投稿日:2013-10-29 Tue
観察を行う目的は気づきを得るためなのじゃ。気付く事で人は苦を厭離し、自由になるのじゃ。
例えば道の真ん中にでかい蛇が居ると見た時、人は恐れて道を行く事が出来なくなるじゃろう。
しかしよく観察して、それがへびではなく縄であったと気づいたならば、もはや恐れは無く、自由に道を行く事が出来るじゃろう。
そのように気付きとは、対象を良く観察して真実を見出す事なのじゃ。
観察して真実に気づいたとしても、何か外部の世界が変化する訳ではない。
蛇がどこかに行き、縄が現れたのではない。
蛇がどこかに行ったから恐れが消えて、道を行けるようになったのでもない。
縄は元から縄であり、自分が知らなかっただけなのじゃ。
元々縄であったものを、蛇と間違えていた自分の認識が正されるのじゃ。
そして恐れが無くなり、道を自由に行く事が出来るのじゃ。
気付きによって変わったのは、自分の認識なのじゃ。
認識が変わった故に、恐れが無くなり、自由に道を行けるようにもなったのじゃ。
それが気付く事による解放なのじゃ。
同じようにもし人が肉体が自分であり、肉体以外に自分は無いと認識していたならば、肉体がやがて無くなる恐れがあり、恐れによって苦を生じる事になるじゃろう。
感情や思考や認識能力等もそれだけが自分であり、他に自分は無いと認識していれば、同じように恐れと苦があるじゃろう。
しかし、観察する事によって自我を滅し、それらが己ではなく、己のものでもないと気付いたならば、恐れは消え、苦も無くなるのじゃ。
それら肉体や肉体の作用や能力が変化したり、消えたりするのではないのじゃ。
ただ自らの認識が変化しただけで、恐れは消え、苦は無くなり、心は自由になるのじゃ。
それが気づく事の作用なのじゃ。
悟りも自我の作用に気付く事で自我は無いと知り、認識の作用に気付く事で認識を滅して得られるのじゃ。
肉体や心が変化するのではなく、自らの心の真実のあり方を見出す事で、悟りは得られるのじゃ。
修行者はただひたすらに心を集中し、自らの本心を観察し続けるのじゃ。
そうすれば気付きが訪れ、悟りは得られるじゃろう。
スポンサーサイト
△ PAGE UP