■プロフィール

鬼和尚天空

Author:鬼和尚天空
FC2ブログへようこそ!

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
■ブロとも申請フォーム
神を知るために悟りを開くのじゃ。
  神を知るために悟りを開くのじゃ。

 仏教とは無神論であるとか、言われたりしておる。
 しかし、お釈迦様が悟りを得た時、創造神であるブラフマンが法を説くように勧請したとか、神を信じる者の為に、神は居ると言った事が記されておる。

 お釈迦様の教えとは全ての者の宝であり、神を信じる者達にも開かれているものじゃ。
 どのような思想や信仰をもっていようと、修行は出来るものじゃ。
 それが神を信じる者には、神を知り、神に近付く道にもなるのじゃ。

 例えば子供が総理大臣に会いたいとか言っても、何処にいてどのようにすれば会えるのかも知らず、自分では会う事は出来ないじゃろう。
 大人になれば総理と同じ政党に入ったり、有力者に近付いて伝手を辿って会えるようにしたりと、いろいろな手段で会えたりする。

 そのように修行しない者は智慧が無く、自らの心も観られず、心も乱れて神が何処に居るかもわからないものじゃ。
 修行すれば心は静まり、智慧が生じ、自らの心も見られるのじゃ。
 そこに神を求める事も出来るじゃろう。

 心を静め、謙虚に自らを省みる修行は、多くの神を信じる教えにも背かないものじゃろう。
 それこそが真に神を求める道とさえ言えるのじゃ。

 人が己の心の中に神を求める時、間違ってはならないのは、自我やその反映を神と思う事じゃ。
 己の為に神を求めれば、そのような間違いも起こるじゃろう。
 己を無くし、虚心に求めれば感じるじゃろう。
 その肉体にも全てと同じ本質がある事を。

 それは全てを作るものと同じ意識なのじゃ。
 それを感じれば神と呼べない神を知るじゃろう。
 
スポンサーサイト


テーマ:こころ - ジャンル:心と身体

未分類 | 20:23:39 | Trackback(0) | Comments(14)
コメント
質問です。
その肉体とは、己の肉体の事ですか?
2013-02-01 金 14:01:36 | URL | くま吉 [編集]
くま吉

そうじゃ、世間の慣習に従えば、己の肉体と呼ばれるものじゃ。
しかし、それもまた己ではなく、己のものでもないと気づくのじゃ。
それが本来のあり方なのじゃ。
2013-02-08 金 21:17:12 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
ご挨拶
鬼和尚 様

はじめまして!
まんぐーすです。

つい先日、鬼和尚のブログを発見し、ちょこちょこと読ませていただいております。

大変、ありがたいお言葉の数々です!

観察、観察、観察、、、

観察が極まったとき、

自分だと認識していた「思考の働き」と、それを観察している「意識」が別であるという認識に至る。

それが観照ということでしょうか?

そして、観察を続け、さらに観察している「意識」すらも無く、無いことも無く……言葉にできない境地に至る。ということでしょうか?

よろしくお願いいたします。
2013-02-17 日 17:47:22 | URL | まんぐーす [編集]
観照とは自我の成り立ちを観察し、それが己ではなく、己のものでもないと気づくことなのじゃ。
そのようにして自我は滅するのじゃ。

そして自我が無くともその状態を認識する仕組みがある。
それは記憶による認識であり、その認識も滅した時、悟りは訪れるのじゃ。
2013-02-21 木 13:31:44 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
ありがとうございました!

再び質問です。

苦が生じるというのは、「自我」と「苦」が同一視されているからであり、
「苦」の発生する経路を観察することで、「自我」と「苦」を分別視することに成功すれば(厭離)、苦が滅する。

ということでしょうか?

自我が生じるというのは、「認識の主体」と「自我」が同一視されているからであり、「自我」そのものの発生を観察することで、「認識の主体」と「自我」を分別視することに成功すれば(観照)、自我が滅する。

そしてさらに、認識の主体も滅したとき、それが悟りである。

ということでしょうか?

よろしくお願いいたします!
2013-02-21 木 21:00:43 | URL | まんぐーす [編集]
和尚様。
前回の続きです。

自分に対するイメージとこう見られたいというイメージを捨てればいいのでしょうか?
私は楽しさよりも気まずさが先行して、
カラオケなんかにいっても恥ずかしくて歌えません。

この異常なこわばりはどこから来るのでしょうか?
2013-02-26 火 12:57:40 | URL | いぬだいすき [編集]
Re: タイトルなし
まんぐーす

大体そのとおりなのじゃ。
そのように理解しておけば良いのじゃ。

しかし、言葉や知識は常に現実そのままと言う事は無いのじゃ。
自分で体験して、心の働きと悟りはその言葉のように在り得ると言う事を確認しなければ、意味が無いのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
2013-03-03 日 20:09:48 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
いぬだいすき

そうじゃ、そのようなイメージに囚われる事で、苦が生じるのじゃ。
それは原因があって起こるものじゃ。
おぬしの心の中にその原因はあるのじゃ。
自らの心を観察し、その原因を探し出すのじゃ。

昔、人前で恥をかいたと言う記憶があるとか、親や友人に罵られたとかそのような原因があるのかも知れん。
その原因が判ったら、苦を消すのと同じように、原因から苦が生じ、その原因が無ければ苦も無いと観察したら良いのじゃ。
そうすればその感情も消えるじゃろう。
2013-03-03 日 20:16:01 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
鬼和尚 様

ありがとうございました!
はい、実践してまいります。
今後ともよろしくお願いいたします~!
2013-03-05 火 10:42:38 | URL | まんぐーす [編集]
記憶
こんにちは。

苦をもたらしている記憶についてですが、幼少期の記憶というのは殆ど覚えていないことが多いです。
また、例えば子供のころ「鼻がでかい」と笑われた人がその出来事、記憶によって内気な人間に育ったとして、原因が子供時代の記憶であることを突き止めても
鼻がでかいという事実は変わらないわけで、やはりその人は鼻のでかさを気にしてしまうのではないでしょうか
そして「ああ僕の鼻がまともだったら」と悩むのではないでしょうか

2013-03-07 木 13:26:23 | URL | インクレディブル [編集]
そうじゃ。
鼻のでかい事は変わらないじゃろう。
しかし、原因から生じた苦の連鎖を観察する事で、もはやそれは苦にならなくなるのじゃ。
それに苦を感じる回路に対する投射が無くなる故に、もはやその苦を己の者として味わう事は無くなるのじゃ。
例え以前として鼻がでかくとも、それを苦にした事に対する気づきがあれば、何度もそれに対する厭離が起こるものじゃ。
人が苦しむのは、鼻がでかいからとかの対象があるからではなく、対象から生じる心の働きの連鎖が止められないからなのじゃ。

原因からの観察による気づきがあれば、対象を認識する毎にもはやそれを克服したものとしてのみ認識するのじゃ。
2013-03-11 月 14:29:00 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
まんぐーす

そうじゃ、実践あるのみじゃ。
またおいでなさい。
2013-03-11 月 14:30:08 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013-03-25 月 07:14:31 | | [編集]
Re: タイトルなし
孫悟空

全く信用できないのじゃ。
自分が何について語っているのかさえわかっていないのじゃ。
2013-03-28 木 15:38:55 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad