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鬼和尚天空

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不死の境地
 悟りを得られれば不死の境地に入れるとお釈迦様は説いたのじゃ。
 不死の境地とは死を超越した境地なのじゃ。
 苦の最たるものである死を超越することがお釈迦様の教えの真髄なのじゃ。
 仏教の全てはそのためにあるのじゃ。

 死を超越したならばもはや他の苦も一切なくなるのじゃ。
 死以上の苦はないからのう。

 それでは人はどのようにして死を超越することが出来るのじゃろうか。
 死とは肉体の働きが停止することなのじゃ。
 それに伴って肉体に拠っていた全ての能力もなくなるのじゃ。
 感覚とか思考とか感情とか認識などもなくなるのじゃ。
 それらが自分であると思っていたならば死は自分の消滅であり、絶望しかない現象なのじゃ。

 しかし、肉体とその能力だけが自分であり、その他に自分は無いという観念に囚われていなければ死は消滅ではなく、絶望でもないということになるのじゃ。
 そのように自分という観念を正しく捉える事で、死を超越することになるのじゃ。

 実際に肉体が自分であり、自分は肉体しかないという観念は謬見でしかないものじゃ。
 人の肉体は呼吸や食事や飲み物を通して物理的にも全てと繋がっているのじゃ。
 それが個体であり、個我であり、他のものと分別された自分であるということはありえないのじゃ。

 例えば呼吸ならば鼻から入った空気がいきなり自分になり、鼻から出て行けば自分ではなくなるということもないじゃろう。
 自分とはそのようにはっきりした境界を持たず、あいまいな観念を習慣によって認識しているだけなのじゃ。
 自分とはどのような存在であり、どこからどこまでが自分であり、何があれば自分と呼べるのかと知らなければ、そのあいまいな観念に囚われ続けることになるのじゃ。

 瞑想と観察はそのあいまいな観念を明確にして、それが自分ではないことに気付く方法なのじゃ。
 自分というものを明確に観るように努めることで、それが観念であることに気付くのじゃ。
 自分とは主体ではなく実際にあるものではなく、習慣によって形成された観念なのじゃ。
 境界さえも不明確な観念が、どうして全てのものごとを認識する主体であり自分であるという事がありえようか。

 そのようにして自分という観念から離れたならば、もはや死もあり得ないのじゃ。
 自分が無いのに自分の消滅はあり得ないからのう。

 更に認識をも超えたならば、全てが繋がっていることが実感としてわかるじゃろう。
 天も地も全てのものごともただ一つの同じ本質を持っていることがわかるのじゃ。
 膨大な空間さえも又意識が充満していることが感じられるのじゃ。

 全てであるならば二重の意味で死は無いのじゃ。
 死という観念はなく、死という実際も無いのじゃ。
 全てである意識が存在するだけであれば、肉体の消滅はその一部が変質するだけとわかるからなのじゃ。
 それが不死の境地なのじゃ。
 もはや永遠に意識があるだけなのじゃ。
 人は誰でも死の瞬間まで自らを知る努力を続けることで、その境地に到達することもできるのじゃ。
 


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悟りの真実 | 13:59:58 | Trackback(0) | Comments(4)