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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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大樹の例え
  例えばここに大きな樹があるとしよう。
 大地に広く深く根を張り、多くのの枝と、数え切れないほどの葉を持っている。

 春には葉をつけ、夏には花を咲かせ、秋には実を結び、冬には葉も花も実も全て落とすじゃろう。
 しかしまた春になれば葉をつけるじゃろう。

 その葉や花や実の一つ一つが衆生であり、生き物の姿なのじゃ。
 それらの葉や花が意思を持ち、自分が個体だと思う事から輪廻も始まるのじゃ。
 
 大樹の葉は樹から離れてあるのではない。
 枝を通して樹に結びつき、それがなくなれば葉としての存在もなくなるじゃろう。

 生き物も本来、呼吸や食物や空間を通して環境と繋がっており、離れてはその存在もなくなるのじゃ。
 周囲から離れた個体と思うことが無明であり、謬見なのじゃ。

 春についた葉が冬には落ちれば、存在が消滅したと思う。
 しかし同じ枝に去年と同じ葉がつけば、生まれ変わった、同じ個体が新しく生まれたと思うのじゃ。

 それが人の輪廻と同じなのじゃ。
 本来、個体は無いが、同じ記憶を持つ意識が肉体を持てば生まれ変わったと思うのじゃ。

 意識は樹の本体であり、枝と同じようなものじゃ。
 それを通じて肉体は存続し、それが無くては肉体は滅ぶものであり、本来のありようそのものなのじゃ。

 ここで葉の一枚が意思を持ち、自分だけが得をしようと日の光を独占し、他の葉の迷惑も考えずに広がったならば、樹はその葉をむしろ落とそうと思うじゃろう。
 一枚の葉のために全体が迷惑すれば、樹の意識はそのように働くのじゃ。

 人も悪行をなして他人を害し、反省することなければ滅びるのも早いものじゃ。
 個体であるという考えから生まれる欲とは別に、意識は知恵を持ってその肉体を滅ぼそうとするから自ら消えていくのじゃ。

 逆に一枚の葉が他の葉をも助け、それらを繁盛させようとするならば、樹はその一枚の葉をもっと助けようとするじゃろう。
 その葉を広げ、枝を伸ばし、全体のためになる働きを助長しようとするのじゃ。

 それと同じように人も他人を助け、慈悲によって接するならば、福楽は自らやってくるようになるのじゃ。
 全ての意識と智慧がそのような者を助け、繁栄させようとするのじゃ。

 そうであるから世において福楽を求める者は慈悲によって人々を安らがせ、喜ばせる行いを積み重ねるのじゃ。
 そうすれば自らも福楽を得られるじゃろう。

 特に肉親や身内に慈悲をもたらすのは優しいが、他人にも慈悲を示すのは難しいものじゃ。
 つけいれられないようにとか、だまされないようにとか、見知らぬ他人には気をつけろと教育されても居るから、より困難ではある。

 しかし見知らぬ他人にこそ、よく気をつけて慈悲を行うべきなのじゃ。
 他人もまた同じ樹に繋がる葉の一枚一枚であるが故に、身内と同じように慈悲を示すのじゃ。

 そして葉の一枚が自らの生じては散る苦のありように絶望し、そのような状態から逃れようとして目覚めれば、独立した葉というものがないと知る。
 自らが一枚の葉だけの存在ではなく、花も実も細い枝も太い枝も幹も根も全てが一つであったとわかるのじゃ。

 一年毎に生じては散る自らの性質も変化していく法の一つであったとわかるのじゃ。
 もはや葉としては生じることも無いようにできるのじゃ。

 そのように人も一切が苦にしかならない世に絶望して一切を捨てて修行に励み、目覚めれば個体であるという認識が謬見であったことを知る。
 自我が無く、認識をも滅すればもはや一切がひとつの意識であったと感じるのじゃ。

 輪廻も又変化していく永遠の意識の表れと知るのじゃ。
 そしてもはや個体として生まれることも無い永遠の喜びである涅槃にも入れるのじゃ。 

 そのように人として福楽を求める者も、修行者として悟りを求める者も、自らが他と離れたものではなく、今ここでも常に全てと繋がりのあるものとして心がけるのじゃ。
 迷った時や、不安な時や、恐れのある時、常にこのような例えを思い出して進むのじゃ。
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元気が出る説法 | 20:28:40 | Trackback(0) | Comments(8)

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