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鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
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承認の罠に気付くのじゃ。
  この世に生きる大抵の者は他者からの承認を欲しがっているものじゃ。
 他人から認められ、賛美されることに命をかける者さえおるのじゃ。
 他人に認められることに強く囚われているのじゃ。
 
 他人からの承認を求めるのと同じく、逆に他人からの非難を恐れているのじゃ。
 他人から少し注意されただけでも酷く落ち込んだりするのじゃ。
 
 そのような者は他人からの評価を気にする余り自分のしたいこともできなくなるのじゃ。
 そのために依存になったり、他人が怖くてひきこもりになったりもするのじゃ。
 それだけならまだよいほうなのじゃ。
 時には犯罪に走ったり、集団でテロ行為をしたりもするのじゃ。

 そのように人を惑わし、多くの障害を引き起こす承認を求める心には観察してみれば実に簡単なわながあると気付くじゃろう。
 そもそも他人の承認を欲するのは、子供の頃の心理に原因があるものじゃ。
 子供の頃は親からの承認が全ての生活の基準であったから、それに依存していたのじゃ。
 親が認めることをすれば生きるために役立ち、親が認めないことをすれば死の危険さえあったのじゃ。
  
 そのように世の中で危険なこととか、安全なことも親から承認されるという形で教育されたから、大人になっても承認に依存する心の働きが残ってしまうのじゃ。
 例えば車に気をつけて歩けば偉いとほめられる。
 道路にいきなり飛び出したりと危険なことをすれば叱られる。
 そのような教育を繰り返して、承認が生死にもつながる大事な生きるための規律と認識されているのじゃ。
 
 親も叱ったりするのは子のためであると言い聞かしたりするじゃろう。
 それは子に批判されると死の危険が有り、承認されれば生きられるという絶対的な価値観を植えつけるのじゃ。
 そして批判されれば自分は生きることも難しい、弱くて愚かな者というイメージを持ってしまうのじゃ。
 承認される自分は生きる強さと賢さを持つ者というイメージが持てる故に、強く囚われてしまうのじゃ。


 自分自身が何故、他人からの承認に執着し、批判を恐れるのか理解したい者は心の中のそのような原因を追求するのじゃ。
 そしてその原因から執着と恐れがあることに気付けば、それもまた滅するのじゃ。
 わしの話でその通りじゃと、想うだけでは何も起こらないのじゃ。
 自分で心を観察して、その原因から承認への執着があり、原因が無ければ執着も無いと気付かなければならないのじゃ。
 既に生きるための智慧と力を持つ者には、そのような価値観による観念は必要ないのじゃ。
 それに気付けば自然に囚われも消えるのじゃ。

 他人からの承認に囚われなければ自分の意志で、好きな道を歩んで生きていくこともできるのじゃ。
 他人を恐れることも、依存することもなくなるじゃろう。

 更に他人からの承認が必要でなくなれば、承認の価値観を利用して自己イメージを高めることも出来るのじゃ。
 そもそも承認とは他人からの肯定に拠って、自分自身を肯定的に捉える心の働きなのじゃ。
 親に褒められれば、自分は偉い者であると自分で自分を認めるのじゃ。
 親に褒められるという条件は、実は自分で自分を承認するためのスイッチに過ぎないのじゃ。

 そうであれば承認とは実は自分で自分を承認することが実体であり、他人からの承認はただの観念遊戯に過ぎないとも言えるのじゃ。
 他人からの承認への依存を脱却した者は、他人からの承認を待つ必要なく、自分自身を承認することができるのじゃ。
 そしてそれは自己イメージを高め、自分の能力と意欲を高めることも出来るのじゃ。

 それには先ず自分自身をこれからは何がなんでも全て認め、愛することを決意しなければならんのじゃ。
 自分で自分の全てを認めて愛することを誓うのじゃ。
 実際に口に出して自分に自分を認め、愛することを誓うと善いのじゃ。
 それは毎日何度も行うと善いのじゃ。

 自分に対して全ての善きものと善いものごとを与えると誓うのじゃ。
 自分自身に最高の待遇をすると誓うのじゃ。
 そしてその通りに実行するのじゃ。
 そうすれば環境もよくなっていくのじゃ。

 そのような実践をして自我を強化するのではないかとか、自分本位のエゴイストになってしまうのではないかと恐れるものも居るかもしれん。
 しかし、自我は幻想のものであるから強化はされないのじゃ。
 観察が出来れば直ぐにでも消えてしまうものじゃ。
 そうであるから自我が強化されるとかは気にしなくて善いのじゃ。

 そして自分を愛することで利己主義になることもないのじゃ。
 なぜならば本当は誰でも自分を一番に愛しているからなのじゃ。
 一番愛している自分を最も大きく強く愛していなければ、他人をも愛することは出来ないのじゃ。
 例えば自分を100位しか愛していなければ、二番以下の他人は90以下しか愛せないのじゃ。
 一番の自分が少ししか愛していなければ、二番目以下の他人を愛することが少ないのは当然なのじゃ。

 自分をどこまでも強く大きく愛していくことで、ブラフマンの法にも繋がるのじゃ。
 愛が無ければブラフマンの法も出来ないのであるからのう。
 肉体の限界を超えて、どこまでも愛を広げていくのがお釈迦さまが説いたブラフマンの法なのじゃ。
 承認に囚われた者や、他人からの批判を恐れる者は、観察と共に実践するとよいのじゃ。


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自己敬愛の法 | 17:08:10 | Trackback(0) | Comments(24)