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鬼和尚天空

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悟りとは何か。
 
 悟りとは何か、何故悟った者は悟りを人に教えようとするのか、疑問に思っている者も多いじゃろう。
 人類はどんどん発展して、悟りが無くとも上手くやっているように見える。
 余計なことを教えなくとも全て良くなっているようにも見える。

 そのように世間が見えていれば悟りも必要ではなく、それを教えるのも無意味に見えるものじゃ。
 しかし、それも一時の状態に過ぎないものじゃ。
 人には個人個人に老病死の苦があり、社会もまたいつかは滅びることを免れないものじゃ。
 永遠に個人や社会が繁栄することは無いからのう。

 やがては全ては滅び、その時には大いなる苦があるものじゃ。
 そのような苦を永遠に免れる道を悟りと呼び、それを教えることが悟った者の役割なのじゃ。

 例えば一つの村から外に出る道に朽ち縄があったとしよう。
 村人はその朽ち縄を蛇だと思って村から外に出られず、苦労しているのじゃ。
 道に蛇が居ると思うから外に食べ物を買うことも出来ず、村の外に何が在るのかも知れないのじゃ。
 
 一人の者が近づいて行ってそれが蛇ではなく、ただの朽ちた縄であったと気付いたならば、他の村人にも大声で知らせて、苦難を逃れさせるじゃろう。
 それが蛇ではないとわかれば、苦難は無くなり、皆外に出かけて何が在るのかも知れたのじゃ。

 そのようにただの誤認による大きな苦を無くす事が悟りであり、そのための方法がお釈迦様の教えなのじゃ。
 衆生は観念により、自分というものが肉体や精神としてあるという誤認をしているのじゃ。
 その誤認がある限り、苦も免れないのじゃ。

 蛇に近づくように勇気を持ってその誤認を確かめてみれば、自分というものは無いと気付いくのじゃ。
 そして苦もなくなるのじゃ。

 自分が無いとはどのようなことであろうかと、皆は不思議に思うかもしれん。
 自分が無いといっても、自分はここにちゃんとあるではないかと、肉体や精神の働きを見て言うじゃろう。
 肉体や精神は確かにあるものじゃ。
 しかし、それに自分であるという観念を重ね合わせることが誤認なのじゃ。

 朽ち縄を蛇と思うのと同じなのじゃ。
 肉体や精神が朽ち縄なのじゃ。
 自分という観念が蛇なのじゃ。
 まだ悟りを得ていない者は、村人が朽ち縄を蛇と誤認していたように、肉体や精神が自分と誤認しているのじゃ。
 そのために村人が幻想の蛇によって行いが制限されていたように、苦を受けているのじゃ。

 このように悟りとは間違って認識されていた自分という観念から解放されることなのじゃ。
 そして正しい認識に還る事で苦からも解放されるのじゃ。
 何か別のものに変化するのではなく、認識の過ちを正すだけなのじゃ。
 ただそれだけで人は苦から解放されるのであるから、悟った者は皆に悟りへの道を教えるのじゃ。
 それを理解した者は正しく実践して、恐れをも滅して、悟りの道を進むが善いのじゃ。
 


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悟りの真実 | 20:11:20 | Trackback(0) | Comments(12)