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鬼和尚天空

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役割を超えるのじゃ。
 人は誰でもいろいろな役割を抱えているものじゃ。
 家庭では父親とか母親とか兄弟姉妹とか子とかの役割があり、社会に出れば学校の生徒とか会社の社員とかの役割があるじゃろう。
 
 そのような役割があれば、人は心の中にその役割に適した反応の習慣を創り上げるのじゃ。
 それによって外にさまざまな性格を持つ個人として認識されるのじゃ。

 そのような反応の習慣を心理学では仮面とかペルソナとか言ったりするのじゃ。
 そのような習慣が長年たつと人は仮面と自分の本来の性格がわからなくなったりするのじゃ。

 本当は暗い性格なのに社会での必要上明るい性格を演じていたりすれば、無理が生じてストレスも溜まったりするのじゃ。
 役割を演じる上で必要なものと、自分が本来必要とするものが判別しがたくなる者も居る。
 そのようであると自分が何をしたいのか、何をするべきなのかも判らなくなるのじゃ。

 時には全ての役割を離れ、本来の性格がどのようなものであるか、自ら知る事が肝心なのじゃ。
 それが本当に自らを知る事なのじゃ。

 役割の性質を知った所で、それは自分を知った事にはならないのじゃ。
 それは幾らでも変えることが出来るものであるからのう。

 日頃から自分に役割があることを知り、それを観察していればその反応にも気づくようになるのじゃ。
 会社の社員としての反応であるとか、親としての反応であるとか、理解していればそれを超えることも出来るのじゃ。

 一つの役割はそれによる一方からの視点しかもたらさないものであるから、一つの役割に深く囚われてしまうと自分の事も、他人の事も判らなくなったりするのじゃ。
 本来ならある筈の他人に対する慈悲心も役割によって隠されてしまい、人の心も判らなくなるのじゃ。

 そうすると記憶と反応による機械のような者になってしまうじゃろう。
 多くの者がそのような機械的な反応によって、世を過ごしているのじゃ。
 そして何をすれば善いのかも判らなくなるのじゃ。
 
 日々の観察によって役割があることに気づき、その反応を注視すれば、役割を超えることも出来るのじゃ。
 そして与えられた役割の仮面の奥にある、本当の性格を知るように勤めれば、本当の生き甲斐も知れるじゃろう。
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テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

元気が出る説法 | 22:07:17 | Trackback(0) | Comments(14)
コメント
引き寄せの法則は真実ですか?
でっち上げでしょうか?

また、
http://sonicch.com/archives/21864091.html
この記事にあるようなことは起こりえますか?
2013-06-29 土 22:26:23 | URL | いぬだいすき [編集]
質問
鬼和尚様

お世話になっております。まんぐーすです。
修行に関しての質問ではないので恐縮なのですが……。般若心経の文である「以無所得故 菩提薩佗 依般若波羅蜜多故 心無罫礙」の中の「以無所得故」のある意味がわかりません。

:所得(に実体)はないので、菩薩は般若波羅密多に拠り、記憶による認識が無くなる。
:智慧を得ること(に実体)はないので、菩薩は般若波羅密多に依り、智慧を得ることができる。

そんなような訳なのだと思うのですが、言葉のつながりが分かりません。
よろしければ解説をお願いしたく思います。よろしくお願いいたします。
2013-07-04 木 14:37:22 | URL | まんぐーす [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013-07-13 土 08:29:29 | | [編集]
Re: タイトルなし
 引き寄せはあるのじゃ。
 お釈迦様もこのように言っておる。

1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
 車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。
 影がそのからだから離れないように。

 これこそ正に引き寄せなのじゃ。
 善事を常に心掛ければ福楽が引き寄せられるのじゃ。

 その記事は創作じゃろう。
 そうでなければ妄想じゃろう。
2013-07-15 月 21:08:00 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: 質問
まんぐーす

 そこは文章が1回切れているのじゃ。
 前の文から「無智亦無得。以無所得故」で、意訳すれば「智慧も無く、得る事も無い。所得するという観念も無いからである」
 となるのじゃ。
 
 それから「菩提薩佗 依般若波羅蜜多故 心無罫礙」となるのじゃ。
 「菩提薩佗は般若波羅蜜多に依るが故に、心に疑いなし」というような意味なのじゃ。

2013-07-15 月 21:25:38 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: 役割
忘名

どういたしまして、またおいでなさい。
2013-07-15 月 21:27:30 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
質問2
鬼和尚様

ご回答ありがとうございました。
まんぐーすです。

般若心経の本題の質問もさせていただきます。般若波羅密多マントラですが、それは観照を起こすための道具として唱えると理解しています。心の中で言葉を唱える要領としては、数息観にしても、般若波羅密多にしても、集中の持続や、観察の持続を保てるように、落ち着いて繰り返すことだと思ってはいるのですが、何かアドバイスがあれば、ご教示いただきたいです。よろしくお願いいたします。

2013-07-16 火 10:09:37 | URL | まんぐーす [編集]
こんにちは

悟った感じというのは常に恍惚感があるのですか?
osho(ラジニーシ)さんなどは物理的にあまり動かず、心も動かない人のように見えますが、
凡からすると犬や子供がはしゃいでるようなものに「幸」を感じます。
ぴょんぴょん跳ねるようなワクワクや激情です。
ドラゴンボールの悟空が強敵を前にして目を輝かせてる感じです
悟った人の平静の中の幸福感というのはこれとは比較にならないほど恍惚なのでしょうか。
それとも悟った人が大人しいというのはただのイメージですか?
2013-07-28 日 21:06:08 | URL | ブブ [編集]
Re: 質問2
まんぐーすです。

そのようなものは集中の為の対象に過ぎないのじゃ。
集中力がつけばそれを唱える事も邪魔に思えてくるものじゃ。
その時には潔く止めて対象が無くとも集中した状態が保てるようにするのじゃ。
それが対象の無い三昧への道なのじゃ。
2013-07-31 水 20:59:18 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: タイトルなし
ブブ

 常に恍惚感があるものではないのじゃ。
 自分で止めたり出来るのじゃ。

 悟った者の寂静は一切世間の幸福感とは比較にならないほどなのじゃ。
 もはや必要ではないがのう。
 
2013-07-31 水 21:01:44 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013-08-05 月 13:30:31 | | [編集]
お礼
鬼和尚様

まんぐーすです。ありがとうございました。
なかなか。。。そこまでの道のりを。。。遠くに感じています。。。
たゆまず練習していきます。
またよろしくお願いいたします!
2013-08-05 月 21:45:39 | URL | まんぐーす [編集]
Re: タイトルなし
ブブ

どういたしまして、またおいでなさい。
2013-08-19 月 19:08:00 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
Re: お礼
まんぐーす

そうじゃ、実践するものだけが進んで行くのじゃ。
またおいでなさい。
2013-08-19 月 19:35:37 | URL | 鬼和尚天空 [編集]
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