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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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自我消失の恐れも利用して進むのじゃ。
 今多くの修行者が悟りへの道を辿っているが、修行が進むにつれて自我を無くす恐れが湧いてきた者も多いようじゃ。
 それは修行が正しく進んでいる証でもあるのじゃ。
 修行しているつもりで、観念遊戯に浸っているだけならば、そのような恐れは起こらないからのう。
 本当に自我を滅しようとすればそのような恐れも起こるのじゃ。

 その恐れは観念である自我を、本当の自分と誤まって認識しているから起こるものじゃ。
 自我が無くなる事を、本当に自分が無くなることと認識してしまうから、恐れが起こるのじゃ。
 自我消失を肉体の死と同じものとして認識することからくる恐れなのじゃ。

 そのような恐れを乗り越えるためには、やはり観察が大事なのじゃ。
 自我消失の恐れを、原因から観察する事で滅することが出来るのじゃ。
 むしろその恐れをも利用して自我を観ることすらもできるのじゃ。
 それも悟りに向かう意欲があればこそ、可能になるのじゃ。

 先ずは自我消失の恐れそのものを詳しく観察してみるのじゃ。
 それは自分が無くなるという恐れと、自分を守るものがなくなるという恐れがあることがわかるじゃろう。
 他にも自分の好みとか楽しみがなくなるとかいろいろあるが、大別してこの二つが大きな恐れの原因と言えるのじゃ。

 先ずは自分が消失するという恐れから説いていくのじゃ。
 それは人が持ち続けている死の恐れとほぼ等しいものじゃ。
 肉体が消滅する死と、自我が消滅することは同じ自分がなくなる事として捉えられているのじゃ。
 そのために悟りの道を断念する者も多いのじゃ。

 元々死を超えるために悟りを目指していたのに、自分が無くなる死と同じ状態になるならば意味がないと思うのじゃ。
 それで修行もやめてしまうのじゃ。
 観察が出来れば、それもまた誤認に基づく誤解であると気付くのであるがのう。

 観念の自分が消える恐れを観れば、それが実におかしな間違いであると気付くじゃろう。
 観念が消えるだけであるのに、肉体が消えるのと同じ恐れがあるというのじゃ。
 それは取りも直さずただの観念を自分と認識している証なのじゃ。
  
 修行をしても肉体は毛一筋の傷がつくわけでもないのじゃ。
 ただ観念を消すだけなのじゃ。
 それが肉体を失くすほどの恐れが生じるのは実におかしなことなのじゃ。
 この奇妙な事実に気付く時、自分が消える恐れはなくなるじゃろう。

 ただ観念が消えるのに、肉体が消えるのと同じ恐れを持つのはおかしいからのう。
 それが気づきによる自分がなくなる恐れの厭離なのじゃ。
 全体の関連性が俯瞰的に見えたことで矛盾に気付くのじゃ。
 
 自分を守るものがなくなるという恐れも詳しく観察すれば滅するのじゃ。
 それは自我は自分であり、自分を守るものでもあると認識しているからある恐れなのじゃ。
 自我が無ければ自分が守れないという不安が恐れの原因になっているのじゃ。

 自我が自分を実際に守っているかどうか、詳しく観ていけばそのようなことはありえないとわかるのじゃ。
 守っているという幻想があるだけなのじゃ。
 むしろ自我は自分を危険な目に合わせているのじゃ。

 自分の名前とイメージを良くする為に、肉体を危険に晒したりしているのじゃ。
 勇敢な自分という名誉とイメージのために戦争で自他を傷つける選択をしていたりするのじゃ。
 更には言葉で罵られれば、自分の名前とイメージが傷付いたと思って怒り狂い、自他を破滅させたりするのじゃ。
 怒りは本当は肉体的な危険に対して、アドレナリンが出て体の動きを活発にして守る反応なのじゃ。
 それが観念の自分を守るために作用してしまうから、言葉で罵られると怒りで肉体が活発になり自他を傷つける行動に出てしまうのじゃ。

 そのように自我の働きは自分を守るよりも、傷つける事が多いのじゃ。
 そのような反応を観察する事でも自分を守る自我が消える恐れを滅することが出来るのじゃ。
 自我を滅する恐れも実践に拠って失くすことができるのじゃ。

 それも悟りを得ようとする意欲が在れば出来ることなのじゃ。
 強い情熱があれば、自我を失う恐れもまた観察して自分を知る実践にすることができるのじゃ。
 修行者はこのように自我を失う恐れもまた利用して進むが善いのじゃ。


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悟りを得るための修行法 | 21:29:26 | Trackback(0) | Comments(16)