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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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無我の不安を無くすのじゃ。
 自我の厭離を願う者は、無我への恐れと不安を無く事で、無我への道が開かれるじゃろう。
 自我を己と思い、無我になるとは己を無くす事であると過って思っている者には、無我への不安と恐れも生じるのじゃ。
 無我に進むには、それを無くす事が重要に成るのじゃ。

 人が自我を自分であるとか、主体であると想うのは、子供がおもちゃの人形を自分の分身と想うのと同じ事なのじゃ。
 人形を自分の一部であり、己の身の分身と思えば、子供は人形を飾ったり、食べ物を食べさせようとしたり、寝かせたりするじゃろう。

 人形にそのような事が必要なのではないが、子供は自分と同じ者と見る故に、無意味な事をするのじゃ。
 
 大きくなった人が金や権力や名声を求めようとするのも、実は同じ事なのじゃ。
 観念である自我の名前やイメージを拡大するために、金や名声や権力を求めたりするのじゃ。
 それらは老病死という現実には、何の力も持っていないのに、自我という観念を己と同じと想っているから、それをせずに居られないのじゃ。

 そしてそのような不要な事をする為に、不要な苦まで生じる事に成るのじゃ。
 金や権力や名声を求めようとして得られなければ苦が生じる。
 それらを得ても、今度は無くさないかと不安が生じる。

 そのように実際の現実には役立たず、不要な遊戯を繰り返して苦と不安を生じているのが、自我を自分と想う故なのじゃ。
 自分ではない観念を自分と思い、余計な苦を抱えるのが自我を持つ無明なのじゃ。


 そのような観念を自分と思う事が無ければ、余計な苦を背負うことなく、安らぎがあるのじゃ。
 実際に無我となれば、無用な行いへの焦燥から離れ、深い安らぎがあるものじゃ。
  

 要するに自我を持つとは子供が人形を自分と想うように、観念を自分と想う事なのじゃ。
 そして本来必要ではないものを欲求し、余計な苦を抱える事でもあるのじゃ。
 自我を己と思う事から離れれば、安らぎがあるのじゃ。

 修行者はその事を良く知って、無我になる事への不安と恐れを超えて行くのじゃ。
 


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元気が出る説法 | 22:40:23 | Trackback(0) | Comments(16)

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