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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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信心銘の解説

 禅宗三祖僧璨禅師の信心銘を現代語で解説したのじゃ。
 初心者には難しいかも知れんが、修行の道に迷ったものには大いに参考になるじゃろう。
 一度は読んでみると良いのじゃ。

 01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

 至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
 ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。

 これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
 修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
 修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。

 02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

 ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
 ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
 
 少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
 在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。

 03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

 あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
 その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。

 人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
 それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。

 04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如

 分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
 まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。

 そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
 本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。

 05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

 俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
 一つの根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。

 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、自分に合わない空の法を無理に続けていてはいかんのじや。
 むしろ分別の無い自らの根本に立ち返れば、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。


 06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

 動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
 止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。

 瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。

 07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

 自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
 有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。

 自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
 自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。

 08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

 言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
 言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。

 言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
 心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。

 09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空  
 
 自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
 その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
 
 父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
 記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。

 しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
 返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。

 10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
 
 観念妄想が止まないのは皆妄見による。
 それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
 ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。

 人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
 仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。

 その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
 分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。

 11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

 有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
 これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。

 哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
 そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
 
 12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

 二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
 一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。

 論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
 何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
 



 13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 
 

 咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
 認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。

 法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
 その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。

 認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。

 14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

 境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
 それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。

 何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
 その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。

 それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
  

 15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

 一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
 その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。

 心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
 認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
 その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。

 その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
 あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
 
 16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

 大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
 小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。

 本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
 ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。

 17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

 そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
 自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。

 修行の道や心に執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
 心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。




 18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

 自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
 何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。

 己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
 なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。

 19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

 好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
 修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

 そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
 そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
 本来の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。

 20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

 その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
 賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。

 六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
 賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。 


 21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯

 それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
 それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。

 六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
 執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
 それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。






 22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。

 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


 23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。

 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。

 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。

 24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。

 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
 

 25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。

 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 

 

 26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。

 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。

 27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
 
 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


 28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 

 平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
 それが無為の境地なのじゃ。

 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。

 29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。

 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。

 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。

 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
 


 30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。

 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。


 31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。

 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
 
 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。

 32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。

 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。

 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
 
 
 33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。

 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。

 34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。

 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。

 そのような境地は守るべきではないのじゃ。
 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
 

 35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 

 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


 36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
 まことと心は一つである。
 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。

 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
 

 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
 ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。



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悟りの真実 | 19:05:50 | Trackback(0) | Comments(6)
家屋の作者を観るのじゃ。
  お釈迦様はこのように言っておる。

 153 、わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
  家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。
  あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

 154 、 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
  汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
  汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
  心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

 これはお釈迦様が何度も個我の観念を持って生まれ変わり、その元となったのが分別の作用であることを著しているのじゃ。
 
 家屋とは自我であり、個我の観念なのじゃ。
 それを作るのは作り手があり、それが観られればもはや家屋である自我は作られる事もないというのじゃ。

 その家屋の作り手は五蘊では色受想行識の行であり、唯識では末那識にあたるものなのじゃ。
 物事を分別する心の働きであり、りんごとかみかんとかの見分けをする認識の一部なのじゃ。

 この物事を分別し、見分ける働きがある限り自我は生成されつづけ、輪廻も止まることなく続くのじゃ。
 元々輪廻とは個我の観念のある者が、その個我が生死を越えてありつづけると思う故に起こるものなのじゃ。

 個我の観念の無い者には輪廻もまた無くなるのじゃ。
 誤った観念が無ければ個我は消え、真実である意識に回帰して不死の境地にもなるのじゃ。

 個我の観念を成り立たせ、認識させるものが分別と言う心の働きなのじゃ。
 我と他を分け、他と我の間に好悪の感情をもって順列をつける分別が自我の原因なのじゃ。

 分別は肉体があるからそれが我であり、感覚や思考も我のものであるとか我であると認識させるのじゃ。
 そして自分ではないものは他であり、その他の物も自分との好悪とか遠近によって分別されて個人の世界を形作るのじゃ。
 
 それが人の心の作る世界なのじゃ。 

 禅宗三祖僧璨禅師も信心銘に書いておる。

 「至道無難、唯だ揀択を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。毫釐も差有れば、天地懸に隔たる」

 「至上の道は難しいものではない、ただ分別を嫌い、愛するものとか憎むものとかの分別がなければ明白である。
 ほんの僅かでも分別を用いれば、天地も別れるほどの差になる」
 
 このように分別の心を用いればそこに我が起こり、世界もまた生じる事を表しているのじゃ。

 その分別する心を止めるには、ただそれを観察するだけで良いのじゃ。
 「家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
  汝はもはや家屋を作ることはないであろう。」
 
 と、お釈迦様も言うとおり、その作用はただ観られるだけで、もはや二度とは起こらなくなるのじゃ。
 自己同一化が観察によって消えるからなのじゃ。
 目覚めた者本人が仮に使用する場合は使う事も可能であるがのう。

 その作用は素早く観難い故に、一切は空であるとして分別の作用を止める方法も存在するのじゃ。
 一切を空として僅かでもその作用が止まるか、動きが鈍くなれば観察も多少は容易になるのじゃ。

 素早く観難い分別の働きも、日々の修行によって滅する事もできるじゃろう。
 修行者は分別をも観るために日々精進し、実践に励むのじゃ。
  


ダンマパダ(法句経)解説 | 17:43:06 | Trackback(0) | Comments(18)

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