉体やその能力などは意識の一部であり、それが変化し、操縦する力が喪失するだけであるから何も無くなったりしないのじゃ。

 そのように観察する者には死も、もはや存在しないのじゃ。
 人が己の消滅として恐ろしいイメージと共に想起する死は、完全に滅しているのじゃ。

 肉体を己と想って執着していた者は、再び肉体を持つ事を望むじゃろう。
 その執着に従って、人は肉体に惹かれていくのじゃ。

 しかし己の行いの報いによって、得られる肉体も違うのじゃ。
 良き事をしてきた良い心の者には良い環境の肉体が得られるじゃろう。
 悪しき事をしてきた悪い心の者には、悪い所の肉体が得られるじゃろう。

 智慧によって分けられる報いには抗い様も無いのじゃ。
 そして悟りを得た仏陀はもはや肉体を必要としない故に、全てであるがままに安らぐのじゃ。

 このような正しい知によって修行者や賢い者は善事を心掛け、真の悟りを目指すが良いのじゃ。


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テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

悟りの真実 | 22:38:47 | Trackback(0) | Comments(10)
止観に励むのじゃ。
  今、止観と言う言葉は残っているが、その真の意味を知り、正しく修行しているのは、わしがここで教えている者たちだけじゃろう。
 お釈迦様が教えて以来、その言葉の意味すらも失われて久しいものじゃ。

 集中によって心を止め、心を観察する。
 ただそれだけの事が難しいのは、人々は自分の心を観ないからなのじゃ。
 なぜ観ないのかと言えば、観たくないからなのじゃ。

 誰でも自分について、多少の飾りがついたイメージがあり、それを壊されるのは恐いのじゃ。
 自分の心を本当に観ようとすれば、自分の心の醜さや、愚かさや、情けなさもちゃんと観なければならないのじゃ。
 自分について飾られたイメージがあれば、それには耐えられない。

 それ故に人々は観察を拒否し、忘れる事を無意識に選んだりしているのじゃ。
 その結果、本当の観は忘れ去られてしまったのじゃ。

 しかしどのように醜く、愚かで、情けない心であっても本当に自分の心が観られたならば、そこから本当に変わる事が出来るのじゃ。
 真の変容は観察によってのみ起こるのじゃ。

 心が観られなければ本当の変化も変容もあり得ないのじゃ。
 自らの心を観る事を避け続けて悟りに至った者など居ないのじゃ。

 どれほど困難であっても自らの心を観察し続ける者には、変化が訪れ、やがて変容もやってくる事じゃろう。
 長年続いた苦は観察されれば一瞬にして消え去るじゃろう。

 自我を観察できたならば、個我の観念を離れて無我に至るじゃろう。
 認識が観察できれば、真の悟りが訪れ、目覚めた者となるじゃろう。
 
 全ての変化と変容は観察によって訪れるのじゃ。
 その観察を強く完全なものとするには、集中力が必要なのじゃ。
 集中力と観察力を養う真の止観を修行する者は、真の変化と変容を味わう者となるのじゃ。

 盲亀の浮木と言うように人として生まれたものが目覚めた者に合うのは稀な事じゃ。
 既に忘れさられた止観の法を正しく知るのは更に稀な事じゃ。
 止観を正しく修行して変容を味わう事が出来るのは、真に稀な幸運な修行者と呼ぶべきじゃろう。
 修行者は自らの幸運を無駄にせず、永遠の境地に至るまで油断せず修行に励むのじゃ。


テーマ:自己探求 - ジャンル:心と身体

元気が出る説法 | 21:35:19 | Trackback(0) | Comments(20)

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