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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自己観念を改革するのじゃ。
 人が全てを認識するのに記憶に依存しているように、自己の観念もまた記憶によっているものじゃ。
 その自己観念によって、自分は何が出来て何が出来ないとか決めているのじゃ。

 悟りへの道もそうであるが、一つの物事を出来る者と出来ない者が居るのもそのせいなのじゃ。
 自己観念が人の可能性を狭めているとも言えるのじゃ。

 その自己観念を改革し、自らの可能性を広げることは、自らを知り悟りへの道をいくにもよい効果が在るじゃろう。
 全ての観念は言葉とイメージによってできているのじゃ。

 自己観念もまた言葉とイメージによって出来ているのじゃ。
 自分の名前、自分のイメージが自己観念であり、自我の実態なのじゃ。

 その名前とイメージは過去の記憶による条件付けから起こるのじゃ。
 両親のしつけや過去の体験から、自分とはこのようなものとかの言葉やイメージが成立するのじゃ。

 例えば親から叱られたりばかりしていた子は、自分に否定的な言葉とイメージしか持てずにいたりするものじゃ。
 それが自分の可能性を限定したりするのじゃ。

 残念ながら全ての親が愛情はあっても智恵も在るとは限らない故に、多くの者はしつけによる条件付けから、自分の可能性を限定されていたりするものじゃ。
 例えば命の危険が在ることを教えるのに、いろいろな事をしてはいけないと教えるのに、他の有用なさまざまな事もしてはいけないと教えたりするのじゃ。
 
 そのような条件付けがあれば、後に大人になっても有用な行いが自分には出来ないとか、やってはいけないとか自己観念によって否定してしまうのじゃ。
 そのようなものも修行者を煩い悩ませる、煩悩といえるのじゃ。

 それらもまた観察によって滅することが出来るのじゃ。
 縁起を観察し、自己観念を改革するのじゃ。

 先ずは自分の名前を思い浮かべた時、他にどのような言葉が思い浮かぶのか、観察してみるのじゃ。
 何もまともに出来ない鈴木とか、何をやってもだめな吉田とかが思い浮かぶかも知れん。

 それらは過去に言われてきたことと関連していたりするのじゃ。
 それが過去の記憶から起こり、過去の記憶がなければそのような言葉も無いと観察するのじゃ。
 そうすれば言葉による自己観念の束縛はなくなるのじゃ。

 更には自分のイメージを思い浮かべてみるのじゃ。
 そのイメージは小さく怯えたものかも知れん。
 それもまた過去の記憶からくるものじゃ。

 それが過去の記憶から起こり、過去の記憶がなければ無いと観察するのじゃ。
 そうすればそのイメージも消えるじゃろう。

 そのようにして自己観念を改善していくのじゃ。
 改善したならばそのように自分の名前やイメージに対する否定的な観念はなくなり、さまざまなことができるようになってくるのじゃ。
 自分には悟りが得られないと諦めてしまう事もなくなるじゃろう。

 そして自分と思っているものが観念であり、意志によって変化させられるものであるとも理解できるじゃろう。
 修行者はそのようにして自己観念を改革し、道を遮る障害を乗り越えて進むのじゃ。
  


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悟りを得るための修行法 | 20:11:41 | Trackback(0) | Comments(10)

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