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般若心経の実践法⑤
  般若心経の最後の実践は認識の空を観じる方法なのじゃ。
 認識とは人の全ての心身の働きの根本にあるものじゃ。
 認識が無ければ全ての心身の働きは行うことが出来ないのじゃ。

 認識するという心の働きと、認識の対象と、認識の主体が全て空であると念じれば、全ての心身の働きも消え去るのじゃ。
 認識することが無く、認識対象と認識主体が無ければ、全ては無になるのじゃ。
 認識するが無ければ何かをしてもしなかったことになるのじゃ。
 知識も無く、分別も無く、およそ言葉にする事も全てなくなるのじゃ。

 そのようにして認識が止まれば、自分という認識も止まるのじゃ。
 自分という主体が無く、他人という客体もない。
 知覚するものも無ければ、働きもない。
 その時、真の無為が為されるのじゃ。

 自分が無くもはや心の働きも無く、言葉にする事もない無為の境地に在れば真の大悟徹底の境地にも参入できるのじゃ。
 
 最後の境地にまで至るには、悟りを達成するという強い意志が必要になってくるのじゃ。
 認識が空であると強く念じれば、あらゆるものごとが認識できない状態になるのじゃ。
 それは狂気の状態に似ているのじゃ。
 それに恐れをなして逃避してしまう者もいるじゃろう。

 そもそも人は認識された知識による世界に住み、それを自己よりも先にあり、従うべき世界であるとして自己よりも高い価値観を持っているものじゃ。
 それがなくなるということは混乱に還ることであり、知識による世界の整合性を求めていた者には到底受け容れられない事じゃろう。
 洋の東西を問わず、人の作り上げた世界は知識の大きな集合としてあり、知識の王国とも言えるものじゃ。
 知識を多く集め、知識を積み上げることが人間の最も偉大な営みとして認められてきたのじゃ。
 
 それらが無くなる事は自分個人としての破滅ではなく、世界全ての破滅にも思えるものじゃろう。
 西洋では知識を愛することが哲学として全ての学問の上位に位置づけられているのじゃ。
 分別や知識を無くせという教えは、人の営みとして本来ありえないものとさえ言えるのじゃ。

 しかし、大乗仏教ではそれを実践せよと説かれるのじゃ。
 知識や分別を無くすことが、生き物としての至高の境地である悟りに通じるものであると言うのじゃ。
 このような逆説的な教えを実践し続けるには、正に強い悟りへの意志を奮い起こさねばならないのじゃ。

 狂気にも似た無分別の状態を乗り越えたならば、更に法を捨てる段階に入るのじゃ。
 般若心経で苦集滅道、十二因縁さえも空と説かれた通り、仏陀の教えさえも空としなければならんのじゃ。
 それは空の法も同じなのじゃ。
 このすべてを空と念じる法さえも空と観るのじゃ。

 正に空を空と観るのじゃ。
 空は空と異ならず、空は即空であると観るのじゃ。
 これこそ般若心経の文字には表れない、文底に隠された最後の法なのじゃ。
 狂気にも似た混沌から無為に入り、法をも捨て去った時、真の悟りは芽生えてくるのじゃ。
 
 その時、自己を捨て去ったことから心身の完全な統御を得ているじゃろう。
 観念を捨て去ったことから観念の完全な理解を見出すじゃろう。
 知識を捨て去ったことから智慧の完全な完成を遂げているじゃろう。

 観念の一つである死はもはや無く、永遠の安楽が実感できるじゃろう。
 時間が無いことが永遠であり、全てが意識であるから空間と言えるものも無いのじゃ。
 
 そのような大悟徹底の境地に至るまで実践あるのみなのじゃ。


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悟りを得るための修行法Ⅴ空の法 | 20:47:59 | Trackback(0) | Comments(8)