投稿日:2016-03-03 Thu
観察は本来難しいものではない。例えば道を歩いている時に道端に花が咲いているのに気づけば、それがもう観察によって気づいた事になる。
昨日は気づかなかった事に今日は気づいた事で、観察して真実を知った事になるのじゃ。
それによって花の咲いている道である事が分かり、季節の変化も知られる。
このような観察による気づきで真実を知る事となり、対応の変化も自然に行われるのじゃ。
或いは自分の手を観察して、皺が多いと気づいたならばそれも正しい観察による気づきなのじゃ。
腕を観察して太いと気づいたならば、それも正しく観察して気づいたことになるのじゃ。
足を観察して固くなっていると気づいたならば、それも正しく観察して気づいたことになるのじゃ。
或いは赤いものを眼で見た事を、赤いものを眼で見たと気づいたならば、それも正しい観察なのじゃ。
耳で聞いた音を今耳で聞いたと気づいたならば、それも正しい観察なのじゃ。
それらの刺激によって心が不快になったとか、快くなったと気づいたならば、それも正しい観察により気づいた事になるのじゃ。
そのように身体と感覚と心に、いまここで起こっている事に注意を向け、ありのままに気づいたならば、それが観察による気づきなのじゃ。
そのように観察は本来難しいものではなく、誰にでも出来るものじゃ。
しかし、観察に似て観察ではない心の働きもある。
道に咲いていた花が昨日はあったから今日もあるであろう、というのは観察ではない。
記憶によって推測しているだけなのじゃ。
自分の腕は皺が多いから今日見ても多いだろう、と思うのも観察ではないのじゃ。
自分の肉体への観念があり、それを思い出しているだけなのじゃ。
昨日の花は今日は咲いておらず、肉体も日々変化しているから昨日とは違うかも知れん。
そのようないまここにあるものを見ないで、記憶や観念によって考えたり、思い出したりするのは観察ではないのじゃ。
そうであるから例えば仏教用語の無常とか、見性とか、そのような言葉による観念があり、それを観察して理解したというのも実は観察ではないのじゃ。
何の観念も無く、今ここにあるものをありのままに見る事が観察なのじゃ。
観察をすれば日々刻々と移り変わる心身の働きに対して、何らかの新しい発見がある筈なのじゃ。
そのように新しい事に気づく事が、観察の目的なのじゃ。
そしてそれは知識を得るためではなく、心の変容をもたらすためなのじゃ。
苦を観察して執着によるものと気づけば、執着を離れ苦を滅することもできるのじゃ。
観察によって気づき、厭離したことで苦のある心が、苦の無い心に変容したのじゃ。
そのように観察によって気づきが起これば、心は自ずから変容するのじゃ。
同様に自我は単なる観念であったと気づけば、自我の観念を捨て去り、自我のもたらす苦が無い心に変容するのじゃ。
そして記憶に依存した認識があれば観念をつくり、個我の観念を生じて苦の世界をさまよい続けると気づいたならば、認識を脱して真の悟りに至るのじゃ。
それもまた言葉によって仮に表したものであり、真実ではないのじゃ。
人によって自我とは感情の主体と気づいたとか、感覚の主体としてみていたと気づく事もあるじゃろう。
観念は人によって違い、自我の観念も又人によって千差万別あるものじゃ。
修行者は自ら観察して、己の自我を見極めなければ成らないのじゃ。
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