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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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悟りとは死を超える道。
  悟りとは何かと多くの者が疑問に思っているじゃろう。
 お釈迦様が悟りという優れた境地に到達したと、2500年前から知れ渡っているが、一体それがなんの役に立つのかとか、なんのためにあるのかと、未だに人の中には知らない者が多いじゃろう。
 この娑婆世界の人間の半数以上は、未だ悟りというものがあるということすらしらないのじゃ。
 悟りというものがあると知っているものでさえ、それがなにであるかと聞かれればあまり良くわかっていなかったりするじゃろう。
 お釈迦様は悟りへの方法だけを説いて、それが何であるか詳しく説くことはなかったために、そのような疑問も起こるじゃろう。

 そのように悟りとは何か知らなくては、求めることも困難なのじゃ。
 自分が何を求めているのか、知らなくては求めることも出来ないのじゃ。
 悟りとは何かはっきりと知れば、求めることも出来るのじゃ。
 
 真の悟りとは死を超える道なのじゃ。
 お釈迦様が得た悟りは、死というものを克服できる境地なのじゃ。
 その悟りに拠ってお釈迦様や阿羅漢達や諸々の先達は、死を克服して永遠の意識に没入したのじゃ。
 人が死を超えて永遠に安楽な境地に入ることを、悟りと呼ぶのじゃ。

 それこそが真の悟りなのじゃ。
 死を克服できない境地は悟りではないのじゃ。
 悟ったと思う者は自らを省みて死を克服したか、確かめるのじゃ。

 お釈迦様が語っていなくとも、師弟の行状を見れば悟りは死を超える道とわかるのじゃ。
 お釈迦様は王子だった時に四門を出て、老病死を免れぬ人の定めを知ってそれらを超える道を探したのじゃ。
 そして得たのが真の悟りであったのじゃ。
 更にその境地を弟子にも伝えたのじゃ。

 お釈迦様の弟子で阿羅漢と成った舎利弗がまだ、お釈迦様に会ってもいないころに、目連と互いに死を超える道を探し、もしどちらかが得ることがあれば教えあおうと、誓ったことがあったのじゃ。
 後に舎利弗がお釈迦様に逢い、修行して悟りを得た後に目連に逢ったのじゃ。
 目連は舎利弗を一目見て忽ち彼が死を超えた境地にいるとわかったのじゃ。
 それで目連もお釈迦様の下で修行して悟りを得ることが出来たのじゃ。

 このように師弟の行いを見ればお釈迦様が目指した境地とは、死を超えた境地であり、それは他人にも伝えることが出来るものであるともわかるじゃろう。
 お釈迦様が言い残したことは、その境地を得ることが出来る方法のみであるためにわかり難いが、このように師弟の行状を見ればよくわかるのじゃ。
 
 では人はどのようにして死を克服するのかといえば、それは誤まった認識を排除することで可能になるのじゃ。
 誤まった認識とは記憶による認識なのじゃ。
 その認識に拠って自分という謬見も起こるのじゃ。

 自分という個我がある、他からはなれた実体としての個体がある、独立した主体があるというのが、謬見なのじゃ。
 その謬見から老病死や他の一切の苦も起こるのじゃ。
 
 この謬見と認識の誤りから抜けることが出来れば、死を克服できるのじゃ。
 それらのためにこの肉体だけが自分であり、自分の全てであると誤認していたから死もあったのじゃ。
 それらが無ければもはや死も無いのじゃ。

 例えば大樹が自分を末端の木の葉の一枚と誤認すれば、それが落ちる時に自分全体がなくなる死と死の恐れもあると誤認するのじゃ。
 大樹の全てが自分であると知れば、一枚の木の葉が落ちても樹の自然な働きの一つであると理解して、自分が無くなる死も死の恐れも無くなるのじゃ。
 そのように人も肉体が自分であり、自分の全てであると誤認していれば死があるが、全てが自分であるという正しい認識を感得すれば死も無くなるのじゃ。
 
 以上の如き死の克服は、自己とは何かという認識を観察する事で可能になるのじゃ。
 自分を何度も何度も観察してその不在に気付くことが出来れば、自己の謬見はなくなるのじゃ。
 更に自己の観念を生み出す認識さえも滅すれば、真の悟りも訪れるのじゃ。
 それがお釈迦様の示した方法なのじゃ。

 死を克服するために修行者は精進あるのみなのじゃ。


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悟りの真実 | 21:21:42 | Trackback(0) | Comments(12)