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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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観察は習慣によってはいかんのじゃ。
 苦を滅するためには先ず最初に、それがどのような苦であるかを見わけなければならんのじゃ。
 苦が見わけられなければ、原因も分からず、滅することはできないのじゃ。

 例えば周りに人が居ない孤独と、愛する者と別れた苦は違うものじゃ。
 周りに人が居ないと不安や心細という感情があり、それが苦になるものじゃ。
 孤独の苦なのじゃ。
 それは自分という者があるという観念に対する執着が原因となっているのじゃ。

 愛する者と別れた苦は愛別離苦といい、愛する者への執着が原因なのじゃ。
 共に周りに人が居らず、孤独を感じる故に、同じものと間違いやすいが感じる苦は違い、原因も違うのじゃ。

 そのように同じような状況で同じ苦に見えても、それぞれ違う苦があるのじゃ。
 苦が違えば原因も違い、それぞれに自らの本心を観察して見わけなければならんのじゃ。

 観察というものに慣れてしまうと、時に似たような苦には同じものであろうと見当を付けてしまい、同じ原因として観たりするものじゃ。
 しかし、実は違う苦であれば原因も異なり、観察も効果が無かったりするのじゃ。

 観察は常に自分の心の中に新しい何かを発見する心構えで行わなければならんのじゃ。
 習慣化してしまうと観察ではなくなるのじゃ。
 観念を観ているだけになってしまうのじゃ。

 記憶に依存している人間は、同じことを繰り返していると、つい習慣化してしまい、観念遊戯に陥ってしまうものじゃ。
 観念をもてあそぶのは観察ではないのじゃ。

 常に心の中に新しい何を見つけようと、全ての注意力を注ぐのが観察なのじゃ。
 それによって困難な苦の見わけもつくものじゃ。

 更に人は生き物の本能によって苦しいことからは逃げようとするから、苦からも目を逸らす作用が働くのじゃ。
 苦が人の心にあり続けるのも、そのような逃避があるからなのじゃ。
 時には何年も、或いは何十年も苦から逃避し続けて一生苦しんだりもするのじゃ。

 そのような逃避からも脱却するために、観察は全ての注意力と集中力をもって行わなければならんのじゃ。
 全ての注意力と集中力をもって観察を行えば、苦も見分けがつき、確実に滅することもできるのじゃ。
 このように観察は習慣によってはならず、逃避も乗り越えていかなければならぬ故に真に困難であるが、実践できれば確実に苦を滅し、悟りに導くことができるのじゃ。
 修行者は力を尽くして実践するがよいのじゃ。
 


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悟りを得るための修行法 | 23:47:45 | Trackback(0) | Comments(8)

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